新・パフの創業物語<第32話>「全国を駆け回った1年間」
2020年8月12日 (水曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第32話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1989年4月。
東京駅丸の内北口を出てすぐのところにあった大手コンピュータメーカーF社本社ビルの10Fに、ボクの席が用意されていました。
米国S社のUNIXワークステーションを、F社ブランドの商品としていかにユーザーに拡販し根付かせていくか。
それが、ぼくの配属された「Sプロジェクト」に課せられた大きなミッションでした。
当時のF社は汎用機(大型コンピュータ)には強いものの、パソコンやオープンプラットホームであるUNIXワークステーションについては製品ラインアップに乏しいばかりか、営業ノウハウもほとんどない状況だったのです。
Sプロジェクトは、このワークステーションを売るための施策づくり、例えば各種販促イベントの企画・運営や、バンドルソフトを提供してくれるソフトウェア会社の開拓・契約、全国津々浦々の現場営業マンへの教育やユーザーへの同行訪問、プレゼンテーションを含めた直接サポート等々。とにかく1台でも多くのワークステーションを売る(正確には現場の営業マンに売ってもらう)ためのことなら何でもやるセクションだったのです。
ボクにとってはまったく未知の分野だったのですが、なにしろ日本を代表するコンピュータメーカーの今後を占う重要な仕事であり、また日本全国を飛び回る仕事でもあったため、日々忙しくも充実した毎日を過ごしていました。
札幌、仙台、新潟、金沢、長野、名古屋、京都、大阪、奈良、和歌山、広島、山口、四国、福岡。
覚えているだけでも、これだけの地域を営業サポートやイベントで飛び回っていたのですが、何といっても楽しみだったのは、現地の営業マンと繰り出す夜の街。当時はまさにバブル全盛期で、コンピュータメーカーの営業マンは相当な接待予算を持っていたんですね。各地でかなりの飲み食いをさせていただいたものです。
今でも記憶に残っているのが、これは地方ではなく東京の夜の出来事ですが、銀座の高級寿司屋で「えいちゃん」、そう、あの矢沢永吉さんと一緒に寿司をつまみながら飲んだことです。カウンターで偶然隣り合わせになっただけなんですが、恐れを知らなかったボクは「あれ?矢沢さんですか?」と気軽に声をかけ、先方も気さく会話に応じてくれて、帰りにはワイシャツの背中にサインまでしてもらったりして……。後々考えるとすごい体験でしたね。
ともあれ、仕事も遊びも非常に刺激的で、貴重な経験をした1年間でした。
しかし、そんなバブリーな日々はいつまでも続くわけもなく、1年後、Sプロジェクトも解散の日を迎え、ボクは出向元のディーラーに帰ることになったのでした。
そして、そこで大きな壁にぶつかることになったのです。
(どんな壁?…つづく)
このときのプロジェクトメンバーの何人かとは今でも年賀状のやりとりをしています。すでに定年退職を迎えられた方もいらっしゃいます。最年少だった新入社員ももう50代半ば。ずいぶんと昔の話になってしまいました。
当時はみんな20代で、いつも週末になると(たとえば事務所に出入りしていた生保レディーを誘って)合コンしたり、朝まで飲んで騒いだり……。バブルだったし。いま思い出しても楽しい日々でした。
さて、この物語もいいよ後半戦、20話を残すのみとなってきました。9月中旬にはなんとか終えられそうですね。よかったよかった。
では、朝食&エール再放送後、午前中は在宅で仕事します!
新・パフの創業物語<第31話>「つらかったS社との別れ」
2020年8月11日 (火曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第31話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1989年3月。釘崎青年28才の春間近。
某人材スカウト会社からの紹介がきっかけで、大手コンピュータメーカーF社傘下のディーラーM社に転職することになったのです。
リクルートを離れて以来、丸5年間お世話になったS社との別れは、正直言って相当に辛いものでした。S社の社長に対して、会社を辞めたい旨を告げたときには本当に申し訳なく胸が締め付けられる思いでした。
しかし一方で、ボクにはS社の組織作りや業績向上に大きく貢献してきたという(いま振り返ればたいへんに思い上がった)自負があり、「ここまでやったんだから、もう十分だろう」という思いから 「どんなに引き留められても絶対辞める。辞めるのは今しかない」という強い意志を持っていたのも事実であり、いろいろと悶着はあったものの最終的に社長に辞意を受け入れてもらうことが出来ました。
しかし社長に対してよりも、もっと辛かったのはボクが自ら採用してきたS社の後輩たちへの告白の時でした。
たいへん自分勝手なことだとは承知しつつも、後輩たちには自分が辞めることによる動揺をなんとか最小限に食い止めなければと、転職を決意するに至った経緯や心情を時間をかけて説明しました。
「釘崎さん、オレたちのことは全然気にしなくて構いませんから、どうか新しい会社でがんばってください!!」
後輩たちからこんな風に励まされたものですから、嬉しいやら、申し訳ないやら、切ないやら……。本当に辛かったですね。
そして、S社での最終勤務日。取引先の方々や、遠方に出張したり他社に出向していた同僚・先輩・後輩たちから「ご苦労さんでした」の電話が夕方以降、何本も何本もかかってきて、感極まって思わず泣いてしまったことを覚えています。
そして1989年4月。
世はまさにバブルのころ(当時の僕は貧乏な暮らしをしていたので、そんな感覚は一切ありませんでしたが)、転職先のM社での仕事が始まりました。
正確にはM社を経由して、ボクはコンピュータメーカーF社の丸の内の本社で、OEM供給を受けたUNIXワークステーションの販売支援の為の「Sプロジェクト」に投入されたのでした。
生まれて初めて経験する従業員数万人の大組織での仕事。好景気が続く中での、超多忙だけどバブリーな毎日。
リクルート時代でも経験したことのなかった、様々な刺激的な日々が待っていたのです。
(どんな刺激?…つづく)
当時の僕には有給休暇などという概念はなく、入社してからの5年間で休暇を取ったのは新婚旅行(いちおう行きました苦笑)のときくらいでした。
なので退職時には、繰り越し分も含めて20日以上の未消化有給休暇があったはずです。
ふつう退職時にはその未消化分を取得したうえで退職日とするのでしょうが、僕は1日も間を空けることなく(それどころか退職日の夜9時過ぎまで残務を仕上げたうえで)翌日から転職先に出社したのでした。なんて経営者にとって都合のいい社員だったのでしょうか(笑)。
さて、きょうは朝から暑いですね。日中は36℃まで気温が上がるそうです。きょうから内定者インターンシップが始まるので(僕も教育担当を命令されているので)出社せねばなりません。さすがに徒歩通勤は危険かな💦
では、麦わら帽子でも被って行ってきます!
新・パフの創業物語<第30話>「転職」
2020年8月7日 (金曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第30話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1989年2月某日。釘崎青年28才。
某人材スカウト会社のコンサルタントと池袋の喫茶店で待ち合わせをしていました。
この時のボクは比較的冷めており、「まぁ、話は聞くだけ聞いておいて損はないしな。よっぽど良い話なら考えればいいか」くらいの気持ちでした。
「あのう、釘崎さんですね?」
ボクが席に着くやいなや現れたコンサルタントTさん。非常に柔和な表情で、落ちついた物腰のジェントルマンといった感じの方でした。
一時間ほど、話をしたでしょうか。
・ボクに転職の意志があるかどうか
・検討して欲しい会社が3社あること
・そして、その3社の事業内容や募集職種の説明
が、話の中心だったと思います。
最初の方は、冷ややかに話を聞いているだけだったのですが、最後の方では思わず身を乗り出して自分からいろんな質問をしていました。
正直なところ、かなり心が揺れていました。
一晩じっくりと考えた末、「よっしゃ、いっちょ転職してみるか!」という結論を出したのです。
もちろん、在籍していたS社には、様々な恩もあり、またボクが採用した可愛い後輩たちもたくさんいる。非常に悩ましい決断でした。
しかし、自分の将来を犠牲にすることはできない。自分を高く買ってくれる会社が、いま目の前にいるこのチャンスを逃がしてはならない。
そう考えたのでした。
翌日、コンサルタントのTさんに電話で、その3社の話を今一度詳しく聞いてみることにしました。
3社とも無条件にボクを受け入れるということではなく、一通りの面接試験を経たうえで、ということでした。
3社中2社は外資系のコンピュータメーカー。1社は国内最大手コンピュータメーカー系の大手ディーラーでした。
ディーラー以外はSEとしてのみの採用。ディーラーはSEもしくは親元のメーカーに出向して販売推進プロジェクトメンバーに加わることを前提とした採用だったのですが、ボクがひかれたのは後者の販売推進プロジェクトでした。
早速そのディーラーM社の面接を受けに行くことになりました。
出てきたのは、その会社のナンバー2の専務と営業担当の取締役。何を話したかはよく覚えていないのですが、面接は1時間ほどで、その後その会社が別会社として経営していた高級中華料理の店に連れて行かれ、ぜひ転職を決心してほしい、という話になっていました。
先方の熱意あふれる誘いの言葉にボクの気持ちもどんどん揺れていき、会食の終盤では、新たな道への意欲が湧いていたのでした。
問題は、5年間お世話になったS社の社長に何と言うか。また、ボクが採用した可愛い後輩たちにどう説明するのか。
この2つのことだけが気がかりでした。
(懐かしいなぁ…つづく)
「池袋の喫茶店」と書いていますが、このお店は「談話室滝沢」というところ。若い人はご存じないでしょうが、知る人ぞ知る、上流(?)社会人の密談場所です。wikipediaでは次のように紹介されています。
談話室滝沢(だんわしつたきざわ)は、日本にかつて存在した喫茶店。東京都に4店舗を構えていた。
1966年に1号店がオープン[1]。コーヒー・紅茶などの飲み物は一律1,000円(但しケーキ類のデザートをセットすると総額1,100円~1,200円程度でセットメニューになった)と割高であったが、マスコミ・出版業界を中心に利用者は多かった(被取材者へのインタビューなどに利用)。接客態度を重視する姿勢から、ウェイトレスは全て正社員で、全寮制の社員寮に入れて接客教育を行っていた[1]。
しかし、従業員の確保が困難になったことから社員寮を廃止し、ウェイトレスの約8割がアルバイトになっていたこともあり、サービスの質を保つのが困難になったため、閉店することになり、2005年3月31日午後9時50分を持って全店を閉店した[1]。新宿東口店と池袋東口店の跡地には「椿屋珈琲店」(東和フードサービス直営)が入居している[2]。
なお、最終日前日当日の売り上げは災害復興支援として日本赤十字社に寄付された[1]。
なるほどねー、歴史を感じますね( ^)o(^ )。
さて、本日は終日、某社での研修です。リアルな場で講師をやるのは何カ月ぶりでしょうか。うまく喋れなかったらどうしましょう💦
では、朝食&エール再放送後、行ってきます!
新・パフの創業物語<第29話>「脱SEを考えていた自称優秀SE」
2020年8月6日 (木曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第29話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
S社でのボクの働きぶりは、自分で言うのもおこがましいのですが、新人離れしたモーレツぶりだったと思います。
採用担当者として、毎年数名ずつ優秀な人材を確保するかたわら、SEとして数々のシステム案件を受注し顧客に納得してもらえるシステムを開発し続けており、取引先から厚い信頼をいただけるようになっていました。
ボクが評価されていた点は技術力ではなく、エンドユーザーとの交渉力(交渉姿勢)や、トラブルが発生したときの対応力、そしてプロジェクトメンバーの志気を維持させながらタイトな開発スケジュールをこなしていった統率力といったものだったように思います。
とにかく我ながらよく働きましたが、その原動力となっていたのは2つ。
1.がむしゃらに働くことによって会社を成長させ、自分の会社選択の正しさを周囲(特に親兄弟)に証明したかった
2.自分の働きにより顧客が大きな信頼を寄せてくれ、様々な新しい仕事を発注してくださっていた
この2つが、ボクをモーレツに働かせた大きなエンジンだったのですが、悩みも次第に大きくなっていったのでした。
この悩みも大きく2つありました。
1.低すぎる収入
2.このままSEの道を歩んでいっていいのだろうか、という疑問
収入については、ホントに洒落にならないくらい低レベルでした。
とくに入社3年目くらいまでは、アパートの家賃と光熱費を払うともう手元には数万円しか残らず、食事さえ不自由するような状態。電話代の滞納常習犯で、NTTに止められてしまうこともしばしばでした。
1~2年目の頃は「会社さえしっかり大きくなってくれれば…」と、さして不満に思うこともありませんでしたが、3年目以降、自分の働きや稼ぎに自信を持つようになっていたボクは、次第に会社の経営に不信感を覚えるようになってしまいました。
しかし、変なところでプライドが高いのと同時に気の弱いボクは、「カネのことでグチャグチャ言うのは男らしくない」などと自分に言い聞かせてしまい、不満を内に募らせるようになっていました。
それともっと根本的な問題。
元々SEになろうと思っていたわけではなかったボクは、SEとしての仕事をバリバリとこなせばこなすほど、顧客から誉められれば誉められるほど、満足感を得る一方で「このまんまでいいのだろうか?」と思うようになっていたのです。
自分は確かに与えられた仕様に基づいて、最適なシステムを設計したりプログラムを考えたりすることにおいては能力を発揮していたと思います。でも、自分の本来の能力・持ち味は、もっと違うフィールドにあるのではないかと思うようになっていました。
それに元々ボクは、細かいことを理詰めで考えるのが苦手なタイプで、SEの仕事で上を目指すには、きっと近い将来(性格のうえで)破綻を起こすのでは?と思っていたのです。
普通ならば「よし、転職しよう!」と考えるところですが、義理人情で入社したこの会社を自発的に去るという考えには、なかなか向かうこともできませんでした。
将来の人生設計について、いろいろな悩みを抱えながら仕事を続ける内に5年の月日がすでに流れていました。
1989年2月。
釘崎青年が28才の頃です。会社で仕事をしていたボク宛てに1本の電話が突然かかってきました。
「えー、私、○○(某人材スカウト会社)のKと申します。突然のお電話で恐縮なのですが、内々に一度お会いさせていただけないでしょうか?」
「は?なんのご用件ですか?」
「釘崎さん御自身のキャリアアップにつきまして…いや、実はある会社で釘崎さんのような経歴の方を強く望まれておりまして…」
この1本の電話が、ボクのその後の人生の大きな転換点となったのでした。
(どうすんの?会うの?…つづく)
悩んでますねー。若きウェルテルの悩み・・・ならぬ、若き日の釘さんの悩みですね。
20代後半というのは、誰しも自分の将来のキャリアで悩む時期なのかもしれません。
いずれにしてもパフ創業までの道のりは、まだまだ遠いようです💦
さて、本日は対外的なwebミーティングが三連荘。外は猛暑なので、こんな日のwebミーティングは気が楽ですね。
では朝食&エール再放送後、仕事します!
新・パフの創業物語<第28話>「悶絶・苦悩・絶体絶命の日々~3~」
2020年8月5日 (水曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第28話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
「む、むちゃくちゃですね。2ヶ月間かけて、これですか……」
ボクが生まれて初めて作ったパソコンのプログラム。それはそれは、ひどいモノでした。
悪いことに、このシステムのエンドユーザー(最終納品先)はC社の大得意さんで、国内最大手コンピューターメーカーであるF社だったのですが、その納期(エンドユーザーの立ち会い検査日)まで、実はあと1週間しかなかったのです。
普段は飄々としている技術者E本さんも、この無茶苦茶なプログラムを目の当たりにして、さすがに言葉を失った様子でした。
しかし、しばらくして…
「釘崎さん、どんなことをしてでも、あと1週間で完成させますからね。明日からは、この技術センターに缶詰になっていただきます。一緒にプログラムを完成させましょう」
「は、はい」としか答えることの出来なかったボクは、翌日からまさに一睡もできない状況下におかれ、日々プログラムの修復(というかほとんど作り直し)に追われる毎日でした。
もっとも、ほとんどのプログラムを作ってくれたのは担当のE本さんであり、ボクはその助手みたいな感じで、E本さんの鮮やかなプログラミング技術に感心しながら、次第次第に出来上がっていくシステムに感動を覚えたものでした。
そして1週間後、無茶苦茶だったプログラムは見事生まれ変わったのでした。
「釘崎さーん、なんとか間に合いましたね。ほら、ちゃんと仕様通りに作動してますよ。やりましたねー。これで我々クビにならずに済みますよ。やれやれ(笑)」
このE本さんの、納期までにシステムをキチンと完成させるという執念。休むことなく、寝ることなく、黙々とシステム作りを行う集中力、精神力。
そして、ほんとうに納期通り完成させてしまった凄い技術力。おそらくE本さんは、この1週間ほとんど寝ていないはずで……。
社会人(というかプロのエンジニア)というのは、かくもスゴイものかと思い知らされた1週間でした。
それにしても、どうしようもないまったくのド素人である外注のボクを見捨てるどころか、一緒に最後までつきあってくださたE本さん、未だに感謝しています。ボクの大恩人のひとりです。
このシステム案件がきっかけで、以降たくさんの仕事をボクご指名でいただくことになり、ボクのシステム技術者としての社会人生活が本格的にスタートすることになったのでした。
そして5年後、社会人としての岐路がまた訪れることになるのです。
(いきなり5年後?ずいぶん端折るねー。…つづく)
このE本さん、20年近く前に再会した(先輩格のエンジニアで子会社の社長になっていた)S藤さんに「実は昨年ご病気で亡くなられたんですよ」とお聞きしました。たいへんショックを受けたものです。
どうしようもなかった素人のボクが、いっぱしのプログラムを組めるようになったのはE本さんのおかげなのです。
上の物語の数年後だったでしょうか。「釘崎さん、今度のシステム、すごくいいプログラムを書きましたね!そのモジュール(部品)、私のシステムでも使わせてもらっていいですか?」と、褒められたことがありました。とても嬉しかったことを覚えています。
現地調整作業のときなどは終電や終バスを逃すことも多かったのですが、僕の住むアパートまでクルマで送ってもらうこともしばしばでした。
天国のE本さん、その後のボクはE本さんに教えてもらったプログラミング技術や知識を応用しながら、あるいは執念やマインドを見習いながら、コンピュータ関連の世界でどうにかこうにか生きることができました。いまさらですが、本当にありがとうございましたm(__)m。
さて、本日の午前中は第25期8月度のキックオフミーティング。次期社長率いる初めての月次業績はどうだったんでしょうか。僕はwebで参加することにしましょう。
午後は銀行とのリアル会議なので出社しますけどね。
では、朝食&エール再放送後、まずは家からキックオフミーティングに参加します!
新・パフの創業物語<第27話>「悶絶・苦悩・絶体絶命の日々~2~」
2020年8月4日 (火曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第27話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1984年6月。
大手計測制御メーカーC社からシステム開発を受注して2ヶ月ほどの月日が経っていました。
開発メンバーはボクを含めて3名。ひとりは、SE歴15年の大先輩。もうひとりは、SE歴2年の小先輩。そして経験年数ゼロのボク、という組み合わせでした。
システム構成は大きく2つに分かれていました。ひとつは計測装置に組み込むROMそのものを開発する部分。もうひとつは、計測装置の起動、中断、終了などの運転制御や、計測されたデータの分析や運転状況の監視を画面表示を通じて行うパソコンシステムの部分です。
実は先輩の2人、いろんなシステムの開発経験はあるものの、パソコンのプログラミングはまったくの初体験でした。「え?」と思われるかもしれませんが、パソコンがやっと世の中に出回り始めたのがこの頃だったので、無理のないことでした。
「釘ちゃんさー、俺たちもパソコンに関してはまったくの素人だからさー、パソコンの担当は釘ちゃんがやっても俺たちがやっても一緒だよな」
「は?」
「うん、ということで、釘ちゃんがパソコンの担当ということで決まり!」
「え?じょ、冗談でしょ?またー、は、ははは。え、マジっすか?」
ということで、システムのイロハも分からぬまま、独学でBASICなるプログラミング言語と格闘することになったわけです。
それからの2ヶ月間、アパートに帰ったのは土・日含めて数えるだけ。
ボクの寝床は、会社の机の上に敷き詰めた古新聞。
枕は、MS-DOSの分厚い英語のマニュアル。
そして掛け布団は、トグロを巻いたストックフォーム(プログラムリストを出力するための連続帳票用紙)。
売れっ子漫画家顔負けの、想像を絶する生活が続いたのでした。
そんなこんなで悪夢のような日々は過ぎ去り……。
まがりなりにも組みあがったシステムを、先方の担当者に見てもらう日がやってきたのです。
「あ、釘崎さん、できましたか?難しかったでしょう。どれどれ動かしてみてくださいよ」と、先方の技術担当者であるE本さん。
出来上がりに自信なんてまったくなかったのですが、「えーい、もうどうにでもなれ!」という心境で、フロッピーディスクに格納したプログラムをパソコンに読み込ませ「RUN」というプログラム実行ボタンを押すボク。
E本さんの顔が見る見る変わっていくのが、怖いほどよく分かりました。
「む、むちゃくちゃですね。2ヶ月間かけて、これですか……」
釘崎青年の本当の地獄の生活は、ここから始まるのでありました。
(や、やっぱり死ぬのか?つづく)
そりゃあ経験ゼロの素人が組んだプログラムがむちゃくちゃなのは無理もありません(苦笑)。でも、このとき先輩二人が組んだ計測装置側のプログラムもぜんぜんダメだったんですよね。
実はこの計測装置はC社にとっても新製品で、参考にできる過去の事例やノウハウなどもありませんでした。C社の技術担当者と共に途方に暮れていた1984年の初夏の夜だったのです。
さて、本日は事業承継スキームを考える日。明日の金融機関との打ち合わせに備えて、あたまの中の構想をパワポに整理します。わりとややこしいのですが、計測制御のシステムを作るのに比べれば何倍も楽ちんな仕事です(笑)。
では朝食&エール再放送後、仕事します!
新・パフの創業物語<第26話>「悶絶・苦悩・絶体絶命の日々~1~」
2020年8月3日 (月曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第26話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1984年4月某日。
計測制御技術では定評のある(といっても当時のボクは、全然知りませんでしたが)C社技術センターでの、腕利き技術者とのシステム開発のための仕様打ち合わせ。
入社2年目のSEだなんて偽ったって、所詮ボクは、つい先日までリクルートブックの広告営業しかやったことのない超文系人間。あっという間にボロが出てしまいました。
この時に打ち合わせをしたシステムは、「ZD(ツェナーダイオード)エージング装置制御システム」というやつで、極めて荒っぽく説明すると…
「ダイオードを冷蔵庫の化け物みたいな恒温槽という入れ物に保管し、温度を0℃~100℃くらいまで切り替えていきながら、ダイオードから得られる電流・電圧・光量なんかを1週間サイクルで計測し、そのデータを計算式を駆使しながら様々なチャートやグラフで描くシステム。この温度制御や、データの取得、分析・作画・作表などの一切合切の処理をパソコンで取り仕切る」
というシロモノです。・・・といっても、わかんないでしょ?
こんなワケの分からないシステムを、文系の大学を卒業したてで、数学も物理も化学も音痴で、コンピュータもさわったことのない奴が理解できるはずがない。
打ち合わせが本格化して15分ほど。真っ青な顔をして脂汗を流しているボクに気づいた先方の技術者は、
技 : 「あのー釘崎さん、わかります?ちょっと難しいかな?」
釘 : 「え、え、えぇ、いやー、ちょっと…」
技 : 「釘崎さんて、学生時代の専攻は?物理?数学?電気?情報?」
釘 : 「い、いや、あのー、ま・マーケティングを少々…」
技 : 「マーケティング?あ、じゃ、じゃぁ、パソコンのプログラミングには詳しいんだ。で、ですよね?」(覗き込むように)
釘 : 「い、いやー、それも実は……」
技 : 「……」
もうウソはつけないと観念したボクは、
釘 : 「すみません、ボクはつい先日、大学を卒業したばかりで、パソコンもまるで触ったこともなければ、ましてやダイオードなんてさっぱり分からないまるっきりの素人なんです」
と、蚊の泣くような声で、白状をしてしまったのです。
これにはさすがの、技術者S藤さん、E本さんもビックリされたのでしょう。しばらくは沈黙が続きました。
しかし先輩格の技術者S藤さんは、
「まぁ、仕様書はキチンとあるわけだし。今日の打ち合わせの内容を持ち帰っていただければ、会社の他の皆さんでなんとかしてくださるでしょう」
といって、残りの説明を懇切丁寧にしてくださったのでした。
薄れ行く意識の中での打ち合わせも終わり、「もうこの会社に来ることはないだろうな。社長には悪いけど、この会社との取引はオジャンだ。あーあ」と思ってその日は帰宅。
ションボリとして翌日会社に行くと、思わぬ社長の一声が…。
「おーい、釘ちゃーん。昨日はお疲れさま、悪かったね。さっきC社から電話があってさ、昨日の打ち合わせのシステム、よろしくお願いしますってさ!釘ちゃん、なかなか評判良かったみたいだねー。『なかなか頼もしい新人ですなー』って俺誉められちゃったよー!」
おいおい、ホントかよ?
正式な受注は、会社としては嬉しいことかもしれないけど、あのワケのさっぱり分からない「エージングシステム」、ホントに俺やるの……。
得体の知れぬ恐怖と不安が一気に襲ってきた瞬間でした。
そしてその恐怖と不安は、みごと現実のものとなり、身も心もボロボロのグチャグチャ新社会人生活1年目がスタートするのでした。
(し・死ぬなよ!つづく)
この物語を書いたのは丸20年前ですが、システムの説明がわりと詳しく書いてあってビックリしました。ちゃんと覚えていたんですね。それにしても、よくもまあこんな難しいシステムを作っていたものだと我ながら感心します(苦笑)。
さて、本日は売られた喧嘩を買いに行かねばなりません。もういい加減うんざりで、早くこの詳細を公表したいんですけが、もう少し先になりそうです。
では朝食&エール再放送後、重い資料をゴロゴロしながら行ってきます!