新・パフの創業物語<第44話>「紙切れ2枚の事業計画書」
2020年9月1日 (火曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第44話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1997年10月中旬。
カミさんの承諾を取り付けたボクは、なんの気兼ねもなく正々堂々と独立に向けた準備を進めることができるようになっていました。
まず、真っ先に報告したのは、あのムライミツル氏。
釘:「ムライさーん、ムライさんの忠告通り、カミさんを説得し味方につけましたよ」
ム:「え?何の話?」
釘:「何の…って、おれ会社作るんですよ、作れって言ったのはムライさんでしょ?」
ム:「えー!?そうかあ、作るのかあ、へー、そうかあ、思い切ったなあ、へー」
まー、もともとこんな感じの人なので、あまり気にしませんでしたが(笑)。
そして、次の報告&相談が兄貴。そもそも弟のボクをリクルート業界に引きずりこんだのは兄貴。
このとき兄は、リクルートのグループ会社の社長に就任したばかりでした。
そんなことで兄にはぜひ出資を仰ぎ、株主になってもらおうと思って電話したところ・・・
釘:「あ、もしもし俺、清秀だけど久ぶり。あのさー、俺会社作ることにした」
兄:「そうかー」
釘:「よかったら出資してくれないか?」
兄:「わかった。100万円くらいなら何とかするぞ」
兄からは、少しは反対されるかと思いきや、むしろ独立することを喜んでくれたようでした。しかも100万円ポーンと出してくれるというので、逆に拍子抜けしたものでした。
さて、これで資本金は、とりあえず自分のお金(実際は娘名義の貯金ですが)とあわせて、200万円確保したことになります。
あと800万円をどうするか。
「そうだ!昔からの友人をリストにして、一人ひとりお願いしてみよう」
「とりあえず、『事業計画書』をつくんなきゃ!」
そして苦心の末できあがったのは、A4サイズ2枚だけの事業計画書。
今読み返すと、恥ずかしくなるほど拙いものでした。
そして、作成の翌日から本格的な出資者探しが始まるのでした。
( 詐欺でつかまるなよな! つづく)
結果から書くと、出資者を探し始めて1か月も経たないうちに、資本金1,000万円を集めることができたのですが、この間、会って話をした人は約30名。そのほとんどの方々には株主になっていただくことができました。
このときはまだサラリーマンなので、会えるのは夜間か土日。しかも、まだ携帯電話が普及していなかったころですから本人を捕まえるのにも苦労したものですが、我ながら粘り強く、よく頑張ったものだと思います。
フォークソング居酒屋開業に向けて同じことをやれと言われても、とても真似できないです(苦笑)。
さて、本日は終日在宅勤務の予定です。最近では本業以外の仕事がやたらと降ってきて意外と時間がありません。きょうも最後の打ち合わせが終わるのが夜の8時だし。眠くならないようにしなきゃ💦
では、朝食&エール再放送後、仕事します!
新・パフの創業物語<第43話>「おれー、会社作りたいんだけど…」
2020年8月31日 (月曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第43話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1997年10月11日(土)の夜。
当時、幼稚園の年長組だった娘の運動会が開催された日の夜だったと記憶しています。
一昨日の夜、ムライミツル氏との会談(っていうか単なる飲み会)で独立を決意したクギサキくんではあったのですが、そのムライさんから授かった重ーい言葉…。
「でもな、クギサキ。お前が会社を作って成功するためには、絶対守らなければならない条件がひとつだけある。というか、それがないとお前は絶対に失敗する」
「カミさんに誠意を持って独立を説明し、そして許しをもらい、さらには独立を進めるにあたって、カミさんの協力を最大限得ることだよ」
正直言って、これはかなり憂鬱な条件でした。
自慢じゃありませんが、クギサキくんは九州男児。男子一生の志を立てるにおいて、女房にお伺いをたてるだなんて(って、実は反対されるのが怖かっただけなんですが…)。
しかし、ムライさんの「カミさん論」には、ものスゴイ説得力があり、カミさんの同意を得ないことには前に先に進めない、まるで呪縛にかかったような感覚でした。
ボクはムライさんのことを「売れないヘコキ営業マン」だとかなんだとか、この連載でもオチョクリながら紹介してきましたが、実は社会人の先輩として一番尊敬し、信頼している人物のひとりなのでした。
ボクがリクルートでヘマをしながらも仕事を続け、そこそこの実績を出せたのもムライさんのおかげだし、顧客に接する姿勢や、「人生とは意気に感じながら生きていくもんだ」という姿勢を学んだのもムライさんからだったんですね(そんなことは照れくさくて本人の前では決して言いませんが)。
そんなムライさんの言うことを聞かないわけにはいかないし、内心ムライさんの言うとおりだと納得していたわけで……。
夜も深まり、アイロンをかけ終わって寝ようとしていたカミさんに意を決し声をかけました。
釘:「あ、あのさー」
カ:「え、なに?」
釘:「おれー、会社作りたいんだけど…」
カ:「・・・」
釘:「い、いやー、あのー、〇♂◆♀☆※★○●◎◇□■△▲…………」
それから1時間ほど、いろんなことをしゃべり続けました。
まるで、いたずらをした子どもが、必死になって自分は悪くないということを、どう考えても筋が通らないことなのに、無理矢理、母親に言い訳するように…。
いったいどんな理屈を並べたのか、実はさっぱり覚えていないのですが…。
ひとつ覚えている屁理屈は、
「会社を作ろうと作るまいと、失敗するときは失敗するし、成功する時は成功する。だったら自分の会社を作って失敗したほうがまだあきらめがつく」
という、かなり無茶苦茶な理屈だったかな…。
そして、最後には「わかりました。どうせ私がダメだと言っても、あなた、やるんでしょ?だったら好きにすれば!」と、いうことで無事カミさんは承諾してくれたのでした。
カミさんは、なんだかんだ言っても、亭主であるボクのことを信頼してくれていたのだ!と、勘違いかもしれませんが、自惚れた一瞬でした。
しかーし!もうひとつ実は難題があったのでした。
釘:「あ、あのー、会社を作るには、資本金が1,000万円必要なんだけど、ウチって貯金、いくらあるの?」
カ:「んなもん、ある訳ないでしょ!子どもの名義の貯金が100万円あるかどうかだけよ!!!」
釘:「う…。そ、そうか……」
さーて、困った。会社をつくるための資本金1,000万円。
10万円以上の現金を見たことのなかったクギサキくん。途方に暮れる秋の夜長でした。
(イッセンマンエンねー。どうするの?…つづく)
今朝の物語は、僕の人生の中でも一二を争うくらいに緊張した夜を再現した回でした。今でも思い出すと冷や汗が流れてきます💦。
さて、本日も朝から会社で打ち合わせです。
午後からは役所巡りをしなければなりません。自転車に乗っていくことにしましょう。
では、朝食&エール再放送後、行ってきます!
新・パフの創業物語<第42話>「独立決意前夜その2」
2020年8月28日 (金曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第42話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1997年10月9日(木)、21:30頃(時間はかなりあやふやな推測)。
銀座8丁目の「やぐら茶屋」という居酒屋で、かつてのリクルート時代の先輩ムライさんと久々に酒を酌み交わしていました
ム : 「なんだ、クギサキ。じゃー、おまえ会社作れよ!」
釘 : 「ま、またー、ムライさんは他人事だと思って簡単に言いますねー」
ム : 「ちがうって、クギサキ。お前は会社を作って、自分でやっていけるだけの人間なんだって」
釘 : 「いや、ちがうって、ムライさん。ボクはそんな大した人間じゃなくて…」
ムライさんからいとも簡単に「会社を作れ」と言われて、むしろ自分はどれだけ頼りなく情けない人間であるかということを、グダグダと説明を始めたのでした。
そして……。
釘:「ムライさんさ、俺、兄貴のひょんなコネでリクルートで働きはじめて、そんでもって、その後、いくつかの会社を渡り歩いてきたんだけど、今振り返ってみると、いろんなドラマがあったよなあ」
ム:「おう、お前、よく、あの小さな会社に飛び込んでいったよな…。正直言って、ああいう生き方ができるお前がうらやましかったよ」
釘:「いやあ、無鉄砲というかね。勢いだけで、何にも考えてなかったんですよね、あのころは…」
ム:「自己分析もなんにもなかったよな」
釘:「リクルートの後、小さなソフト会社に5年、でかいコンピュータ会社に1年。そして今の会社に7年。考えてみたら俺、けっこう苦労してきたけど、無駄な経験ってひとつもなかったような気がします。ぜんぶ今の自分にキレイにつながってますよ。まさに、偶然の産物。結果オーライっていうやつですよ」
ム:「いや、クギサキ、それは違うな」
釘:「え?」
ム:「結果オーライなんかじゃない。お前がお前自身の力で、結果をオーライにしてきたんだ。お前は結果をオーライにできるやつなんだ」
釘:「は、はぁ、そ、そうっすか」
ム:「そうだよ」
釘:「・・・」
ム:「クギサキさー、お前が会社作ろうと思ってるんだったら迷わず作ればいいよ。だいたいお前はリクルートを飛び出して、そのちっぽけな会社に入ったときから、すでに独立してるようなもんじゃねえか。それで結果をすべてオーライにしてきたんだろ?」
釘 :「・・・」
ム : 「クギサキ!やってみろよ」
このムライさんの 『 お前は結果をオーライにできるやつなんだ 』 のひとことは、ズシーッと効きました。
それまでボクは、いろんな修羅場をくぐりながらも、それなりの結果を出してきた自負はありました。
が、それは、いろんな人たちの支えがあったり、ラッキーが重なったりして出来上がったもので、自分の実力でやってこれただなんて、これっぽっちも思ったことがなかったんですね。
ところが、ムライさんのこのひとことで、勇気がフツフツと湧いてきて……。
釘:「ムライさん、オレやってみようかな」
ム:「おー、やれやれ!でもな、クギサキ。お前が会社を作って成功するためには、絶対守らなければならない条件がひとつだけある。というか、それがないとお前は絶対に失敗する」
釘:「え、な、なんすか?」
ム:「カミさんへの説得だ」
ム:「カミさんに誠意を持って独立を説明し、そして許しをもらい、さらには独立を進めるにあたって、カミさんの協力を最大限得ることだよ」
釘:「え゛~~!」
自慢じゃないけど、クギサキくん、九州男児のハシクレであり、女房にひれ伏して協力を仰ぐだなんて、想像しただけでもゾッとしていたのでありました。
(次回、ひれ伏すのか? つづく)
このシーンは、2007年の10周年式典のときに「パフの創業物語~Always三丁目の夕日編~」という寸劇に仕立てて、大きな舞台(銀座ブロッサム)で上演したことがあります。
クギサキを演じたのは当時入社2年目のタカタくん(いまはパートナー企業ガイアックスさんで活躍中)、そしてムライさんを演じたのはシモゾノさん(当時就職エージェントの社長で現キーカンパニーの社長)でした。
われながら感動の大作だったと思っています(笑)。
そして3年前の20周年式典のときには本物のムライさんが遠くUAE(アラブ首長国連邦)からビデオメッセージを送ってきて、この日のことを面白おかしく語ってくれました。
日記読者の皆さん限定の特別公開です(笑)。よかったらご覧ください。
さて、本日は朝からマジックドラゴンの顧問税理士さんとの打ち合わせです。フォークソング居酒屋開業に向けて、まずは資金調達や資本政策を整えねばなりませんからね。
では、朝食&エール再放送後、行ってきます!
新・パフの創業物語<第41話>「独立決意前夜」
2020年8月27日 (木曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第41話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1997年10月9日(木)午後7時ころ。
銀座8丁目にあったリクルート本社の受付ロビーで、ボクはその男を待っていました。
その昔、分厚いリクルートブックの見本誌を両脇に抱え、
「クギサキさー、オレたちなんでこんなに売れないんだろう・・・」
と、ぼやきながら、神田の街を一緒にトボトボと歩いていたその男を。
「おー、クギサキー、わりーわりー、遅くなっちゃった。おー、久しぶりー」
当時とまったく変わっていないその男は、約束の時間に遅れたことなど少しも気にすることもなく、屈託のない笑顔でクギサキくんの前に現れました。
その男、名前を「ムライミツル」と言います。
売れない営業マンだったはずのムライさんは、本人のキャラクターとはまったく不似合いな人事部に所属していました。
「そうだ、クギサキ、昔よく行った、『やぐら茶屋』に行こうぜ!」
昔、リクルート本社で会議があると、帰りにはよくこの『やぐら茶屋』に立ち寄って飲んだものでした。
「いやー、ムライさん、久しぶりですねー」
久々に再会した2人は、かなりの急ピッチで飲み始めていました。
「ムライさん、俺さー、今の仕事十分面白いんだけど、なんかこう満たされないときがあるんだよね・・・」
「自分の会社だったら、もっと好きなように仕事をやれるんだけどな。しょせんサラリーマンだしな・・・」
そう愚痴るボクに対して、ムライさんは実に簡単に次の一言を発しました。
「なんだ、クギサキ。じゃ、おまえ会社作れよ!」
いとも簡単にそう言われたボクは、相当に心が揺れ動いていたのでした。
(ん?今日は短いね。つづく)
メルマガに掲載していたときの原稿では、10月8日の出来事として書いてあったのですが、先ほど1997年当時のカレンダーを調べたところ、正しくは10月9日(木)だったことが判明しました。
そして翌々日の10月11日(土)は娘の幼稚園の運動会。運命の日です。
このへんの話は次回以降、昔の記憶を手繰り寄せながら、できる限り詳しくリライトしていくことにします。
さて、本日も朝イチ出社です。雑用係の仕事を済ませたのちは、また自宅に舞い戻って在宅でのオンライン会議。画面を見ている時間が長いせいか、最近は肩凝りが激しいです。夜は近所の治療院で鍼でも打ってもらいましょうかね。
では、朝食&エール再放送後、行ってきます!
新・パフの創業物語<第40話>「クギサキの運命を変える男との再会」
2020年8月26日 (水曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第40話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1997年10月上旬。クギサキくん36歳と10ヶ月。
もう青年とは呼べないクギサキくんは、「登龍門」の運営責任者として足掛け3年を過ごしていました。
「登龍門」も、スタート時は赤字まみれの事業だったのが、なんとか3年目にして利益を出せるところまで漕ぎ着けていたし、それ以上に知名度がグングン上昇していた頃でした。
インターネットもようやく市民権を得て、ネット社会突入前夜といった雰囲気の頃でもあり、「ネット社会における就職情報ビジネスは、これからどうあるべきか?」なんてことを結構まじめに考え始めていました。
「登龍門」によって就職情報事業者の仲間入りをした自分なのですが、一方で、何となく不完全燃焼な状態の自分にも気づき始めていました。
自分の力不足のためなのですが、不本意なことであってもオーナーの意向には従わざるを得ず、「登龍門」が有名になればなるほど、利益をあげそうになればなるほど、我慢しなければならないことが顕著になってきていたのです。
そんなことは、サラリーマンであれば当然のことで、その調整をいかにうまくやるかが組織人としての腕の見せどころなのですが、
「くそー、オレがオーナー社長だったら、こんなクダラナイことで我慢しなくてもいいんだけどな」
なんてことを、夜な夜な行きつけの焼鳥屋でウジウジと愚痴っている、典型的なダメオヤジサラリーマンなのでありました。
そんな折、青春まっただ中の22歳の頃、リクルートで一緒に営業マンとして苦楽を共にしていたムライ氏と再会したのです。
(参照:<第14話> 「ぜんぜん売れない2人の営業マン」、<第17話>「ヘンな新入社員ムライミツル」)
きっかけは、JobWebが出版していた本に、ムライ氏がリクルート社の人事担当者としてコメントを寄せていたのを書店の立ち読みで見かけたことでした。
「あれー?ムライさん、今リクルートで人事やってるんだ、似合わねー(笑)」と思いつつ、次の日にはリクルート本社に電話していました。
「あのー、おたくの人事に、ムライミツルっていう人います?」
まことに怪しげな電話をかけてしまったのですが、次の瞬間に出てきたのは、当時の売れない営業マンの頃そのままの天衣無縫なムライさんの声。
「おー、クギサキー、ひっさしぶりだねー。よっしゃ飲みに行こうぜー!」
こうして、パフ創業への扉が、本人も気づかぬまま静かに開かれるのでした。
(うーん……。つづく)
ついに満を持してのムライさん再登場です(笑)。
この日からパフ創業日の12月12日まで2カ月ほどしかないのですが、さて、このあとどんな展開が待っているのでしょうか。楽しみですね。楽しみなのは自分だけかな?(笑)。
ちなみに以下の写真は、つい最近ムライさんのご自宅に「流し」をやりに行った時のものです^^
さて、本日も朝イチで会社です。
その後は、銀行との打ち合わせ&Webセミナー。テーマは事業承継です。まさか自分が考えることになるとは。創業からあっという間という感じですね💦
では朝食&エール再放送後、行ってきます!
新・パフの創業物語<第39話>「『登龍門』発進、TVにも出ちゃった!」
2020年8月25日 (火曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第39話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1995年10月下旬。
「12月1日に登龍門オープン!」と宣言したまではよかったものの、まだなにも出来ていないに等しい状況でした。
当時、ボクはもうシステムのプログラミングからは足を洗っており、実際に作り込みを行っていたのは兄弟会社のSEでした。
組織が違っていたものですから、ボクにはそのSEに対しての直接の指揮命令権がなく、SEの上司を通してでないと「開発を急げ!」という催促すら出来ない始末。
おまけにボクはその上司とは折り合いが悪くて、なかなか言うことを聞いてくれない。随分とヤキモキさせられていました。
そんなヤキモキしていた最中に1本の電話が入りました。
「こちらテレビ東京の『インターネットエクスプレス』という番組ですが、御社が12月にスタートされるというインターネットの求人情報サービスを、ぜひ取材させていただきたいのですが」
番組ディレクターからの取材依頼の電話だったのです。
この電話の数週間前、日経産業新聞にも比較的大きく取りあげてもらったことがあり、このディレクターはその記事を読んで電話をくれたのでした。
恥ずかしがり屋のくせに、案外出たがりのクギサキくん。
「どうぞどうぞ、ぜひ取材に来てください!」と、気安く取材をOKしたものの、冷静に考えるとテレビが取材するということは、現物のシステムが出来ていないとお話にならないはず。
しかし実際には、人様に見せられるようなものは何一つ出来上がっていない。しかも、取材日まであと1週間程度しかない。
ま、まずい。なんとか形だけでも整えねば……。
このテレビ番組の取材依頼がきっかけで、クギサキくんのヤキモキが周囲への迫力に変わり、システムの開発をはじめ、カタログ類の制作や、プロモーション資料の作成、仕様の細部の詰め、掲載企業の開拓等々が急ピッチで進むことになったのでした。
そして、11月上旬の取材も無事終え、12月1日のオープン日。何日もの徹夜作業を経て、どうにかこうにか「インターネット求人情報『登龍門』」が、広くネットの世界に公開されたのでした。
実は、先に取材を受けたテレビ東京の番組『インターネットエクスプレス』、奇しくも登龍門のオープン日と同じ、12月1日が放映日と決まっていたのでした。
この日は、いそいそと自宅に早く帰り、テレビに今か今かとかじりつき、「おー、でたでたー!」と叫びはしませんでしたが、やや気取った表情の自分の顔、そして愛着のある登龍門の画面がブラウン管一杯に映った時には、感無量でした。ホンの数分間の登場だったのですが、かなり長い時間に感じました。
実際の映像です。若いっすね(^^;
そして、このテレビ番組が終わった直後、意外な人からの電話。
「クギサキ君、おめでとう!テレビ映りなかなか良かったじゃない。これから、なんとかビジネスになるようにガンバロウ。いやー、よかったよかった、おめでとう!」
電話の主は、このネットのビジネスをやろうと言い始めた、H社のK社長だったのです。
この物語では語り尽くせないような苦労がたくさんあっただけに、社長からのこのときの電話は、正直とても嬉しかったですね。
そしてこの放映の日から足掛け3年、ボクは登龍門の運営責任者として過ごすことになるのでした。
しかし……。
(なんだなんだ?つづく)
このころのテレビの影響はとても大きく、放映があった翌週からたくさんの問い合わせが入ってきました。
営業マンの数が足りずに、僕が問い合わせのあった企業に訪問することも多かったのですが、「あ、テレビに出てた人ですよね?」などと言われたこともありました。
新聞や雑誌などで取り上げられることも多くなり、インターネットの急速な普及とともに高揚感のあった時代でした。
でも、自分が起業するなどとは、このときは露ほども思っていませんでした。
さて、本日は朝イチ出社です。社員には見せたくない大きくて大事な荷物が僕宛に届くので、それを受け取るためなのですが(^^;。
では、朝食&エール再放送後、行ってきます!
新・パフの創業物語<第38話>「『登龍門』誕生」
2020年8月24日 (月曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第38話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1995年初秋。
インターネットによる求人情報事業。
この時代、インターネットを使って情報を発信している会社は数えるほどしかなく、果たしてビジネスとして成立するかどうか……。
なにせ今では「リクナビ」で一世を風靡しているリクルート社ですら、この時はまだネットのサービスは行っていなかったのですから。
ところで、このネットによる求人情報メディアの名前をどうするか?
当時の会社のメンバー内で、ああだこうだ案を出すものの、いまひとつ良い名前が浮かびませんでした。
ある日、会社の誰か-たしか兄弟会社の人事部長(僕を最初に面接した人)だったと思います-が、近所にあった「飛龍門」という中華料理のお店でランチを食べてきた帰りに、「そういえばクギサキくんさー、例の求人メディアの名前なんだけど『登龍門』っていうのはどう?」と、僕の席までわざわざ言いに来ました。
「ほー、そりゃなかなか良いかもしれないっすねー。若者が社会人として巣立っていくための場を提供する『登龍門』。うん、これでいきましょう!」
H社の社長も、このネーミングを気に入ってくれたようで、その日のうちに正式に決定したのでした。
「インターネット求人情報 『登龍門』」
ボクが以降3年間、深く関わっていくことになる、生まれて初めてのWebサイトでした。
が!
この時はまだ名前が決まっただけで、中身がなんにも出来上がっていなかったのです。
サイトのオープン日は、勢いで「12月1日」と決めたものの、ちゃんと動く画面がまだひとつも出来上がっていない。
果たして本当に間に合うのだろうか?
釘崎青年(ではもうない)34歳。不安ばかりが募る毎日でした。
(今回は短め…つづく)
ホントに今回は短かったですね(苦笑)。
この回を書いた日付は、2001年4月30日。どうやらGWの谷間だったようです。
このころの僕には休日とか祝日という概念はなかったですから、きっと何かの仕事に追われていたのではないでしょうか。
この年の新入社員(新卒一期生)のしでかしたヘマの尻拭いやトラブルの火消しに飛び回っていたのかもしれません(笑)。
さて、8月も最終週となりました。僕の社長在任もあと1か月。そしてこの釘さん日記も……。
では、朝食&エール再放送後、在宅で仕事します!