パフ代表の徒然ブログ「釘さん日記」

母べえを観た日

2008年2月2日 (土曜日)

この日記でも以前から「観にいかなきゃ!」と書いていた映画 『母べえ』 を、きょうやっと観にいった。

場所は、豊洲の“ららぽーと”にあるユナイテッドシネマ(シネコン)。開始寸前だったこともあるのだが、ほぼ満席の状態。いちばん端っこの席をかろうじて予約できた。

中に入ると、僕よりも年上の方々が多く目立った。中には、70歳を超えるくらいの高齢の方々もいた。おそらく、『母べえ』と同じ時代(昭和15年~)を過ごした方々であろう。

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素晴らしい映画だった。吉永小百合は、さすがである。62歳とは思えない。作中ではおそらく40歳前後の役なのだろうが、まったく違和感がない。強さと優しさと美しさと可愛さと儚(はかな)さを、あれだけバランスよく演じられる女優は、いまの映画界には他にいないのではないか。

浅野忠信も、いい役者だなとあらためて感じた。ああいう役はいままでなかっただろうに、まさにハマリ役だった。

檀れい。いいなあ、とても好きになった。約1年前の、やはり山田洋次監督の、『武士の一分』で初めて彼女のことを知って、いいなあと思ったのだが、きょうの映画で、その思いは決定的になった。

笑福亭鶴瓶。さすが師匠。重苦しい時代背景のなかで、鶴瓶が演じる仙吉おじさんの存在にはずいぶんと助けられる。吉永小百合にとって、役の上でも、撮影の場所でも、癒しの存在だったに違いない。

と、僕は映画評論家でもなんでもないので、ここらへんにしておこう(笑)。

それにしてもこの映画は、若い人たちに観て欲しい。特に日本の戦前・戦中・戦後の歴史を学びはじめる、中学生や高校生にこそ観て欲しい映画だ。

それと、絶対に観て欲しい人たち。それは、現代の『母親たち』である。

自分たちの権利ばかりを主張し、自身の責任や役割を放棄してしまっていることに気づいていない、“モンスターペアレント”とも呼ばれている母親たちに、ぜひ観て欲しい映画である。

毎月1回のペースで、パフの姿を動画のニュース形式で伝えているコンテンツ。それが 『月刊パフ The Movie』 だ。

11月号からはじまり、現在は1月号まで公開している。先日のパフ創立10周年記念式典の演劇の模様も、特別号 として収録されている。

本日は、4回目の放送の収録だった。

今回のゲストは、 株式会社就職エージェント の下薗社長。あいかわらずカッコいい。

2月号の公開は2月15日。楽しみにしていよう。

パフでは毎月、最終日に、 『締め会』 という全社会議(社内イベント?)を行っている。

一ヶ月の業績(受注金額と粗利益)速報や、各グループやプロジェクト、委員会の活動内容を報告しあう会議だ。

社員全員が、お互いの仕事を理解しあったり、励ましあったり、刺激しあったり、競争しあったり、親睦を深めたりするには、絶好の『場』だと思っている。

この場では、月間MVPの発表を行う。その月にいちばん活躍した人を称える賞だ。ほかにもその時々にあわせての各種表彰が行われている。

会議終了後は、ビールで乾杯し、出前のピザやオードブルや乾き物のつまみを囲んで、小宴会を行う。

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そしてきょうは、今年初めての(1月度の)締め会。

2008年初のMVP受賞は、新入社員のキムラだった。

キムラの受賞の喜びのコメントがイカしている。

『MVPごときを私がもらうなんて…』。一瞬、皆の頭が「?????」の状態になってしまった(笑)。

また、システム担当者として先日より(パフの非常勤監査役が経営するIT企業から)出向してきているフジノくんの歓迎会も行われた。

本格的な(?)男性メンバーということもあり、パフの女性陣の興奮振り、ハリキリ振りが面白かった。いや、たしかにフジノくんは(内面的に)カッコいい男である。パフのお局、ヨシカワと同学年のナイスガイである。

そうそう、肝心の業績はといえば、見事、一月度は目標をクリアした。あっぱれ。めでたい。

さあ、あすから2月。また新たな、そしてよりハードルの高い勝負が始まる。全員で頑張って、2月の締め会も楽しく開催したい ものだ。

ひさびさの会社の日

2008年1月30日 (水曜日)

四日間の九州遠征を終え、本日は久々に朝から会社に行った。

「久々に」と書いたが、会社を休んだのは2日間のみなので、客観的に見ると、久々というほどでもない。

が、実感としては、「超久々」。2ヶ月ぶりくらいの感覚なのである。ホントに不思議なものだ。

きょうはとくに外出もせず、来客対応を中心に過ごした。

さてさて、あすは1月度末。どのような成績で着地するか。1月の数字が、2ヶ月分くらい増加してくれていると嬉しいんだけどな(苦笑)。

故郷をあとにした日

2008年1月29日 (火曜日)

今回の帰郷も本日で終了。タイムトラベルから現実の世界に戻ってきた。

もともとは高齢の母親(なんと大正12年生まれ)のために計画された帰郷だったのだが、恩師の墓参りや、旧友たちとの再会などを果たすこともでき、なかなか充実した時間だった。

一方で、今回の帰郷であらためて考えさせられたことがある。

それは、過疎と少子高齢化社会と格差社会についてである。

聞くところによると、故郷の由布院は、65歳以上の人口が25%を超えている という。高齢化社会どころか超高齢社会なのである。

なにしろ子供がいない。土曜日や日曜日だというのに、外で遊ぶ子供の姿が見えないのだ。また、母親の面倒を見てくださっている方々が、やはり高齢なのである。おじいちゃんやおばあちゃんが、もっと年上のおじいちゃんやおばあちゃんの面倒を見ざるを得ないという状況だ。

中学時代の恩師が眠るお墓にクルマで行ったのだが、途中の町のあまりのサビれ様にビックリした。急行列車が止まる駅であるにもかかわらず、食堂ひとつない。ポツリポツリある商店は、みなシャッターが下ろされていた。

子供の人数が少なくなり、おじいちゃん・お婆ちゃんの数は増えていく。そして若者が少なくなったエリアでは、緊張と刺激さえも少なくなり、ますます活力が失われていく。

東京にいると、少子高齢化やら過疎やら聞いても、いまひとつピンと来ないのであるが、こうやって目の当たりにすると、 『どげんかせんといかん』 と思う。

地方の産業を活性化させ、若者を都会から呼び戻し、子供を安心してたくさん生み育てられるような施策や環境を作る。これからの日本の発展の鍵は、地方の政治経済の施策にかかっているような気がする。宮崎県の東国原知事のような、分りやすく精力的に動き回ってくれる知事や市長や町長や村長が、もっともっと大勢必要なんだろう。

と同時に、(僕のような)地方出身の経営者が、自分を生み育ててくれた故郷に対して、なんらかの恩返しをビジネスを通して行わなきゃならないのではないか。じゃあ、自分はいったい何ができるのだろうか……。なんてことを真面目に考えた、この四日間であった。

大雪の故郷で旧友に感謝した日

2008年1月28日 (月曜日)

由布院は朝から大雪だった。風が強く、大雪というより吹雪という感じだ。

由布院は昔から、ここはホントに九州か、というくらいたくさんの雪が降る土地だ。僕が小学生のころは、30センチくらいの積雪など珍しくなかった。雪の降る日は、黒い長靴を履いて学校まで通ったものだが、きょうは、そんな小学生のころを思い出させる大雪の日だった。

この大雪のなか、僕は朝からあちらこちらに動き回った。

まずは由布院役場。小学校、中学校と同級生だったKを訪ねていった。Kは町の防災の担当をしている。由布院の夏は台風が多い。山に囲まれ、町の中央には川が流れていることもあり、毎年入念な防災対策が必要となる。Kは、市町村合併によって横の連携が極めて悪くなった役所の組織に苦労しながらも、町を災害から守るための仕事をしている。

で、東京に住んでいる僕が訪ねたのは、もちろん災害対策のためではない。

ひとりで暮らしている高齢の母親のことでの相談だった。Kは自分の仕事はそっちのけで親身に相談に乗ってくれた。

そして関係部署のひとたちとの面談をセッティングしたり、ぜんぜん違う別の場所にある社会福祉事務所まで車で運んだりしてくれた。

おかげで、とてもスムーズに話は運び、今回の帰省の成果を予定以上にあげることができた。持つべきものは、幼なじみである。外見は、すっかり 「役場のおいちゃん」 になっていたKであったがホントに感謝である。

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一連の福祉関係の仕事(?)を終え、バスで福岡に移動。福岡市内まで2時間ほどで着く。高速道路のおかげで九州隣県同士の距離が短くなった。

昨日、中島先生の墓参りでいっしょだったWとふたたび落ち合った。博多に住んでいるもうひとりの同級生、R子ちゃんに会うためだ。

このR子ちゃん。実は僕が書いた『すばらしき100の出会い』というコラムに登場する人物である。

僕がR子ちゃんと同じクラスだったのは、小学校5,6年生のころ。WはR子ちゃんとは、中学生時代に生徒会長と副会長という間がらだった。

この晩、R子ちゃんとWと僕の3人で、博多の飲み屋さんで一献傾けた。昔と変わらず、いや昔以上に美人になったR子ちゃんと、こうやって一緒にお酒が飲めるなんて、夢のようである。

僕が書いたコラムをちゃんと読んでくれていたR子ちゃんは、『なんかパンダは私のこと勘違いしよるんやないのぉ?私は、ああみえて案外たくましかったんよ』と笑っていたが、なんのなんの、やはり僕の中でのR子ちゃんは、いつまでも小学生時代の『か弱き美少女』のままである。

でも、すでに旦那さんもおり、大学受験を控えた子どももいるR子ちゃん。家事と会社勤めを両立させ、仕事も毎日バリバリこなしているという。たしかに“か弱い”わけはないな^^;。

さてさて、あすはいよいよ東京に戻らなければならない。ちょっと名残惜しい気もするが、いつまでもノスタルジに浸るわけにはいかないよな(笑)。

パフは毎週月曜日に、学生向けのメルマガを発行している。

パフを創業して2年目(西暦1998年の年末)から現在まで、ずーっと続いている。西暦2002年ころまでは、執筆兼編集者は、僕が自ら担当していた。

当時は『パフのメンバーメール』と呼んでいたのだが、その人気コーナー(と勝手に決め付けている)のひとつに、 『パフの創業物語』というのがあった。2000年7月から2001年8月までの約1年間。僕の生い立ちからパフ創業までを、物語風に書き綴ったコラムである。

全52話にもおよぶコラムなのだが、その始めのほう、第6話に、 『中島先生』という話がある。

僕の中学3年生のときの担任の先生だ。僕がきょうまで(比較的)まともに人生を送ってこれたのは、この中島先生のおかげかもしれない。 『人が人として生きていくために大切にしなければならないこと』を、たくさん教えてくれた恩師である。

しょっちゅうビンタを喰らっていた。グーで殴られたことだって一度や二度ではない。が、一度も先生を恨んだことがない。すべてに“愛情”がこもっていたからだ。

『こりゃ、パンダ! (僕のあだ名) 、何しよるんじゃあ!!』 といって、僕をダシにしながら、おどけてクラスに笑いを振りまいてくれたこともよく覚えている。

その中島先生が昨年亡くなられた。聞いたのは昨年の暮れだった。とてもショックだった。

最後に先生とやりとりしたのは、一昨年の年賀状。それまで無礼を重ねていた僕は、卒業30周年ということもあり、先生に年賀状を書いた。

すぐに返事が来て、 『顔を見せてくれんから、中国四川省に里帰りしたのかと思っていたぞ』と書いてあった。あいかわらずユーモア溢れる突っ込みだなと笑ってしまった。

考えてみれば、最後にお会いしたのは僕が大学4年生の正月の帰省のとき。先生の自宅で深夜まで酒を飲み、酔いつぶれてしまい、奥さんに大迷惑をかけてしまったのだが、それ以来、いちどもお会いできていなかった。

今回の帰省のひとつの目的は、この中島先生の墓前に、僕の近況と、いままでの感謝をあらためてお伝えするためだったのだ。

僕と同様、可愛がってもらっていた同級生のWとふたりで、墓前に手を合わせた。

30数年経ってもいまだに交流が続いている(でも中学のころは犬猿の仲だった)僕とWがふたりでお参りに来たことで、中島先生は、さぞかし驚いていることだろう。

中島先生、どうぞやすらかにお眠りください。そして天国から、かつての悪ガキだった僕らを、どうかいつまでも見守ってやってください。