【読者先行ご招待?】パフ設立20周年記念式典をやります!
2017年3月9日 (木曜日)
ランニングの昔話ばかりだと読者離れを起こしそうなので、本日はひとやすみ。
今朝は、代わりにこれを書こう。
いろんなところで言ったり書いたりしているが、パフは今年12月で設立20周年を迎える。
僕が37歳になったばかりのとき、ひょんなことをきっかけに生まれたこの会社。ホントは今年の12月には、60階建ての自社ビルヂングが竣工し、僕はキングレコードから歌手デビューしているはずなのだが……(10周年で書いた10年後を予想する寸劇台本ですw)。
ともあれ、潰れずに存続していることを素直に嬉しく思う。設立以来、懸命に働いてくれた(今は辞めたり取引がなくなってしまった人たちも含めて)多くの社員、アルバイト、インターン生、パートナー企業の皆さんのおかげであり、多くの株主の皆さんのおかげであり、もちろん多くの顧客企業の皆さんのおかげである。
そんな皆さんへの感謝の気持ちを込めて、そして20周年という節目の年でもあるので、ちょっとだけ贅沢&盛大に記念式典&祝賀パーティーを開催することにした。
場所は、日本橋公会堂の大ホール。演劇やコンサートなどが行われる本格的な大ホールだ。
たぶん僕が社長として迎える最後の周年式典になると思うので、この日記を毎朝お読みいただいている読者の皆さんには特別に先行してご案内しちゃう。
こちらのページに詳細が掲載されていますので、内容を確認いただいたうえで、ぜひとも参加表明をいただけると幸いです。
⇒ https://www.puff.co.jp/20th/
この記念式典では「紅白歌合戦」なるコーナーがある。お取引企業の皆さまから出演者を募るそうだ(20周年記念委員会が企画しているので僕にも全貌はよく分からない)。僕ももちろん応募しようと思っているのだが、オーディションをやって出演者を厳選するとのことで、出場できるかどうかは分からない(汗)。
この紅白歌合戦、いっちょ応募してみるかという皆さんは【事前相談会】にもぜひチェックしていただければと(*^^*)。
まあ、この紅白歌合戦はともかくとして、記念式典と記念祝賀会にはぜひともご参加ください。ありあまるほどの席をご用意しております。
さて、僕は紅白歌合戦に出場(オーディションに合格)できるように、また週末からピアノとボイトレに励むことにしよう!
本日は、爽やかな快晴の朝。いつものウォーキングで行ってきます!
自分のランニングを振り返る(5)
2017年3月8日 (水曜日)
「いびがわマラソンに出ませんか?」
世界の山ちゃんで、名大社の山ちゃん、いや失礼w、山田社長から繰り出された言葉である。
揖斐川が流れる岐阜県の町を走るそのマラソン大会の素晴らしさを、この日、山田社長からこれでもかというくらい吹き込まれた。
「よし、出ましょう!」
神奈川マラソンで懲りていたはずの僕だったのだが、山田社長の熱心な誘いでその気になってしまった。
しかし、僕だけが東京からはるばる揖斐川まで行くのはいかにも寂しい。当然巻き込むべき人物がいる。僕を神奈川マラソンに巻き込んだキーカンパニーの下薗社長だ(笑)。
翌日の3月11日、当時いっしょのビルで仕事をしていた下薗社長に「いびがわマラソンに出ますよ!」と有無を言わさず申し込みを迫った(よく覚えてないんですがたぶんそうw)。
が、奇しくもこの日の午後、我々は東日本大震災に襲われた…。
この日を境に、しばし様々な仕事を中止、変更せざるを得なかった。リーマンショックで負った傷がさらに広がってしまい、またもパフは赤字決算を免れない状況に陥ってしまった。マラソン大会どころではなかった。
いろんなことがあった。精神的にも参ってしまうような出来事もあった。
よし、走ろう!いびがわマラソンにも出よう!
そう思い直すようになったのが、5月中頃だったと思う。
不思議なもので、走っていると前向きな気持ちになる。いろんな辛さ苦しさから逃げるんじゃなくて、乗り越えて行こうという気持ちになるのだ。
そんなわけで山田社長、下薗社長、僕とで出場し、完走した「いびがわマラソン」である。
2011年11月13日。日曜日だった。
揖斐川の素晴らしい景色、突き抜けるような青空を、いまでもよく覚えている。
記録は2時間24分37秒。半年前の神奈川マラソンよりも5分以上縮めることができていた。
(前日に名古屋で食べた「ひつまぶし」のほうが記憶に鮮明に残ってるのですが笑)
自分のランニングを振り返る(4)
2017年3月7日 (火曜日)
2011年3月10日。僕は名古屋にいた。朝から夕方までは、顧客企業の会社説明会のコーディネーターとして真面目に働いていた。
そして夕方からは、名古屋の就職情報会社としては歴史も実績もナンバーワンである名大社の山田社長とのサシの会食だった。
いや、会食といっても「世界の山ちゃん」ですが(笑)。
このころ僕らの業界は、2008年度下半期に突如として襲ってきたリーマンショックによって相当な痛手をこうむっていた。我がパフも、2009年の決算で大赤字に転落し、深い傷を負っていた。
名大社さんも例外ではなかったはず。山田さんが社長を引き継いだのはリーマンショック後の2010年で、まさに組織&事業改革を託されての社長就任だったに違いない。
いったん時間をその10年近く前まで巻き戻す。つまり西暦2001年~2003年のころ。
全国採用を行う顧客企業が多かったパフは、札幌、仙台、名古屋、大阪、福岡の地方都市で、学生向けのイベントを開催していた。パフ創業5年前後のころで、売上げも右肩上がり。僕も若かったし、今思えばずいぶんとヤンチャで勢いがあったものだ(笑)。
しかし名古屋だけは、どうにもこうにも集客がうまくいかなかった。
「名古屋といえば名大社でしょ」
昔から名大社さんは、学生に対して大きな影響力をもつ会社として就職情報業界の中で有名な存在だった。
僕は直接、名大社さんに電話をし、名古屋でのイベント開催や学生への告知に関して協力を仰げないか打診してみた。
・・・しかし結果は「けんもほろろ」。つまり、まったく相手にしてもらえなかった(苦笑)。
まあ確かに地元就職を応援するのが名大社さんのミッションなのだから、全国採用企業を引き連れてのイベントへの協力など(しかも名も知れぬ創業したばかりの会社が唐突に申し入れたのだから)断られても仕方なかった。
そんな名大社さん。社長が交代し方針が大きく変わった。
全国の同業者ともコラボできるところとは積極的にコラボしていこうということになった。
当時キーカンパニーの下薗さんが事務局となって運営していた「ふるさと就職応援ネットワーク」(パフは幹事企業の1社)に名大社さんが加盟したのも、そんな方針転換のなかでの判断だった。
これが、名大社の山田社長と僕とが急接近し、「世界の山ちゃん」で会食するまでになった経緯である。
(今回はマラソンの話はまったく出てきませんでしたね、笑)
自分のランニングを振り返る(3)
2017年3月6日 (月曜日)
僕がマラソン大会に出るぞ!と決めたのは、2010年12月10日だったようだ。翌々日の日記に、つぎのようなことを書いている。
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さて。ここで衝撃的な発表を行う。
実は、来年の2月。ハーフマラソンに出場することになった。2月6日の神奈川マラソンだ。先に出場を決めた社員から誘われたのだが、「20キロも走るなんて無理だよ」と、最初は出る気はまったくなかった。しかし、前出の下薗さんが「僕は出ますよ!」と、挑戦状を叩きつけてきた。負けず嫌いの僕がそう言われて出ないわけにはいかない。すぐにWebから申込の手続きをしてしまった。
まあ、そんな他愛もない理由で決めてしまったのだが(マラソンの先輩であるタシロは「そんな安易な気持ちでマラソンにエントリーされちゃ困る」と、陰でボヤいていたそうだが)、完走できる自信はまったくない。しかも2時間半で走りきらないと失格となるらしい。
これは困った。
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そうだ、そうだったのだ。
僕もこの日記を読んで生々しく思い出した。
「先に出場を決めた社員から誘われたのだが、『20キロも走るなんて無理だよ』と、最初は出る気はまったくなかった」と書いているけど、僕を最初に誘った社員が、(いまは退職して外の世界で活躍している)ナガサキという元陸上部の社員だった。
でも、そのあと(当時、東銀座にあったパフ事務所に同居していた)キーカンパニーの下薗さんが「僕は出ますよ!」とさえ言ってこなければ、僕のランはジョギング程度で終わっていたはずで、本格的なマラソンにまで発展することはなかっただろう。いつもは巻き込まれることの多い下薗さんなのだが、このときばかりは下薗さんに巻き込まれてしまった格好だ(笑)。
ともあれ、2011年2月6日の神奈川マラソンまであと2か月。2kmも走れなかった僕がその10倍もの距離を走れるのだろうか。いや、決めたからには走らなければならない。
ということで、年末年始にかけて、かなり真面目にランの練習を重ねていた。
この大会には、パフの社員も何人かエントリーしていた。前出のナガサキや、パフの中ではマラソン歴最長のタシロ、それから今はガイアックスで活躍している(結局は腹痛か何かで棄権した)タカタなど。他にも、大会には出場しなかったものの応援に駆け付けてくれた社員も大勢いたように記憶している。僕のデビュー戦を応援するつもりだったのかどうかは分からないけど、この多くの社員たちに励まされながら、初のマラソン大会をどうにかこうにか制限時間内(ネットで2時間30分以内)で完走することができた。
この時の完走証がこれ。
ネットのタイムが2時間29分04秒。なんとあと56秒遅かったら失格だったようだ。しかも、50歳代男子の部で799人中782位だって(笑)。
この日から数日間、僕は歩くことができず関節痛、筋肉痛に悩まされていたのは言うまでもない。しかし、これに懲りずにこの年の秋、再度マラソン大会に出場することになったのだった。2011年3月上旬の名古屋への出張がきっかけだった。
(次回はついに愚か者名古屋本部長の登場でしょうか笑)
自分のランニングを振り返る(2)
2017年3月3日 (金曜日)
記録によると2010年11月25日の夜だったようだ。
マングローブ社長の今野さんとキーカンパニー社長の下薗さんと僕の3人とで会食を行った。四谷のジャズレストランだったと記憶している。
その日のことは翌日の日記にチラッと書いている。⇒ おやじバンドMSPが再結成した日
そう、この日オヤジバンドMSPによるライブをまたやろう!という話しになったのだ(この話も面白いのでまたいつか書きたい)。
が、ランニングのことには一切触れていない。
実はこの日、僕がランニングを本格化するうえでとても重要な出来事があった。
今野さんと下薗さんから、「ランニング、ちゃんとサボらずにがんばってね」というメッセージとともにアディダスのトレーニングウェア(上下)をもらったのだ。
わお!
こんなのもらっちゃったら、本当に真面目に走り続けなきゃダメやんか…(◎_◎;)
そして、その翌週くらいのことだったと思う。
さらにランニングを本格化せざるを得ないダメ押しの出来事があったのだった。
(さらにドキドキしながら次回に続く)
19年前のM商事採用タスクフォースたちと愚か者になった日
2017年3月2日 (木曜日)
今年の12月で20周年を迎える我がパフ。しかし、その創業時は苦難の毎日だった。
そりゃそうだ。何の実績も商品もなかったパフに発注してくれる企業などなかったのだから。
僕のサラリーマン時代のお客さんがご祝儀発注してくださるくらいで、それ以外はほぼ受注ゼロ。会社の現預金も僕個人の預金通帳も限りなくゼロに近かった(マイナスだったかなw)。
そんな創業時のパフを救ってくれたのが、日本を代表する総合商社M商事だった。
コネがあったわけではない。
普通のテレアポ後の営業訪問を経て、当時スタートしたばかりの「職サークル協賛企業」になっていただいたのだ(当時の協賛金は80万円!)。
この出会いのおかげで、パフは創業時の苦境を抜け出し多くの企業の信頼を得て現在に至っている。
※この頃の経緯は「釘さんの素晴らしき100の出会い」というコラム(10数年前に連載していた学生向けメルマガコラム)に書いているので読んでいただけると嬉しいです(*^^)v
<第94話> 「M商事の人事マンたちとの出会い(その1) | 2006/10/10 |
このコラムの最後の方で僕は次のようなことを書いていた。
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浦田さんは、1999年に人事を離れ、最前線の営業現場へと異動となった。
泉田さんは、2001年にアメリカに転勤となった。
杉村さんも、2001年に採用の仕事を離れ、そして2004年にアメリカに 転勤となった。
皆、バラバラになってしまったのだ。
寂しくもあったが、皆さんそれぞれに、活躍のフィールドを移し広げていかれることは嬉しかった。
そして、別れがあれば再会もある。
泉田さんは、一昨年帰国し、グループ会社の役員に就任した。就任するや否や、 そのグループ会社の社長を僕に紹介してくださった。そして、このグループ会 社はいま、パフの名物協賛企業になっている。
杉村さんは、いまでもアメリカで活躍しているが、一昨年、僕のほうから会い に行った。現地(ニューヨーク)でたいへんなおもてなしを受けた。超デカの ロブスターを食べに行ったり、大リーグの試合に連れて行ってくださったりし た。
浦田さんとは残念ながら再会できていないのだが、今回のこのコラムの執筆に あたり「実名掲載」の了承を得るために僕が出したメールに、いちはやく快諾 のお返事をくださった。出会いの当時は新人だったのだが、いまや前線で大活 躍する中堅の商社マンだ。
またいつか、この3人と昔話を肴にしながら、一緒に酒を酌み交わせたらなあ と思う。
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そう。そしてついに昨夜、この3人と酒を酌み交わすことができた。
個々のメンバーとは、たびたび飲む機会があったのだが、3人そろって飲んだのは1998年の出会いの時以来なんと19年ぶり。
そもそもこの3人が顔を合わせるのもあの頃以来ということなので、まさに昨夜は同窓会。実に楽しい宴席で思わず皆揃って愚か者になってしまった(笑)。社長就任間近だと(限定的な怪しいSNSで)報じられている新卒一期生ヨシカワも混じっての宴会だったのだ。
大義名分は、4月から大阪に異動になる泉田さんの歓送会と、3月(つまり昨日)からグループ企業の常務取締役となった浦田さんのお祝いを兼ねての宴席だったのだが、そんなことは関係ない19年ぶりの同窓会。いろいろ書くよりも写真をアップすることで記録に残しておきたい。
パフが20周年を迎えるにあたって絶対に忘れてはならない(これから入ってくる社員たちにも語り継いでいってほしい)恩人たちなのだ。
いやあ、ホントに昨夜は楽しかったし嬉しかった。
こういう愚か者ぶりを公開するのはいかがなものかという批判もあろうかとは思うが、昨夜は心から記録に残しておきたいと思える宴席だったのだ。
では、酔いを醒ましながらのウォーキングで行ってきます!
【再掲】就職問題について語り合った日
2017年3月1日 (水曜日)
僕のマラソン大会デビュー戦は2011年2月だった。振り返りのために、このころの日記をパラパラとめくっていたらマラソンとはまったく関係ないこの記事に目が留まった。
2011年2月26日に書いている。
このころは、日本の新卒一括採用に対する批判が世論を賑わしており、僕ら業界の中でも日々議論されていた時期。ライフネット生命の出口社長(現在は会長)と出会って意見交換をしていたのもこのころだった。
本日は3月1日。2018年新卒採用が公式に始まる初日でもあるので、マラソンの振り返りはお休みにして、この記事を再掲したいと思う。なかなか釘さん珍しくマジメですよ(笑)。
ライフネット生命の出口社長と、就職問題について語り合った日 2011年2月26日 (土曜日)
昨日は、ライフネット生命の出口社長と、昨今何かと問題視されている新卒者の就職・採用に関する意見交換を行なった。
出口社長には、昨年の秋、パフの若手社員向けに講演を行っていただき、その後いっしょに食事をさせていただいたことがある。出口社長は、僕よりも一回り(12歳)上の人生の大先輩。日本の生命保険業界を牽引してこられた、業界の第一人者でもある。つまり、スゴイ人なのである。
昨年の秋、いっしょに食事をしながらお話ししたときの印象を、僕は次のような言葉で日記に残している。
—
とても、ざっくばらんで竹を割ったような性格の出口社長。難しく複雑な話を、とても分かりやすく、シャープに論じてくださる。僕らは、スッキリさわやかだったのだ。
カッコつけず、偉ぶらず、物腰も柔らかく、でも、悪いものは悪いと、ずばずばとハッキリとした物言いをする。発想は柔軟で、視点と志はものすごく高い。
—
読み返してみると、我ながらよく表現していると思う^^。
以来、僕はtwitterでも出口社長をフォローさせていただき、日頃どんな発言や行動をされてらっしゃるのか注目するようにしていた(出口社長は精力的に全国を飛び回りながら講演活動をしてらっしゃるのだ)。
数週間前のこと。企業の新卒採用に関しての“つぶやき”を目にした。企業が学生を「青田買い」し、学業を阻害していることに対する批判だ。
出口社長は、「大学生は大学を卒業したのちに就職活動をすべきであり、企業は大学生が学業に勤しんでいる期間は、(採用を前提とした)接触を一切行なうべきではない」という意見を持っておられるのだ。
僕は、そのつぶやきに対して、「僕は少し違う意見を持っているので一度議論したいですね」という、生意気な意見を書き込んだ。
すると、すぐに出口社長から直々にご連絡をいただき、「ぜひお会いしてお話ししましょう」というお誘いをいただいたのだ。
本来ならば僕の方から訪問のお願いを差し上げるべきところを、逆にお誘いいただいてしまった。これだけ多忙で、かつ重要な立場におられる大先輩が、僕ごとき(出口社長から見れば)若輩者の意見に耳を傾けてくださるという。とても恐縮する一方で、とても嬉しく感動した次第だ。
・・・前置きが長くなってしまった。
上のような経緯があって、昨日の午後4時。半蔵門にあるライフネット生命の本社にお邪魔したのだ。
社長室に招かれ、椅子に座るやいなや(余計な時候の挨拶や雑談もなしに)本題の、就職と採用に関する話が始まった。
出口社長は、僕の日記やコラムもちゃんと読んでくださっており(それもまた感動なのだが)、最初の話題はつい先日の「就職人気企業ランキングの愚」に関することだった。この(企業と学生の両方にみられる)愚かさについては、出口社長も同様のご意見であった。
そして話題は、問題の「青田買い」や「採用の早期化」について。
僕も基本的には、日本の(それこそ人気企業ランキングの上位に入るような)大手企業や人気企業が、学生を早期から拘束したり、扇動させたりするようなことがあってはならないと思っている。
しかし一方で、学生にはもっと早い段階から、社会(経済)のことや、業界のことや、企業のことや、働くことを、リアルに知ってほしいと思っているし、その機会を、企業は提供すべきだと思っている。そうすると、学生と企業との接触は、超早期化するわけで、その結果としての「青田買い」が行なわれることも、是としたいと思っている(もちろん、そこには企業の良識が当然求められるわけだが)。
僕は、なにより大切なことは、企業が学生に求めていること(企業で活躍するために必要な、具体的な学力・能力レベル)を明らかにし、大学時代に修めなければならないことをキチンと謳うことだと思っている。そうすることで、学生は、間違った就職活動対策に翻弄されることなく、学問や課外活動にも励めるのではないかと思う。学生が勉強しないのは、必ずしも「青田買い」や「採用の早期化」が原因ではないと思っている。
これに対し、出口社長の意見は、先にあげたとおり、「大学生は大学を卒業したのちに就職活動をすべきであり、企業は大学生が学業に勤しんでいる期間は、(採用を前提とした)接触を一切行なうべきではない」という内容である。
理由も明快で、「大学は学生に勉強をさせるために、国から年間1兆5千億円もの助成を受けているのだから、それを企業が妨害するのは、犯罪に等しい」というものだ。また、「大学は、学力が一定レベルに到達していない学生を卒業させるべきではない」というご意見だ。
そして、「学生の親たちは、(大学卒業後は)子供を家から追い出すべきであり、経済的援助を一切すべきではない。そうする(経済的援助をしない)ことで、子供は食べるために、必死になって(夢や憧れだけではない)足元をみた就職活動を短期間に行なうようになる」というご意見もあった。
まとめると、
●企業は、大学在学中は学生に一切接触しない。採用活動は、学生が卒業したのちに行なうべき。
●大学は、学生にちゃんと勉強させる。勉強のできない(学士としての学力・知識・教養レベルに到達していない)学生を卒業させてはならない。
●そして親は、子供が大学を卒業したあとは(経済的自立を促すために)突き放す。
という内容だ。
たしかにその通りだ。出口社長のご意見に、思わず共感してしまう。
しかし、現実には大学での勉強だけをしていても、社会や企業に適応できない(結局は就職できない)学生もたくさんいる。過保護な親たちに、子供を突き放すことなんて(よほどの強制力がない限り)簡単にはできない。大学も、それ以前の問題(たとえば本来大学生とは呼べない子供を大量に入学させてしまっているなど)を抱えたところが多すぎる。
僕はそのように考え、「現実に、いま取り組める最善のことを我々は行なうべきであり、むしろ企業(社会人)と学生との接点は早期に創りだすべき」という主張をしている。
それに対して、出口社長のご意見はさらに明快だった。
「僕は、あくまで理想論や原則論を主張している。そうじゃなきゃいけないと思っている。一方で、釘崎さんは日々現場に携わっており、理想だけでは済まされない現状をたくさん見ている。だから現実論を展開されて当然。でも、理想や原則を掲げ続ける人がいないと、理想への架け橋(ブリッジ)が危うくなってしまう。理想論と、現実から理想に向けてのブリッジ論が、両方が存在することが望ましいのではないですか?」
なるほど。思わず唸った。
学生の就職と、企業の採用の問題には、なかなか簡単に「ここをこうすればいい」というものがないのだが、「理想の姿」を描き続けることの大切さを、あらためて教えていただいた気がする。
うわ。なんだか、たくさん書きすぎてしまった。
僕の拙い文章力と表現力では、なかなか出口社長の真意が伝わりにくかったと思うが、ぜひまた別の機会をご用意して、多くの企業(経営者や人事責任者)の方々のまえで、自論を語っていただけたらと思う。そして、僕は、いまいちど理想の姿と、現実を理想に近づけるための施策(もちろん正しいビジネスとして成立するもの)を考えていきたいと思う。
出口社長、お忙しいなか、貴重な意見交換の機会をいただき、本当にありがとうございました!!
そうそう、余談をもうひとつだけ。
帰りのエレベーターのところまで出口社長にお見送りいただいたのだが、そのときの丁寧な(僕に対しての)お礼の言葉と深いお辞儀。エレベータが閉まったあとに、ジーンと感動が込み上げてきた。本当にスゴイ人というのは、礼節をもっとも重んじる。相手がどんなに年下の人間であっても、顧客であってもなくても(僕はもちろん顧客ではなく業者なのだが)、ビックリするくらい謙虚で腰が低いものなのだ。
(再掲以上)
いま気がついたけどこの日記、土曜日の朝に書いている。当時は土曜日も日記を書いていたことにビックリした。それはともかく(笑)、こういった議論はとても大事だと、自分の日記を読んで改めて感じた就活スタートの朝なのでした。
では、リクナビやマイナビをチェックした後、いつもどおりウォーキングで行ってきます!