パフ代表の徒然ブログ「釘さん日記」

20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第39話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


1995年10月下旬。

「12月1日に登龍門オープン!」と宣言したまではよかったものの、まだなにも出来ていないに等しい状況でした。

当時、ボクはもうシステムのプログラミングからは足を洗っており、実際に作り込みを行っていたのは兄弟会社のSEでした。

組織が違っていたものですから、ボクにはそのSEに対しての直接の指揮命令権がなく、SEの上司を通してでないと「開発を急げ!」という催促すら出来ない始末。

おまけにボクはその上司とは折り合いが悪くて、なかなか言うことを聞いてくれない。随分とヤキモキさせられていました。

そんなヤキモキしていた最中に1本の電話が入りました。

「こちらテレビ東京の『インターネットエクスプレス』という番組ですが、御社が12月にスタートされるというインターネットの求人情報サービスを、ぜひ取材させていただきたいのですが」

番組ディレクターからの取材依頼の電話だったのです。

この電話の数週間前、日経産業新聞にも比較的大きく取りあげてもらったことがあり、このディレクターはその記事を読んで電話をくれたのでした。

恥ずかしがり屋のくせに、案外出たがりのクギサキくん。

「どうぞどうぞ、ぜひ取材に来てください!」と、気安く取材をOKしたものの、冷静に考えるとテレビが取材するということは、現物のシステムが出来ていないとお話にならないはず。

しかし実際には、人様に見せられるようなものは何一つ出来上がっていない。しかも、取材日まであと1週間程度しかない。

ま、まずい。なんとか形だけでも整えねば……。

このテレビ番組の取材依頼がきっかけで、クギサキくんのヤキモキが周囲への迫力に変わり、システムの開発をはじめ、カタログ類の制作や、プロモーション資料の作成、仕様の細部の詰め、掲載企業の開拓等々が急ピッチで進むことになったのでした。

そして、11月上旬の取材も無事終え、12月1日のオープン日。何日もの徹夜作業を経て、どうにかこうにか「インターネット求人情報『登龍門』」が、広くネットの世界に公開されたのでした。

実は、先に取材を受けたテレビ東京の番組『インターネットエクスプレス』、奇しくも登龍門のオープン日と同じ、12月1日が放映日と決まっていたのでした。

この日は、いそいそと自宅に早く帰り、テレビに今か今かとかじりつき、「おー、でたでたー!」と叫びはしませんでしたが、やや気取った表情の自分の顔、そして愛着のある登龍門の画面がブラウン管一杯に映った時には、感無量でした。ホンの数分間の登場だったのですが、かなり長い時間に感じました。

 

実際の映像です。若いっすね(^^;

そして、このテレビ番組が終わった直後、意外な人からの電話。

「クギサキ君、おめでとう!テレビ映りなかなか良かったじゃない。これから、なんとかビジネスになるようにガンバロウ。いやー、よかったよかった、おめでとう!」

電話の主は、このネットのビジネスをやろうと言い始めた、H社のK社長だったのです。

この物語では語り尽くせないような苦労がたくさんあっただけに、社長からのこのときの電話は、正直とても嬉しかったですね。

そしてこの放映の日から足掛け3年、ボクは登龍門の運営責任者として過ごすことになるのでした。

しかし……。

(なんだなんだ?つづく)


このころのテレビの影響はとても大きく、放映があった翌週からたくさんの問い合わせが入ってきました。

営業マンの数が足りずに、僕が問い合わせのあった企業に訪問することも多かったのですが、「あ、テレビに出てた人ですよね?」などと言われたこともありました。

新聞や雑誌などで取り上げられることも多くなり、インターネットの急速な普及とともに高揚感のあった時代でした。

でも、自分が起業するなどとは、このときは露ほども思っていませんでした。

 

さて、本日は朝イチ出社です。社員には見せたくない大きくて大事な荷物が僕宛に届くので、それを受け取るためなのですが(^^;。

では、朝食&エール再放送後、行ってきます!

 

20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第38話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


1995年初秋。

インターネットによる求人情報事業。

この時代、インターネットを使って情報を発信している会社は数えるほどしかなく、果たしてビジネスとして成立するかどうか……。

なにせ今では「リクナビ」で一世を風靡しているリクルート社ですら、この時はまだネットのサービスは行っていなかったのですから。

ところで、このネットによる求人情報メディアの名前をどうするか?

当時の会社のメンバー内で、ああだこうだ案を出すものの、いまひとつ良い名前が浮かびませんでした。

ある日、会社の誰か-たしか兄弟会社の人事部長(僕を最初に面接した人)だったと思います-が、近所にあった「飛龍門」という中華料理のお店でランチを食べてきた帰りに、「そういえばクギサキくんさー、例の求人メディアの名前なんだけど『登龍門』っていうのはどう?」と、僕の席までわざわざ言いに来ました。

「ほー、そりゃなかなか良いかもしれないっすねー。若者が社会人として巣立っていくための場を提供する『登龍門』。うん、これでいきましょう!」

H社の社長も、このネーミングを気に入ってくれたようで、その日のうちに正式に決定したのでした。

「インターネット求人情報 『登龍門』」

ボクが以降3年間、深く関わっていくことになる、生まれて初めてのWebサイトでした。

が!

この時はまだ名前が決まっただけで、中身がなんにも出来上がっていなかったのです。

サイトのオープン日は、勢いで「12月1日」と決めたものの、ちゃんと動く画面がまだひとつも出来上がっていない。

果たして本当に間に合うのだろうか?

釘崎青年(ではもうない)34歳。不安ばかりが募る毎日でした。

(今回は短め…つづく)


 

ホントに今回は短かったですね(苦笑)。

この回を書いた日付は、2001年4月30日。どうやらGWの谷間だったようです。

このころの僕には休日とか祝日という概念はなかったですから、きっと何かの仕事に追われていたのではないでしょうか。

この年の新入社員(新卒一期生)のしでかしたヘマの尻拭いやトラブルの火消しに飛び回っていたのかもしれません(笑)。

さて、8月も最終週となりました。僕の社長在任もあと1か月。そしてこの釘さん日記も……。

では、朝食&エール再放送後、在宅で仕事します!

 

20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第37話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


もう青年と呼ぶには、やや躊躇せねばならぬ年齢になっていた釘崎(元)青年はH社の社長室に呼ばれ、

「クギサキくんさ、最近インターネットの話題を、ちらほらと耳にするんだけど、インターネットで求人情報を提供するビジネスなんてどう?」

と尋ねられ、

「さ、さぁー、まだまだ世の中に受け入れられないんじゃないっすかね」

と、それじゃなくてもいろんな仕事を抱えてたいへんだったボクは、テキトーにその場をあしらっていました。

が、しかし、どうやらこの社長、本気でこの事業をやりたい様子。

「そんなことないんじゃない?まだ強力な競合がいない今だからこそ、やる価値があるんじゃない?」

ボクは、「さっすが経営者だなー」と正直感心したことを覚えています。

そして、

「しかし、来年ビジネスにするんだったら、97年春入社の就職活動に間に合わせないと丸々1年間を無駄にすることになりますよ。ということは、遅くとも今年の12月にはオープンしなきゃ」

さらに、

「ということはですよ、市場調査とか仕様の設計とか営業活動とか、いろいろ考えると大急ぎで始めないと間に合いませんよ!」

・・・などと余計なことを言ってしまいました。

  (あ、言っちまった。結局オレがやることになるんだよな……)

この予想は見事に的中し、

「うん、そうだね。クギサキくん、じゃあ早速このプロジェクトを進めてくれる? 一回目の企画会議いつやる? 2週間くらいあれば企画書は作れるよね?」

(なーにが「進めてくれる?」だよ。・・・ったく)

と思いつつも、そこはしがないサラリーマン。表面的には意気に感じたフリをして、

「は、はい、わかりました。いやー、なかなか面白そうですねー」

と言ったかどうかは定かではありませんが、なにしろ3~4ヶ月の間に、商品をひとつ作らなければならない。

しかも、今までまったく経験したことのないインターネットのメディア作り。紙メディアならばその昔「リクルートブック」をさんざん売り歩いた経験があるので、なんとかなるのでしょうが。

ボクは当時「インターネット」なるものの名前はかろうじて知っていたものの、いったいどういうシロモノであるのか、実はまったく分かっていませんでした。

翌日から本屋に行っては、インターネットと名の付くものがあれば片っ端から立ち読みする(ケチなのでなかなか買わない)生活が始まりました。

(まー、要するに紙の就職情報雑誌が、パソコンの画面上に展開されるわけだな。 あとは資料請求ハガキの代わりになる仕組みを考えて、検索性なんかも高める仕様にすれば何とかなるかな)

という感じで、できるだけシンプルに「インターネット求人情報メディア」の仕様作成と基本設計を進め、数か月後にはいくつかのプロトタイプも組みあがってきました。

季節はすでに1995年初夏。

Microsoft Windows 95の正式リリースを控え、個人へのパソコンの普及が広く進み始めた頃の出来事でした。

(最終回までまだまだ波乱がありそうですね。つづく)


 

このころ、僕も自宅でパソコンを買うことにしました。もちろん自腹です。IBMのAptivaというデスクトップ型のパソコンでした。

これですね👇

Windows 95がリリースされる前のWindows 3.1という使い勝手の悪かったOS。パソコン付属のモデムと自宅の電話線を繋いで、ピーガーガーガーと苦労しながらインターネットに接続していたものです。

なっつかしいですねー( ^)o(^ )

さて、本日は朝10時半から夕方の18時前までぶっつづけの会議。

Fネット(ふるさと就職応援ネットワーク)の第12期総会と第13期第一回定例会なのであります。

では、朝食&エール再放送後、準備します!

 

20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第36話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


H社に入社し、ボクは約7年ぶりに人事を対象とした仕事に携わることになりました。

当時のH社は、適性検査の企画・開発・販売を細々と行うだけの会社で、社員も心理学の先生を含めて3名のみ。同居している兄弟会社のR社は100名ほどの所帯でしたから、ほんとに小さなひとつの「課」みたいなものでした。

でもそんな小さな会社とはいえ、取引先企業は100社を越えており、売上げや利益もなかなか底堅く、やり方によっては大きく成長する可能性を持った会社でした。

結局ボクは、この会社で29才~37才までの足かけ8年間を過ごすことになるのですが、この間、様々な人事向けの営業と商品開発に携わりました。

 

まず最初に手がけたのが「人事情報システム」の企画・開発でした。

従業員の様々な属性管理、履歴管理をパソコンで簡単に行うためのシステムなのですが、当時はオフコン(オフィスコンピュータ)や大型コンピュータ用の高価なものしかなく、わがH社が開発したパソコンベースのシステムは世の中に広く受け入れられました。

この商品を拡販するために、僕は毎週1回の頻度でセミナーを開催していました。場所は会社の会議室で、1回あたり5名も参加すれば満員御礼になるような狭いスペースなのですが、わざわざ来社された方々は導入意欲も高く、契約率100%につながることもしばしばでした。

パイロットや整備士を管理するシステムとして、大手航空会社のZ社に(カスタマイズ費用も含めて)かなりの高額で導入されたこともありました。

当時のセミナーに参加した、とある大企業の担当者(当時は人事課長)はのちのち大出世して社長になり、後年パフの大きな取引先になったりもしています(2020年8月補筆)。

売れている反面バグも多いシステムで、企画と営業の最前線にいたボクは、ずいぶんと胃の痛い思いもしましたが、自分が生み出した商品でもあり、いまでも思い出深く、愛着のあるシステムです。

 

次に手がけたのが「基礎能力検査」です。

SPIのことは皆さんよくご存じだと思いますが、そのSPIの基礎能力測定部分と競合する商品です。この検査ではさらに、時事問題などの一般常識や英語能力なども組み合わせた、採用時の入社テストとして企画開発を進めました。

ボクが出題内容を考えていた訳ではなかったのですが(作問は外部の専門家に委託していました)、全体の設計やコンピュータシステムの構築、営業のためのカタログ作り、出題内容のチェック、商品化前の予備検査の実施等々、相当に知力と体力を使う仕事でしたが、30代前半だったこともあり、どうにかこうにかやれた仕事でした。

 

そして1995年の初春。ボクが34才の時です。H社の社長は僕を突然、社長室に呼びつけました。

「クギサキくんさ、最近インターネットの話題を、ちらほらと耳にするんだけど、インターネットで求人情報を提供するビジネスなんてどう?」

社長は、ボクにこう尋ねました。

ボクは正直に言うとインターネットなるしろものを、この時まで全然理解しておらず、

「さ、さぁー、まだまだ世の中に受け入れられないんじゃないっすかね」

と、消極的な答えをするのみでしたが、まさかこの話が後に急展開し、ボクの後々の人生をも変えてしまうとは、この時は想像だにしていませんでした。

(やっと最終回が見えてきたぞ。つづく)


 

バブルが崩壊して景気が後退していく時代だったのですが、ダウンサイジングの波が後押ししてくれたのか、このとき手掛けた人事情報システムも基礎能力検査も、まずまずのヒット商品になっていきました。

上にも「補筆」として書き加えましたが、現在パフの大きな取引先となっているK社の社長(昨年引退して相談役に就任されました)との出会いもこのころ。激務の日々でしたが、真面目に仕事をしててよかったなと思います( ^)o(^ )。

さて、本日は在宅で富山在住の会計士とオンラインで繋ぎながらの仕事です。あ、そして夜はライブの合同練習で出社でしたね。仕事は家で、趣味は会社でって変な感じです(笑)。

では、朝食&エール再放送後、仕事します!

 

20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第35話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


1990年7月某日。

その日ボクは、B-ingに求人広告を出していたソフトメーカーR社を訪れていました。

R社はパソコンのデータベースソフトの分野では国内老舗の会社で、曲がりなりにもSEを経験していたボクにとっては、ある種、親しみを覚える会社でした。

R社は、渋谷の宮益坂の途中(渋谷中央郵便局のすぐ隣)の立派なビルに入居していました。

社員が働いているフロアも覗かせてもらいましたが、若い社員が多く、一人に一台のパソコンが割り当てられているのには驚きました。

ちなみにボクがいたS社やM社では、パソコンやワープロを使うのは交替制で順番待ち。コンピュータを扱う会社だったにもかかわらず、です。でも、当時はそれが普通だったんですよね。

面接で通されたのは10人くらい入れそうな広い会議室。妙にフレンドリーな人事部長がやってきて、面接兼会社の説明を30分ほどやっていただきました。

「あ、釘崎さん、今日まだ大丈夫?ちょっとこのまま待っててもらえますか?」

人事部長はそう言って部屋を出ていきました。

しばらくして、少年の面影を残した小柄な人物が、人事部長とともに入室してきました 。

(ん?この人、見たことあるぞ。あ、もしやこの会社の社長では?)

一瞬の推測は当たっていたようで、「あ、釘崎さん、当社の社長のKです。いまちょうど社内にいたので、せっかくなので会ってもらおうと思って連れてきました」と人事部長。

初回から社長に会わすなんて、随分とせっかちな会社だなー、と思いつつもそれだけ評価されたのかな?とまんざらでもない気分でした。

ボク「どうも初めまして、釘崎と申します」

K社長「あ、どもども」

しばらく雑談が続いていましたが、K社長は僕が出した経歴書を読みながら・・・

「へー、釘崎クンは、リクルートで営業マンをやってたんですね。 あ、その後は採用担当者もやってたんですかー、へー、ほー」

ボク 「あ、い、いや、でも、一応はコンピュータ関係が一番長いんですけど……」

(しまった!リクルートでの営業や採用の職務経験なんて書いて来なきゃよかった。ソフトメーカーのR社には何の役にも立たないだろうに)

・・・と、内心思ったのですが、次のK社長の言葉にびっくり。

K社長「実はね、うちの別会社に、といっても部署みたいなものだけど、人事・採用領域に特化した会社があるんですよ。いまは適性検査の開発と販売が中心なんだけど、この会社の立ち上げを釘崎クン手伝ってくれない?」

ボク 「は?」

ずいぶんと気の早い社長です。今日初めて会った男に(しかもまだ人事面接の途中だっていうのに)「立ち上げを手伝ってくれない?」とは。

しかし、まさかソフトメーカーのR社が人材ビジネスをやっていただなんて。少し、いや正直なところ、かなり興味が湧いていました。

ボク「あのう、詳しく話を聞かせていただけますか?」

その後は、トントン拍子に話が進んでいき、7月末、そのR社の兄弟会社H社に入社することが決まったのでした(R社、H社ともにK社長がオーナーで、両社には資本関係はありませんでした)。

偶然にも再び巡り会った人材に関する仕事。釘崎青年29歳の夏の出来事でした。

(へー、それは縁ですね。つづく)


 

この時代のパソコンソフト(当時は「パッケージソフト」と呼ばれていました)は、ずいぶんと高額なものでした。

R社が開発販売していたカード型データベースソフト(国内でTOPクラスのシェアでした)は、パソコン1台当たり3万円~5万円ほど。厳重なコピーガードが施されたフロッピーディスクと分厚いマニュアルが化粧箱に梱包された有難みのある製品でした。

1980年代後半からのパソコン需要は急速に伸びていたことから、R社はかなり儲かっていたんじゃないかと思います。

余談ですが、国内のほぼすべてのパッケージソフトの流通を牛耳っていたのがソフトバンク。インターネットも携帯もなかったこの時代、ソフトバンクの業態も現在とはまったく異なっていたんですよね。あー懐かしい(#^^#)。

さて、本日僕は朝から在宅勤務です。そして夜は外での真面目な仕事の打ち合わせ。打ち合わせ場所となるお店を参加メンバー4人だけで貸切ってしまいました。贅沢ですね(‘_’)。

では朝食はもう食べたので、仕事を継続します!

 

この釘さん日記、僕の音楽ライブのことをネタにして書くと、View数やイイネ数がいっきに下がるという傾向があるようですが、残念ながらそんなことでメゲる僕ではありません(^^♪

ということで、本日は9月25日開催の「社長引退記念ライブ配信」のことを載せます( ^)o(^ )。

おかげさまで現在42名の方々からの申し込みをいただいております。目標は1万人なので、あと9,958人の皆さん、お待ちしています(笑)。

ところでこのライブ、参加の皆さんからリクエスト曲を募っておりましたが、明日の17時でいったん締め切ることにいたしました。

おかげさまで現在、5人の方々から計8曲のリクエストをいただいております。なかには今までカラオケでさえも歌ったことのなかった曲もありました。曲にまつわるエピソードや、我々への心温まるメッセージもいただいております。

意外と自分たちがやろうと思っていた曲よりも、リクエスト曲のほうが名曲ぞろいのような気がします。

「山と鼓と葉」のメンバーと「明日のお昼までにリクエストをいただけた場合には当日のセットリストに入れよう!」と話し合っております。

ということで、残りあと30時間ほどとなりましたが、ぜひともこちらからリクエストを頂戴できればと。

☆リクエスト曲投稿URL⇒ https://questant.jp/q/U61BYSJQ

あ、でもその前に、ライブにも申し込んでくださいね。ご自宅で寝転がりながら聴いていただけますので(‘◇’)ゞ

☆ライブ申込URL ⇒ http://ptix.at/MdfXsU

今のところいちばん古いリクエスト曲は、1960年代のフォークソング。最近の曲だと1990年代ですかね。ずいぶんと忖度していただいているみたいですがw、2010年代の曲でも頑張って練習しますので、若い方々もぜひ。

ということで、本日は925社長引退記念ライブの宣伝でした。みなさん、ぜひ来てねm(__)m

 

さて、本日は在宅で仕事をするつもりでしたが、会社じゃないと出来ない仕事が発生してしまいました。昨日、忘れ物をしただけなんですが💦

では朝食&エール再放送後、行ってきます!

 

20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第34話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


1990年5月。

社会に出て7年目。それまでにもいろんな壁や困難な状況はありましたが、この時ほど「得体の知れない焦燥感」に苛まれた日々はありませんでした。

「と、とにかく、この場所を離れなきゃ!」

そう考え、当時の直属の上司であった部長に辞表を提出し、少しは気が楽になるかと思いきや、今度は自分の将来に対する「得体の知れない恐怖感」に襲われるようになったのです。

この「得体の知れない焦燥感」や「得体の知れない恐怖感」ほどやっかいなものはなく、底なしの沼に吸い込まれるような日々でした。

一方で、辞表を受け取ったM社の役員クラスの方々は毎日のようにボクをお茶やランチに誘ってくださり、とても熱心な慰留をしてくださいました。

M社の実質的なトップからは、高級な料亭で「頼むから辞めないでほしい」との丁寧な説得をされ、「こんなダメな若輩者にそこまで期待してくださっていたのか……」と、正直言って相当に心が揺れました。

しかし、会社に残って働く自分の将来の姿がどうしても想像できない。様々な心の葛藤を経て、やはり自分は辞めるしかない、と決意し、「当てのない転職活動」を開始することにしたのです。

S社からM社への転職経験を持つボクでしたが、その時はスカウトだったため自分で履歴書すら書いた経験がなく、実質的に今回が生まれて初めての転職活動でした。

会社(M社)には、引継が終了する1ヶ月後を退職日として宣言していたため、30日以内に次の会社を決めないと「プー太郎」になってしまいます。

リクルート時代やS社で採用担当をやっていた時は、偉そうに「就職」について語っていたくせに、いざ自分の就職になるとからっきしダメで、なかなか自分にとって相応しい会社を探し出すことができずにいました。

なかなか「これ!」といった会社が見つからず、途方に暮れていたある日、書店で買った就職情報誌(B-ing)を読んでいると、とあるソフトメーカーの求人広告が目に飛び込んできました。

F-1のレーシングカーをあしらったその広告。なぜか親しみを覚え、受けてみようかな…という気持ちになったのでした。

季節はもう初夏。釘崎青年は汗を書きながら履歴書と職務経歴書をまとめはじめていました。

(がんばれ転職活動!…つづく)


いやー釘崎青年、悩んでますね(苦笑)。

ところで僕が読んでいた「B-ing」という就職情報誌、僕がアルバイトをしていたリクルートが発刊していたメディアです。1975年に「週刊就職情報」という名前で創刊されたもので、僕も売ったり原稿を書いたりしたことが何度もありました。

雑誌名を「B-ing」にしたのは1988年。技術者専門の就職情報誌「ベルーフ」と統合してこの名前になりました。コンピュータに携わりつつも営業や企画を志向していた僕にとって、ありがたい情報誌だったわけです。

当時のリクルートの就職情報誌は、こうやって多くの人々の人生に多大な影響を与えていました。読者になってみて、そのことをあらためて感じた30年前の釘崎青年でした。

 

さて、お盆休みも終わって、今日から世の中はビジネス再開モードですね。

僕も今日は久々の出社。1億円の商談をするのであります( ^)o(^ )。

では、朝食&エール再放送後、行ってきます!