パフ代表の徒然ブログ「釘さん日記」

学生からの手紙に感動した日

2009年10月16日 (金曜日)

朝、会社に行くと、机の上に回覧のファイルが置かれていた。

中には、手書きの手紙が入っており、「パフのメルマガの読者(学生)からの手紙です」というメモが添えられていた。

取り出して読んでみた。

・・・・・ 感動した。

朝っぱらから、とても嬉しくなった。

パフのメルマガは、2年前からタシロ(入社5年目の男性社員)が執筆している。彼は学生時代、体育会専門の新聞部に所属しており、もともと書くことが好きな社員だった。それでも毎週1回のメルマガ執筆は、相当にたいへんな仕事だ。

パフのメルマガは、毎週月曜日、学生のもとに配信されている。1998年の秋からずーっと続いている。考えてみたら、もう11年間も配信し続けていることになる。

このメルマガは、5~6年前くらいまでは、僕が自分で執筆していた。手前味噌になるが、とても評判が良かった。閲覧率も高く、読者への影響力も大きかった。毎週配信後には、多くの学生からの感想メールが届き、それが僕の執筆の励みにもなっていた。

古い話になるが、2001年のプロ野球オールスターのファン投票で、ある選手(脳腫瘍の手術を経て復活した選手で、現役最後の年になるだろうと言われていた)への投票をメルマガでお願いしたことがある。メルマガが配信される直前まで、その選手は3位で、1位になるまでには、あと1万票ほど必要だった。

ところがメルマガが配信されたとたんにグングンと票が伸び、ついには1位になって、オールスター戦への出場が決まってしまった。いまでは一部の社員しか知らない、嘘のようなホントの話である。

脱線してしまった。

それだけパフのメルマガは、僕にとっても愛着のあるものだし、パフのパフたる矜持を持ち続けるために必要なものだと思っている。

そしていまでは、タシロが見事にそのスピリッツを引き継いでくれている。そのパフのメルマガに、こうして感想のお便りが(しかも手書きの手紙で)届くというのは、とても嬉しい。

この手紙を読んですぐタシロに命じた。

「おい、タシロ! この手紙を『釘さん日記』で紹介したいんで、ご本人に転載の許可をもらってくれ!」

タシロももちろん嬉しかったのだと思う。すぐにご本人に連絡して、快く転載をご了解いただいた。

・・・ということで、タシロ執筆のメルマガに対して頂戴した学生の手紙を、以下、転載します(プライバシーを考慮し、団体名や個人名はイニシャルに修正しました)。

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はじめまして!

O大学4年のKSと申します。パフさんには月見塾やパフLiveなどで就活中お世話になりました。

なぜ今回、田代さん宛に筆を執ったかというと、メルマガのお礼を伝えたいと思ったからです。

私が就職活動を終えることが出来たのは、ほんの数日前、9月28日です。実は前日が私の誕生日だったのです。

11月頃から活動していた私にとって、就職活動はとても長く本当に何度もつらすぎて泣いたり諦めようかと思いました。

そんなとき田代さんの書くメルマガは、週1回の楽しみでした。

他の就職サイトのメルマガは就職情報だけだったり、「そろそろ内定をもらいはじめた頃でしょうか」や、「就職活動も終盤に・・・」などが書いてあり、私にとって毎回そのようなメルマガは、焦りや不安を感じさせるものでした。

田代さんの書くメルマガは、流行や最近感じたことなど様々な切り口で書かれていて、そして人の生き方や考え方など、とても参考になるものばかりでした。就活のためではなく、人生という観点で本当に毎週楽しみでした。

就職活動をしてきて、こんなに人と人でつながっていると感じた就活応援サイトを運営する会社は、パフさん以外ありません。就職活動のやり方だけではなく、どのようにして大人になっていくべきか、人生を生きていくのかを考えさせてくれました。

パフさんにお世話になり、メルマガを読むことができて、私のなかであのメルマガは、心の支えのひとつでした。

これからも、もっと多くの就活生を勇気づけ希望を与え続けてください。

本当にありがとうございました。

職サークル パフ メルマガファン KS

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KSさん、お手紙本当にありがとう。タシロ同様、僕もとっても嬉しかったです。KSさんも、来年からは僕らと同じ社会人。がんばっていこう!!

僕は今年の春先から、障害者雇用(主に知的障害者の雇用)に関わる仕事を行ってきた。

(現在はまだ)会社の収益に(直接は)結びつきにくい仕事なので、社員を巻き込まずに、まずは僕だけが単独で動いてきた。

その過程は、この『釘さん日記』でも断片的に書いている。

 

2009年6月17日 (水)  はたらく姿に感動した日

2009年7月 1日 (水) 3社の障害者雇用の現場を見学した日

2009年8月21日 (金) 知的障害者雇用のためのバスツアーを実施した日

 

きっかけは、今年の春先の某商社の人事責任者の方々との会食(っていうか飲み会)だった。そういえば、この日のことも日記に書いていた(日記ってホントに便利だ)。

2009年3月17日 (火)  社長退任ご苦労様&激励会を行なった日

 

この日は、某商社の子会社の社長を務めていたFさんの、親会社の人事部長への就任祝いだったのだが、その席で、10年来のお付き合いをしているIさん(その商社の人事部長代行)に、「釘崎さん。今度、障害者雇用の件で相談に乗ってもらえませんか?」と打診され、いつもの調子で、 「喜んで♪」と軽い返事をしたのが、すべての始まりだった。

僕にとって、障害者雇用(特に知的障害者雇用)は、まったく知識も経験もなかった領域の仕事。よく引き受けたものだと、いまさらながら思う。

でも、そのおかげで、さまざまな出会いを得たし、かけがえのない経験もさせてもらった。

知らないことや経験のないことでも、専門家の方々の協力を得ることが出来れば、やれないことは何もない。そんな自信にもなった仕事だった。

 

・・・と、前振りが長くなってしまった。

本日は、この知的障害者雇用に関する仕事が、ひと段落した日だったのだ。

前回(8月21日)と同じく、コマツ(人事部ビジネスクリエーションセンタ)さん、大東コーポレートサービスさん、スワンカフェ&ベーカリー赤坂店さんを訪ねた。

そして前回以上の気づきと感動を得た。

木村所長(コマツ)と、山崎社長(大東コーポレートサービス)の愛情と熱意と優しさに満ちたお話は、世界最高峰の感動ものだった。また、知的障害者の皆さんのスピーチには、胸がジーンと来てしまった。

ほかにも、たくさん書きたいことがあるのだが、この日記を書いているいま、猛烈に眠くなってしまっている。そろそろ寝ないと、明日の仕事に差し障りがある。この眠気の中、まともな文章を書く自信もない。

でも頑張って、ひとつだけ書く。

それはコマツさんの仕事場の壁に張られていた一枚の紙に書かれていたことである。

聞いてみると、コマツの木村所長が知的障害者の皆さんとの面談の際に、「楽しい仕事や職場って、どんなんやと思う?」と聞いたときのナマの答えを、まとめたものだという。

長くなるけど、書き写して、本日の日記を終えようと思う。(読者の皆さんの感想などいただけたら最高であります)

 

   『楽しい職場・仕事』

○笑顔が絶えない職場(毎日、来たくなる職場)

○一緒に楽しく働く仲間がいる職場

○お母さんが安心してくれる職場・仕事

○ちょっぴり緊張感がある仕事

○注目を浴びる職場

○将来に(自立・自活の)希望がある仕事・職場

○お給料がよそよりたくさんもらえる仕事

○人に自慢できる職場や仕事

○自分にとってやりがいのある仕事

○達成感が味わえる仕事

○責任がある仕事、責任をもたらせてもらえる仕事

○自分の能力が伸びていることがわかる職場・仕事

○ぜったい辞めたくないと思う仕事・職場

○他の人より褒められたり、感謝される仕事

○ちょっぴり競争がある仕事

○がんばって勉強して能力を向上したいと思う仕事

○あったかい職場(守られている・しかってもらえる)

全部、コマツで働く知的障害者の方々から出てきた、そのままの言葉だという。つまり、彼らの職場はいま、上のような職場であり、働くことが楽しいと、心から思えているのだ。

木村所長は、「障害者を採用する基準はひとつだけ。それは“笑顔であいさつができること”。これしかありません」と言い切った。

一方、大東コーポレートサービスの山崎社長は、知的障害者雇用を行う企業(使用者)に必要な条件を、「優しさだけです」と言い切った。

知的障害者雇用の世界を通じて、はたらくことの本質、経営者として大事にしなければならないことを教えていただいた気がする。

なかなか忙しかった日

2009年10月14日 (水曜日)

何の捻りもない日記のタイトルで恐縮である。

いや、僕個人の日記なのだから、恐縮する必要など本来はないのだが(苦笑)。

 

きょうは朝から、なにかと気ぜわしく忙しい一日だった。

いちばんゆっくり出来たのは、早朝の願掛けウォーキング後の、築地ドトールコーヒータイムの30分かな。

あ、あと、明治学院大学の学食で、ソースカツ丼(なんとたったの300円♪)を食べたときだ。

とにもかくにも、ソースカツ丼の300円は、なんだかとても嬉しかった。

ドトールコーヒーが200円の時代である。それにたったの100円を足すだけで、トンカツが食えるのだ。素晴らしい。

 

そう、きょうは明治学院大学でのイベントで、朝11時から夜8時まで会社を不在にしていたのだ。

 

朝は、出かける前までに処理すべき仕事があり、セカセカ。

日中の大学内でのイベントは、気苦労と肉体的疲れもあり、ゼイゼイ。

夜(帰社後)は、部下の指導育成で悩みつつ、外部の方(転職希望者)と面談しながら、ウンウン。

 

そしていま(深夜12時過ぎ)。

 日中にめいっぱい届いていた)メールへの返信作業。

 明日の仕事の準備。契約書のチェック&押印。

 その他たくさんの雑務にヒーヒー。

 おーい、誰か手伝ってくれよ!!

 

・・・と、叫びたくたくもなる、誰もいない静かなオフィスなのでした。

それにしても楽天らしいやり方をしたものだ。

野村監督の解任のことだ。

「楽天らしい」というのは、もちろん皮肉の表現だ。

確かに高齢だし、花道を飾る意味でも、クライマックスシリーズ進出を決めた今年が、ちょうどいい引き際であったと思う。

しかし、辞めてもらうための段取りと、言い出すタイミングっていうものがある。

「通告する」という形式ではなく、「相談する」という形式はとれなかったのか。

多大なる貢献をしてきた名将に、最大限の感謝と敬意を示すべきではなかったのか。

「名誉監督」や「永久欠番」なんて見え透いた餌を与えても、神経を逆なでするようなものだ。そんな人間の心が分からないとは、楽天球団社長もその程度の人物だったのか……。

あるいは、そんな人間の気持ちなんて構ってらんないというのが、楽天という会社の社風、文化、考え方といったものなのだろうか。

夜のスポーツテレビで野村監督がボヤいているのを見て、同情してしまった。

それでもまあ、野村監督もプロであるならば、ここはぐっと我慢して、クライマックスシリーズでは最高の試合を見せて欲しいものだ。

願わくば勝ち上がって、日本一になって、最高の花道を自らの手で演出してほしい。

それが「野村克也らしさ」のように思う。

結婚式シーズンである。昨日の熊ちゃんの結婚披露パーティーに続き、きょうは、一昨年までパフの社員だったウメキの結婚式と披露宴だった。

ウメキは2004年4月の新入社員として採用されたはずだったのだが、理由(わけ)あって、正式に入社したのは翌年の2005年4月だった。しかし、実際にパフで働き始めたのは、2003年の夏からだった(このへんの理由を説明しだすと、それだけで一日分の日記の分量になってしまうので割愛する)。まあ要するに、かれこれ6年前からパフとは関わっているわけだ。

そんなウメキがパフを退職したのが、一昨年末だった。そして現在ウメキは、パフとも(ある意味では)密接で不思議な関係を有する某R社のシステム担当者として勤務している。

そんなウメキの結婚式。

パフからはウメキと同じ年次以上の社員たちが全員招待されていたので、現在の職場の方々よりも多い人数だったかもしれない。

場所は、浜松町の貿易センタービル38階。昨日の熊ちゃんのパーティーに引き続き、ずいぶんと見晴らしのいい会場だった。

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大勢の参列者に見守られての人前結婚式を終え、披露宴会場に移った。

僕のテーブルには、パフの経理担当重役(?)と、2年前まで役員(システムの顧問)を務めてもらっていたオオバさんがいたが、他の方々は、全員がウメキの現在の職場であるR社の方々。隣には主賓でもあるY部長が座っておられた。

R社のM社長と僕とは、実は27年来の友人であり、かつては隣の席で仕事をしていた仲間でもある。ついでに言うなら、M氏はパフ創業の黒幕でもある。

ということを、Y部長をはじめとするR社の社員の皆さんはご存じだった。ウメキが事前に説明してくれていたらしい。

なので、我々のテーブルは終始、和やかな雰囲気で披露宴を楽しむことができた。

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(↑僕の向かって左が、新婦側主賓のR社Y部長)

 

主賓のY部長の挨拶がサプライズな内容だった。

映像を用意しており、R社のM社長のスピーチがスクリーンから飛び出したのだ。

M社長のスピーチでは、ウメキの『ふたつの故郷』が自分と密接な関わりがあることを説明していた。

ひとつめの故郷というのが、岩手県のこと。

M社長の元々のルーツは岩手県で、ウメキと旦那さんの共通の母校である盛岡一高の、“腰に手拭をぶらさげたバンカラ”に幼少のころから憧れていたという話。

ふたつめの故郷というのが、パフのこと。

先に書いたように、M社長と僕は27年前、営業マンとして一緒に働いていた。12年前、僕がパフを創るきっかけを作ったのもM社長だった。そしてウメキが大学卒業後、初めて入社する会社として選んだ会社がパフ。転職した先が、Mさんが社長を務めるR社。まことに人の世は縁であるというのが実感できる話だった。

他にもR社のシステム担当役員のスピーチや、なぜか新郎の会社の(超大企業なので普通なら引っ張り出すのが大変な)重役のスピーチまで映像に収めていた。

さすがウメキの上司。なかなかスゴイ演出だった。

 

披露宴の終盤、もうひとつサプライズがあった。

新郎は、盛岡一高の応援団出身。そのときの仲間たちが、寸劇を交えた弊衣破帽のバンカラ応援をみせてくれた。新郎も途中から乱入しての千手観音踊り。見ものだった。

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そして最後が、新婦のお手紙の朗読と、新郎の挨拶と、新郎のお父様の挨拶。普通ならシンミリするところだが、なぜか温かな笑いに包まれた、素晴らしいスピーチの連続だった。

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こんな感じで、あっという間に終了したウメキ&(新郎)シロウさんの結婚披露宴。実に楽しく感動的なひとときだった。

それにしても、会社を辞めて2年近くが経過するというのに、何の違和感もなく、旧同僚の社員たちがこんなにたくさん集まって祝福できるというのも素晴らしいことだ。

ウメキさん、シロウさん、ご両家のみなさん、本日は本当におめでとうございました!!!

パートナー企業である就職エージェントの名物社員に熊沢匠という人物がいる。僕はいつも熊ちゃんと呼び、親しくしている。

熊ちゃんは現在32歳。超就職氷河期と言われていた時代(新卒の求人倍率が1倍を割り込んでいた、今よりも遥かに厳しい時代)に大学4年生だった。

僕が彼と知り合ったのは、ちょうどそのとき。彼は、「500人キャンプ」という学生団体を立ち上げており、そのスポンサー探しをしていた。パフを立ち上げて3年目だった僕のところに、彼はある日突然、飛び込んできたのだった。

当時のパフには資金的余裕など一切なかったはずなのに、なぜか僕は活動資金を提供した。でもそんなことは、その後すっかり忘れていた。

ところが、それから6年ほど経った丸4年前。新宿にある就職エージェント社に打ち合わせに伺ったときのことだ。

廊下を歩く僕の後ろから、 「釘崎さん!お久しぶりです!!」と大きな声で呼びとめる男の声。

振り返ると暑苦しい男の顔。一瞬誰かはわからなかったのだが、 「自分が大学生の時にお世話になった熊沢匠です。あの、500人キャンプの!」と言われて、やっと思い出した。

「あー、あのときの!」

「はい。その節はたいへんお世話になりました!」

「なんでここにいるの?」

「はい、縁あって、このたび就職エージェントにお世話になることになりました!」

「へー!そうだったんだー(びっくり)」

と、とても運命的な再会を果たしたのだった。

聞くところによると彼は、大学を卒業後、人材系の企業に入社し、その後ラーメン屋さんの店長としてしばらく過ごしたのち、都議会議員の秘書を行っていたとのこと。

人材系企業の会社員と、ラーメン屋の店長と、議員の秘書という、めったにないキャリアを積んでいた彼に目を付けたのが、就職エージェントの下薗社長だったという訳だ。

下薗社長は、4年前の都議会選挙が終わったタイミングで議員秘書だった熊沢匠を口説き落とし、就職エージェントに引きずりこんだったのだった。下薗社長は、僕と熊ちゃんに前述のような接点があったということを知らなかった訳だから、これもまた不思議な縁なのである。

で、本日。この熊ちゃんこと熊沢匠の結婚披露パーティーが行われた。

実にめでたいことである。

パーティーの場所は、なんと東京都庁の45階の展望フロアー。こんな場所を結婚パーティーで使うなんて…。さすが議員秘書出身者はスケールが違う。

下薗社長から少し前に、「熊のパーティーで長渕をサプライズで歌いたいので、協力してほしい」との依頼が、僕と、福岡のネオ倶楽部(就職エージェント九州)柳川社長にあった。

下薗社長と柳川社長と僕の3人は、三九会という組織(?)を結成しており、定期的に会合を開いている仲でもある。

「じゃあ熊のために、急きょオヤジバンドを結成するか!」ということになったのである。

しかし、タイムスケジュールの関係で、我々がサプライズで登場するのは難しいということになってしまった。

が、しかししかし。急きょ前日に、一転やっぱり歌えるということになった。実はこれが昨日の日記の種明かしなのである。

ずいぶんと前置きの長い日記になってしまった。

ということで、本日の結婚披露パーティー。素晴らしい内容だった。

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なかでも感動したのは、熊ちゃんの出身高校(春日部高校)の応援団の連中の出し物。

これには身震いがした。

赤褌で会場内を練り歩いたあと校歌を熱唱していた。特に団長役を務めていたのは熊ちゃんが1年生のときの3年生の偉大な先輩らしいが、全身から溢れるオーラに痺れてしまった。ただものではない。今度ぜひじっくりお会いしたいものだ。

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肝心のオヤジバンドの出来はというと、まあ、まあ、まあ・・・という感じかな(苦笑)。

それでも下薗社長の熱唱は、きっと熊沢夫妻の心を熱く揺り動かしたんじゃないかと思う。

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いやあ、熊ちゃん、ホントにきょうはおめでとうございました。キミとキミの仲間たちはすごい。ますます、キミが好きになった。ぜひこれからも同業界の同志として、いっしょに頑張っていこう!

三九会のやなさん(柳川社長)、昨夜から2日間お疲れさまでした。やなさんのギター、痺れましたよ。

そして下やん(下薗社長)、弟分の熊の結婚、ホントにおめでとうございました。彼への祝福の歌の協力ができて光栄でした。長渕のTomorrow、いい曲ですね。次回ライブには、絶対盛り込みましょう(次回は奪いませんのでご安心を、苦笑)。

夜、三九会(三人の九州出身の社長の会)が急きょ招集された。

今夜中に打ち合わせをしなければならない案件が、急に起きたからだ(いったんは流れた案件だったのだが、再度浮上してきた)。

会社での会議を夜8時に終え、現地に向かった。

集合したのは新宿三丁目の薩摩料理の店。「薩摩おごじょ」という店だ。

今年の7月26日の日記で、鹿児島の知覧(特攻隊の出撃基地があった場所)に行ったことを書いたのだが、その知覧(特攻基地)にゆかりのある店なのだ。

基地のそばにあった(帝国陸軍の指定食堂だった)富屋食堂のおかみさんで、「特攻隊員の母」と呼ばれていた鳥濱トメさんという方がいた。このトメさんの娘さんが、特攻隊員の遺族の方々が集まる場所として新宿に作った店が「薩摩おごじょ」なのだ。現在では、その娘さんの息子さん(つまり鳥濱トメさんのお孫さん)が経営している。

店に入ると、まるで田舎に帰ったような懐かしい気持ちになる。富屋食堂の雰囲気をそのまま再現しているらしい。

このお店で、三九会メンバー(やなさん、しもさん、僕)の打ち合わせが始まった。しもさんが用意してくれた資料のおかげで、方向性はすぐにまとまった。

そして打ち合わせののち、しばし薩摩おごじょの郷土料理と芋焼酎を楽しんだ。

その後、場所を移動して、先ほどの打ち合わせ内容を、さらに固める実習を2時間ほど。実は、明日が本番なのだ(読者の皆さんは、なんのことだか分からないと思いますが、気にしないでください)。

もう深夜零時を過ぎたので、続きはまた明日ということで、いったん解散することに。

皆、少し腹が減っていたので、熊本ラーメンの店で締めくくることになった。

熊本ラーメンは、同じ九州でも、博多ラーメンとはちょっと違う。熊本生まれの僕にとっては、こっちのほうが馴染みがあるのだ。

人間ドックが終わって安心したわけではないが、かなりのカロリーを今夜は摂取してしまったかな。

さて、明日のお昼は再度、三九会メンバーが築地のパフに集まる。そして夕方の本番に備える。

きょうの打ち合わせと実習の成果が実ることを祈る。