新・パフの創業物語<第34話>「初めての転職活動」
2020年8月17日 (月曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第34話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1990年5月。
社会に出て7年目。それまでにもいろんな壁や困難な状況はありましたが、この時ほど「得体の知れない焦燥感」に苛まれた日々はありませんでした。
「と、とにかく、この場所を離れなきゃ!」
そう考え、当時の直属の上司であった部長に辞表を提出し、少しは気が楽になるかと思いきや、今度は自分の将来に対する「得体の知れない恐怖感」に襲われるようになったのです。
この「得体の知れない焦燥感」や「得体の知れない恐怖感」ほどやっかいなものはなく、底なしの沼に吸い込まれるような日々でした。
一方で、辞表を受け取ったM社の役員クラスの方々は毎日のようにボクをお茶やランチに誘ってくださり、とても熱心な慰留をしてくださいました。
M社の実質的なトップからは、高級な料亭で「頼むから辞めないでほしい」との丁寧な説得をされ、「こんなダメな若輩者にそこまで期待してくださっていたのか……」と、正直言って相当に心が揺れました。
しかし、会社に残って働く自分の将来の姿がどうしても想像できない。様々な心の葛藤を経て、やはり自分は辞めるしかない、と決意し、「当てのない転職活動」を開始することにしたのです。
S社からM社への転職経験を持つボクでしたが、その時はスカウトだったため自分で履歴書すら書いた経験がなく、実質的に今回が生まれて初めての転職活動でした。
会社(M社)には、引継が終了する1ヶ月後を退職日として宣言していたため、30日以内に次の会社を決めないと「プー太郎」になってしまいます。
リクルート時代やS社で採用担当をやっていた時は、偉そうに「就職」について語っていたくせに、いざ自分の就職になるとからっきしダメで、なかなか自分にとって相応しい会社を探し出すことができずにいました。
なかなか「これ!」といった会社が見つからず、途方に暮れていたある日、書店で買った就職情報誌(B-ing)を読んでいると、とあるソフトメーカーの求人広告が目に飛び込んできました。
F-1のレーシングカーをあしらったその広告。なぜか親しみを覚え、受けてみようかな…という気持ちになったのでした。
季節はもう初夏。釘崎青年は汗を書きながら履歴書と職務経歴書をまとめはじめていました。
(がんばれ転職活動!…つづく)
いやー釘崎青年、悩んでますね(苦笑)。
ところで僕が読んでいた「B-ing」という就職情報誌、僕がアルバイトをしていたリクルートが発刊していたメディアです。1975年に「週刊就職情報」という名前で創刊されたもので、僕も売ったり原稿を書いたりしたことが何度もありました。
雑誌名を「B-ing」にしたのは1988年。技術者専門の就職情報誌「ベルーフ」と統合してこの名前になりました。コンピュータに携わりつつも営業や企画を志向していた僕にとって、ありがたい情報誌だったわけです。
当時のリクルートの就職情報誌は、こうやって多くの人々の人生に多大な影響を与えていました。読者になってみて、そのことをあらためて感じた30年前の釘崎青年でした。
さて、お盆休みも終わって、今日から世の中はビジネス再開モードですね。
僕も今日は久々の出社。1億円の商談をするのであります( ^)o(^ )。
では、朝食&エール再放送後、行ってきます!