新・パフの創業物語<第46話>「500万円出しましょう!」
2020年9月3日 (木曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第46話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
またまた引き続き1997年10月下旬。
若手起業家の支援をライフワークとされているKさんの事務所を、オプトの鉢嶺さんと一緒に訪れたのでした。
釘「鉢嶺さん、ほんとーにその方は、何の面識もないボクなんかに資金を提供して下さるものなんですかねー?」
鉢「それは釘崎さん次第だと思いますよ。しっかりとした理念と事業プランを説明できれば良い方向に話は進むと思いますが」
釘「し、しっかりとした『事業プラン』ですか……」
ボクがこの日用意していたのは、友人に出資をお願いするときに作っていた、「事業計画書」と呼ぶにはあまりに厚かましいA4用紙2枚の「紙切れ」だったのです。
(えーい!ともあれ、あたって砕けろだ!)
なかば開き直りつつ、高田馬場にある事務所に到着したボクと鉢嶺さんは、Kさんの部屋に通されたのでした。
Kさん 「やー、鉢嶺社長、よくいらっしゃいました。あ、この方が例の就職情報のビジネスでの起業を考えておられる方ですね」
釘「ど、どうも初めまして。クギサキと申します」
Kさんはとても背が高く、体格もよく、高そうなダブルのスーツをキチッと着こなしており、しゃべり方もとても紳士的で表情も極めて柔和なのですが、風格というか威厳が漂っており、「むむむ、これはタダモノではないな」というのが一目で見て取れる、そんな方でした。
鉢嶺さんから後に聞いたところ、この方は数年前ゼロから興した不動産関係の会社を株式公開し、そこで得た創業者利益(株の公開益)を資金にしてベンチャーキャピタルを運営しているとのこと。
しかし、Kさんが株式公開したその会社は複雑な事情があって某大企業の子会社となり、ご自身は自分が作った会社を辞任せざるを得ない、という大きな挫折を経験した方でもあったのです。
そんなこともあって、今後は自分が実業界の表舞台に立つのではなく、有望な若手起業家を発掘し支援していくことを自分の使命とされていたのでした。
ボクはこの時、そんな細かい事情は一切知らず、ただただ出資を仰ぐことだけに気持ちを集中させていました。
Kさん 「さて、それじゃあクギサキさん、あなたの考えておられる事業プランをお聞かせ願えますか?」
ボクは手元にあるたった2枚の「紙切れ」をKさんに渡し、身振り、手振り、口からはツバを飛ばしながら、自分の考えている就職情報ビジネスについて30分ほど語りました。
Kさんは、ボクがひと通りの説明を終えた後も表情を変えずに、しばらくじっと2枚の紙切れを眺めていました。
Kさん「それで、会社を作るためにあといくら必要なんですか?」
この時集まっていたお金が、自分の出資分も入れて約400万円。あと100万円くらいは、これから会う友人や知人で、なんとかなるだろう。とすれば、会社設立までに必要な残額は・・・
釘「ご、500万円です」
Kさん「わかりました。出資させていただきましょう」
釘 「え!ほ、ほんとですか?」
Kさん「もちろんですよ、がんばりましょう!」
Kさんはスクッと立ち上がり、ボクに握手を求めてきました。
ボクは、一瞬なんだかよく分からない感じだったのですが・・・
釘「あ、ありがとうございます!!!」と、次の瞬間には握手に応じていたのでした。
お会いしてから30分しか経過していないのに、500万円の商談(?)が成立した瞬間でした。
Kさんは後に、
「いやー、しかしよく私もあんな紙切れ2枚の事業計画に、しかも初めて会った人に対して出資の判断をしたものだと思いますよ。まあ、クギサキさんの会社が将来成功したら美談になるんでしょうけどね(笑)」
と、冗談交じりに仰っていましたが(汗)。
ともあれ、これで会社設立まであと一歩。ムライさんにそそのかされた夜から数えてまだ2週間。
こんなに簡単にコトが運んでいっていいのだろうか……。
すべてがトントン拍子に進んでいくことに、逆にちょっと怖ささえ感じられた秋晴れの日でした。
(次回、何か波乱でもあるのかな?つづく)
Kさんはこの後、約15年間、パフの大株主として僕の相談に乗ってくださっていました。
5年ほど前に個人事務所を閉鎖し完全に引退されたのですが、3年前の20周年記念には体調のすぐれないなか、わざわざ遠方からお越しいただいたりもしています。
出資してもらった500万円が紙屑になることはなんとか免れたものの、何倍ものお金に化けるまでには至らなかったことは申し訳なく感じています。
ご無沙汰をしてしまっているので、世の中が落ち着いてきたらご挨拶に伺わねばと、今日の物語をリライトしながら思った次第です。
さて、本日は朝から出社です。お昼ご飯を食べるために(笑)。
では朝食&エール再放送後、行ってきます!
新・パフの創業物語<第45話>「出資者を求めて東奔西走」
2020年9月2日 (水曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第45話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
引き続き1997年10月下旬。
会社を作るための最低資本金が(1997年当時の法律では)1,000万円、現在集まった金額が200万円。
あと800万円を、なんとか調達しなければ会社を設立することができない。
ボクは昔からの仲の良かった友人を中心に、ひとりひとり連絡をとり、新会社の事業計画を説明し、いずれ利益が出たら配当することを約束し、出資者を募ることにしたのです。
いちばん多く会ったのは、学生時代の仲間たち。
「俺さー、会社作ることにしたんだ。ついてはお前にも株主になって欲しいんだけど・・・1株でも2株でもいいから出資してくれんだろうか?」
いつもは、ヘラヘラとふざけていたボクが、かなりの真面目モードで迫ったこともあってか、
「わかった、お前が会社作るんだったら、なんとか協力するよ!」
と、会ったかつての仲間たちほぼ全員から出資の約束を取り付けることができました。
1株で5万円、2株で10万円の出費。サラリーマンにとっては、極めて大きな金額です。
しかも、返ってくる保証は(その時点では)まったくと言っていいほどない。また、この年は、橋本内閣の失政など(消費税増税、アジア通貨危機の発生、国内金融システム
の不安)により、景気が奈落の底に落ち始めた時でもあり、企業の倒産が相次ぎ、経済の先行きが非常に暗い頃だったのです。
それにもかかわらず、学生時代の仲間たちは皆、出資を快く引き受けてくれたのです。人数にして約10数名。感謝の言葉もありませんでした。
しかし、それでも集まったお金は、まだ300万円程度。
「うーん、まだまだ前途多難だな~」
この時、救世主となってくれたのが、現在(注:2000年当時)パフの協賛企業でもある株式会社オプト社長の鉢嶺さん。
オプトは当時、FAXを利用した営業・販売支援企画を企業に提供しており、ボクは「登龍門」の販促を通じてお付き合いをさせてもらっていました。
同時にオプトの新卒採用を「登龍門」を通じて行ってもらう関係でもあり、鉢嶺さんとは親密なお付き合いをさせてもらっていました。
この時、鉢嶺さんは29歳の好青年。大学卒業後、ある大手企業を経たのち会社を設立・成長させてきた、若きベンチャー経営者でした。
釘:「鉢嶺さん、ボクついに会社をつくることにしましたよ!」
鉢:「へー、おめでとうございます。よく思い切りましたね。でも釘崎さんが会社をつくるなんて楽しみだな。で、株式会社ですか?よく資本金を用意できましたね」
釘:「い、いや、それが・・・実はまだこれからでして……」
鉢:「え?そうなんですか?よし、わかりました。じゃあボクが出資してくれそうなベンチャーキャピタルの方を紹介しますよ」
こうして、話はトントン拍子に進んでいき、数日後、起業家支援を手がけるベンチャーキャピタルのオーナーの方と面談することになったのでした。
(1,000万円までの道のりは遠いですね。つづく )
今回は、いまやIT業界の雄となっているオプト(現デジタルホールディングス)創業者の鉢嶺さんが登場しました。
以下の写真は、パフ創業時オプトの新入社員だった菊ちゃん(菊ちゃんの詳細はこちら⇒創業時メンバーの菊ちゃんが帰ってきた!)と鉢嶺さんと、3年前に一緒にご飯を食べた時の写真です。
パフ創業の陰には、いろんな方々のご支援があったんですよね。
現在のパフの社員たちにも、この事実は知っておいてもらいたいことです。
さて、本日の午前は、パフ第25期9月度のキックオフミーティング。僕は自宅からオンラインでの参加です。業績の進捗はどうなってるのかな?
では、朝食&エール再放送後、在宅します!
新・パフの創業物語<第44話>「紙切れ2枚の事業計画書」
2020年9月1日 (火曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第44話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1997年10月中旬。
カミさんの承諾を取り付けたボクは、なんの気兼ねもなく正々堂々と独立に向けた準備を進めることができるようになっていました。
まず、真っ先に報告したのは、あのムライミツル氏。
釘:「ムライさーん、ムライさんの忠告通り、カミさんを説得し味方につけましたよ」
ム:「え?何の話?」
釘:「何の…って、おれ会社作るんですよ、作れって言ったのはムライさんでしょ?」
ム:「えー!?そうかあ、作るのかあ、へー、そうかあ、思い切ったなあ、へー」
まー、もともとこんな感じの人なので、あまり気にしませんでしたが(笑)。
そして、次の報告&相談が兄貴。そもそも弟のボクをリクルート業界に引きずりこんだのは兄貴。
このとき兄は、リクルートのグループ会社の社長に就任したばかりでした。
そんなことで兄にはぜひ出資を仰ぎ、株主になってもらおうと思って電話したところ・・・
釘:「あ、もしもし俺、清秀だけど久ぶり。あのさー、俺会社作ることにした」
兄:「そうかー」
釘:「よかったら出資してくれないか?」
兄:「わかった。100万円くらいなら何とかするぞ」
兄からは、少しは反対されるかと思いきや、むしろ独立することを喜んでくれたようでした。しかも100万円ポーンと出してくれるというので、逆に拍子抜けしたものでした。
さて、これで資本金は、とりあえず自分のお金(実際は娘名義の貯金ですが)とあわせて、200万円確保したことになります。
あと800万円をどうするか。
「そうだ!昔からの友人をリストにして、一人ひとりお願いしてみよう」
「とりあえず、『事業計画書』をつくんなきゃ!」
そして苦心の末できあがったのは、A4サイズ2枚だけの事業計画書。
今読み返すと、恥ずかしくなるほど拙いものでした。
そして、作成の翌日から本格的な出資者探しが始まるのでした。
( 詐欺でつかまるなよな! つづく)
結果から書くと、出資者を探し始めて1か月も経たないうちに、資本金1,000万円を集めることができたのですが、この間、会って話をした人は約30名。そのほとんどの方々には株主になっていただくことができました。
このときはまだサラリーマンなので、会えるのは夜間か土日。しかも、まだ携帯電話が普及していなかったころですから本人を捕まえるのにも苦労したものですが、我ながら粘り強く、よく頑張ったものだと思います。
フォークソング居酒屋開業に向けて同じことをやれと言われても、とても真似できないです(苦笑)。
さて、本日は終日在宅勤務の予定です。最近では本業以外の仕事がやたらと降ってきて意外と時間がありません。きょうも最後の打ち合わせが終わるのが夜の8時だし。眠くならないようにしなきゃ💦
では、朝食&エール再放送後、仕事します!