パフ代表の徒然ブログ「釘さん日記」

東日本大震災で壊滅的な被害を受けた宮城県の南三陸町。ここは、先日の日記でもご紹介した仙台のS社S社長のとても親しくしてらっしゃる方々がお住まいの町である。

S社長は先週の木曜日、この南三陸町まで救援物資を届けに行った。

そのときに撮影した写真とレポートを、翌日の金曜日に僕にメールで届けてくれた。

悲惨な写真とS社長の克明なレポートに、思わず目頭が熱くなった。

起きている現実と、そこで懸命に頑張っている人たちの声。

テレビや新聞やネットで、日々報道されてはいるのだが、こうやって身近な方からいただく情報には、また違った意味と価値がある。より「自分ごと」として、現実と向き合わずにはおられなくなる。

S社長は現在、自分の会社と家族と地域の復旧、復興に向けて日夜取り組んでいる。

そんななか僕に送ってくれた写真とレポートは、きっと僕を通して、少しでも多くの人たちに見てもらいたいという気持ちもあったのではないだろうか。

そう思った僕はS社長に、「釘さん日記」への転載をお願いした。もちろん快諾してもらった。

FaceBook や Twitter からもリンクされるので、読んでいただいた方は、ぜひ多くの人に回覧していただけると嬉しい。

僕たちは、この悲惨な出来事を悲しむだけではなく、後世の人たちに、正しい情報として語り継いでいかなければならないのだと思う。

では、以下、S社長から送っていただいたレポートと写真です。

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画像は南三陸町志津川です。

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先日、知り合いの待つ町に物資を届けてきました。
全員元気! 仕事に対する意欲も出てきていました。

以下は、南三陸町で起きた出来事。
私が現地で聞きました。
あわせて感じたことを記します。

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極めて辛いこの現実は、実は生き残った我々が共有すべき永続的価値があることなのだとも、敢えて思う(不謹慎な!と言われそうですが)。

今から必ず変わる。何があろうと、乗り越えて行くのは、結局は一番辛い一人ひとりの気持ちの問題が大きいのだとも思う。
 

避難し安全な高台から「早く逃げろっ」と声を張り上げた大勢の町民に向かって、激流の中、手を振りながら流されて落とした、かけがえのない命。

部屋に寝たきりで自力で逃げられない相手のその手を握り締め、「俺は一緒に逝くわけにはいかないから、俺はいけないから、」と言葉をしぼりだし、泣きながら置き去りにして自身は生き残った、生きるべき命。

本人はそのまま真っすぐ親友のところに一人走り訪ねていき、「間違っていたか?、俺は間違っていたのか?」と泣きながら尋ねつづけたのだと。

 

ここではチリ地震津波を体験した高齢者が多く命を落とした。

あの時には、ここまで津波はこなかったから。うちは三階建てだから大丈夫だ。新築したばかりだから、二階に居れば大丈夫、あの時の津波の高さはここまでこなかったから。

原爆投下跡を思い出してしまった(写真でしか知らないが)。

南三陸町で、被災地の中心にいる生き残った強い人々は、無念に命を落とした町民仲間達の話を涙ながらに辛く悲しくも、しかし強かに生存への分析もしているのだった。

 
一番強い人々。

それは地上で彼らが今一番なのだと、心の底から思った瞬間だった。皆、負け続けているわけにはいかないのだ。人は、皆、強いものだと思う。

 

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画像は志津川町内の松原公園に展示されていたSL。手前の線路上に展示されていたが、波の力により流された。

 

その松原公園には、チリ地震津波の教訓と誓いとして、チリ共和国からの記念碑、プレート等もあるが、今は無残に横たわっている。

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とにかく町全体が、「途轍もなく巨大な鋭い爪の手に鷲掴みにされ、何回も何回も引き千切られたように破壊されている」のです。

水門の扉も破壊され、無くなっているでしょう。

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いただいた写真とレポートは以上です。

あらためて、亡くなった方々のご冥福をお祈りするとともに、被災地で懸命に頑張り続けておられる皆様のご健康と、一日も早い復旧、復興を心より願うばかりである。

FaceBook恐るべし

2011年4月1日 (金曜日)

昨日はお昼から、外での打ち合わせが三連ちゃん。ノートパソコンを持ち歩いて、打ち合わせの合間に仕事をしていた。

あいかわらずメールをたくさんもらうのだが、溜めてしまうと翌日がたいへんなので、外から返信しようと思った。

しかし、一昨日の日記でも書いたが、僕のノートパソコンからはメールの受信は出来るのだが(会社のアカウントを使っての)送信が出来ない。しょうがないなあと思いながら、気分を変えて何気なくFaceBookを開いてみたら、メッセージが届いていた。しかも5人から。どうやら前日から気付かずに溜めてしまっていたようだ。あらら。

・・・あ、そうか。「友だち」になっている人には、メールではなく、FaceBookのメッセージ機能を使えばいいのか。

メッセージの一通は、アメリカ(アトランタ)にいる旧友からだったので、返事を書いてみた。するとびっくり。あっという間に、また返信が届いた。アメリカの方では、ごく日常の通信手段になっているのだろうか。

FaceBookだと(友だちということもあるんだけど)堅苦しい時候のあいさつも杓子定規なご機嫌伺いも必要ない。口語体で気軽なコミュニケーションができる。しかも、その人の「顔」が画面に出てくるから、よりリアリティがある。ある「友だち」(大きな会社の社長なのだが)からは、「○○日に、△▽商事の人事部長と飲むことになったんだけど来る?」というメッセージが入っていた。僕からの返事は、「行く行く!」の5文字だけである。簡単&迅速&超フレンドリーなのだ。

FaceBookに最初に登録したのは、たしか一昨年の秋だったと記憶している。そのときの「友だち」は、外国に住んでいる知人と、国内ではIT系ベンチャーの経営者が数名だけだったのだが、最近では、「え!この人が使ってるの?」というくらい、ITやSNSとは無縁だと思われていた人たちも「友だち」になってきた。

就職情報会社のエンジャパンは先日、日本マイクロソフトと組んで、このFaceBookを利用した新しい求人・求職のサービスの提供を始めると発表していたし。

うーん。FaceBook恐るべし。世代を超えて、そして垣根や建前を越えて、様々なコミュニケーションのあり方を変えていく存在となりそうな予感がする。しばらくは目が離せないな、こりゃ。

 

さて、本日は4月1日。新しい年度の始まりの日である。週末でもある。今夜ばかりは、新社会人、新入生は、自粛抜きに晴れ晴れしい姿で、喜びの笑顔を前面に出しながら街中を歩いてほしいものだ。そして電気の消えた暗い街を明るく照らして欲しい。

 

九州に来ている日

2011年3月30日 (水曜日)

「この続きは大分で書くことにしよう」と言いながら、いまは福岡(博多)にいる。

昨日は朝8時の飛行機に乗り、大分空港に着いたのが10時前。大分空港から高速バスに乗って湯布院に向かった。

福岡への出張のついでに、一人で暮らしている母親の様子見と、もろもろの手続きをするために湯布院に立ち寄ったのだった。

駅から母の住む家まで歩いて30分近くかかるのだが、温かく天気もよかったので、テクテク歩いていくことにした。

5分ほど歩いたときだった。前方でマスクをしたご婦人が何やら声を出しながら手を振っている。「ん?」と思って後ろを振り向いたが誰もいない。ということは、あのご婦人は僕に向かって手を振っているのか?誰だ?と思って、目を凝らしてみた。ご婦人はおもむろにマスクを外す。

「私や、私!」  ・・・ ああ、なんだ、イオちゃんやないかい!

中学の同級生が、たまたま仕事で駅のそばに来ていたのだった。

「お母さんとこ行くんやろ?乗っていき」と、イオちゃんの仕事用のクルマに乗せてもらって、本当は30分かかる家まで、3分で到着した。僕はなんて運のいい奴なんだろうと、あらためて思った次第だ。

家に着き、母親の様子を見、旧式でじきに使えなくなる携帯電話と、新しい携帯電話を交換し、使い方をしばしレクチャーし(実はこれが今回のイチバンの目的だった)、その後、昼食をとりに食堂へ。

食事後は、役所に行き、もろもろの手続きや書類への印鑑などなど。いつも母親の面倒をみてくださっている福祉事務所の担当の方がとても親切でアリガタイ。人の親切が身にしみる年ごろなのだ。

一連の手続きを終えて、駅に戻り、福岡行きの高速バスに飛び乗った。

福岡は現在の東京とちがい活気がある。3月にオープンしたばかりの駅ビル(JR博多シティ)などは眩しいばかりの輝きだ。

夜は、このJR博多シティの9Fで、福岡で働く中学校時代の同級生とミニミニ同窓会を行なうことになった。やっぱり昔の友は永遠の友だ。気を使うこともなく、ええかっこしする必要もなく、楽しい時間を過ごした。

そうそう、ホテルに戻って、たくさんのメールに返事を書こうと思ったのだが、なんとメールの送信が出来ないのである。システム担当者に聞くところによると、メール送信サーバーのセキュリティレベルが高くなっているため、ロックがかかっているようなのだ。うーん、なんともはや。ま、しょうがない。

さて、明日(もう今日か)は朝から福岡でのM社の会社説明会。震災の関係で少しの間、説明会を行なっていなかったのだが、明日から本格的な再開である。

福岡は、桜の花も咲きだした。人々の顔にも活気がある。震災の影響ですっかり影が薄くなってしまったが、九州新幹線も、博多-鹿児島間がつい先日(震災の翌日の3月12日)開業した。博多から鹿児島まで、なんと一時間ちょっとで行けるようになった。九州の一体化が急速に進みそうだ。

今後は、わがふるさと九州が日本復興のカギを握るのかもしれない。九州から日本全体を元気にするのだ。ガンバレ九州男児! ・・・なのだ。

 

九州に行く日

2011年3月29日 (火曜日)

いま羽田空港の搭乗口にいる。8時発の大分行きJAL1783便に乗るのだ。

あ、もう搭乗が始まっている。そりゃそうだ。あと10分で出発時刻なのだ。

昨日買った、WiMAXの接続がうまくいかず、日記のシステムに接続するのに時間がかかってしまった(電源をうまく入れられなかっただけなんだけど、苦笑)。

あ、まずい、最終案内だ。

この続きは、また大分で書くことにしよう。では、取り急ぎ、九州に行って来ます!!

 

昨夜は、「3年B組金八先生」のファイナルスペシャルドラマを、夜7時から11時過ぎまで、延々4時間も観てしまった。

金八先生の放映が始まったのが1979年。僕はそのとき大分の高校を卒業して、東京で独り浪人生活を送っていた。四畳半一間のオンボロアパートの、冷蔵庫の上に置かれた14インチの小さなテレビで、毎週金曜夜8時から始まる金八先生を観ていた。

当時僕は19歳(番組が始まったときはまだ18歳)。ウラ番組が「太陽にほえろ」だったにもかかわらず(そして僕は太陽にほえろが好きだったにもかかわらず)、なぜか金八先生のほうを観ていた。当時の3年B組の生徒たちと年齢が近かったからだろうか。いや、やっぱり武田鉄矢が演じる金八先生に共感していたからだろうな。

あれから32年も経ってしまったのか。当時20代だった金八先生が定年を迎えてしまったのか。うーん、そうか。感慨深いなあ。

昨夜のファイナルドラマには懐かしい面々が登場していた。現役の俳優、女優が登場するのは、まあそんなに驚かないのだけれど、すでに引退して一般人になっている方々が登場していたのは、なんだか嬉しかったな。もう皆、40代後半の年齢なんだよな。あ、それから国会議員になっている三原順子が出ていたのにはビックリした。もう議員になっちゃったから出られないんだろうなあ…と思っていたら、最後の(金八先生の)卒業式のシーンにしっかりと写っていた。台詞は何もないのだが、顔をふるわせて泣いていたのが印象的だった。どうせなら田原俊彦にも出てほしかった。野村義男にも。近藤真彦は、いかにも特別出演といった雰囲気で出ていたけれど。どうせなら「たのきんトリオ」が復活すると面白かったのに(笑)。

いやー、それにしても32年間も(断続的であるにせよ)続くドラマというのはスゴイ。武田鉄矢という役者(本職は歌手だけど)もスゴイ。あの圧倒的な演技力(もはや演技ではないのかもしれない)もスゴイ。もう、こんなドラマは誕生しないだろうな。考えてみたら僕は、僕の娘よりも若いときに金八先生を観ていたことになるんだな。それが32年後、娘といっしょに最終話を並んで観ることになろうとは……。うーん、やっぱりスゴイことだ。

金八先生、ともかくも32年間、お疲れさまでした!!

時代は変わっても、子供たちには金八先生のような教師(おとな)が必要なのだと思う。

計画暖房を実施

2011年3月25日 (金曜日)

関東では電力不足による計画停電が続いている。百貨店、飲食店、駅、そして会社事務所や一般家庭などでも、照明を落としたり暖房を切ったりして自主的に節電に取り組んでいる。

パフの事務所でも震災以降、照明の半分を落とし、暖房もずっと切ってきた。

しかしながら、ここ数日の寒さから体調を崩すものも出てきた。いくら節電に協力するためとはいえ、従業員に体調不良者を出したのではしょうがない。

そこで、朝・夕の電力消費のピーク時以外は計画的に暖房を入れようよ、と提案した。

昨日も10時くらいから暖房が入ったのだが、いやー、やっぱり温かいのは良い。

僕の席があるサーバールームは、もともと暖房を入れてはいけないことになっているのだが、それでも入り口のドアから入ってくる温かい空気には救われる。

いくら節電しても電気は溜めることができない。なので電力消費量が落ち込む時間帯(夜8時以降)は、商店街、飲食店街なども灯りをつけていいのではないかな。

そうそう。先日の日記でも書いたが、東京の象徴である東京タワーには時間限定でも構わないから、ぜひ灯りをともしてほしい。計画点灯である。

それにしても、ガス、電気、水道といったインフラは、日頃は当たり前すぎてありがたみを感じないのだが、使えなくなって初めて、その存在の大きさに気がつく。これら事業に携わる方々の存在も(皮肉なものだが)この震災で大きくクローズアップされている。たいへんな日々が続いていると思うが、ぜひ頑張ってほしい。

我々一般市民も、いろんな環境の変化に過剰反応することなく、潔癖症に陥ることなく、平常心で日常生活を送りたいものだ。

 

暗い銀座で明るい会合だった日

2011年3月24日 (木曜日)

昨夜は銀座で(接待とか打ち合わせとかではない)純粋な飲み会を行なった。

パートナー企業でもあるE社の社長Yさんと営業責任者のMさん、(もはやベンチャーとは言えないくらいの大企業になった)W社の人事責任者Kさん、そしてパフの古くから(9年前だったかな)のお取引先であるO社の人事責任者Iさんの5名での飲み会だ。

Yさん、Mさん、Kさんとは昨年の夏にも飲み会を行なった。「次はIさんを誘って1月にぜひ」ということだったのだが、皆それぞれ忙しく、調整に調整を重ねた結果、昨日の夜を実行日として決めたのだった。

でも、日程を決めたのは震災前。皆さん組織の責任者という立場もあり、本当に開催するかどうかは直前の状況で決めましょう、ということになっていた。

そして昨夜。開始時間は夜の8時~と少し遅くなってしまったものの、予定通りGO!ということになったのだった。

僕がIさんとお会いするのは実に6年ぶり(くらい?)。Iさんが直接採用に携わることがなくなったため(すべてを部下の方たちに任せるようになったため)疎遠になってしまっていた。ところが、この飲み会の幹事役でもあるW社のKさんとは昔の会社(外資系の某コンピュータメーカー)時代の同僚という関係。人と人の縁がぐるぐる巡り巡って、久々に一緒に飲むことになったのだ。

いやー、楽しかったし、懐かしかった。

いま、夜の銀座は計画停電の影響で人が少なくなり、早い時間に閉店となる店も多く、(照明も雰囲気も)暗ーい感じなのだが、少なくとも僕らの飲み会は明るかった。

被災地の方々のことを考えると、飲み会を自粛したくなる気持ちもよく分かるのだが、でもこのままでは、本当に夜の街が死んでしまう。経済の低迷も、より深刻になってしまう。事情の許す人たちは、もっと積極的に夜の街に出かけていってもいいんじゃないかと思うのだ。

さて、本日の夜はどうしようかな。・・・と考えつつ、本日も元気に行って来ます!