パフ代表の徒然ブログ「釘さん日記」

本日は前々回予告した東映のお二人のことをご紹介します。

前々回は東映の元常務取締役、矢澤昭夫さんのお話でした。今回のお二人は、矢澤さんが人事担当役員だったころからの部下、磯辺さんと矢津田さんです。

たぶん矢澤さんは、二人のことを息子のように可愛がっていたんじゃないかなあと思います。

なので、僕が矢澤さんに出資のお願いをしに行った際に、「おーい、磯辺くん、矢津田くん。釘さんが会社作るらしいから、キミらも出資しなさい!」と、無茶ぶりとも思える声掛けをしたのではないかと。

出資しろと言われて「うわ、これは困ったことになったぞ…」という表情をした二人の顔がいまだに忘れられません(笑)。

この磯辺さんと矢津田さん、結局はパフに出資することになり、創業株主になってくれたのでした。

でもそのおかげもあって、このお二人とは個人的に長くお付き合いすることになりました。

僕が10数年前から始めた音楽ライブにもいつも参加してくれています。たぶん皆勤賞ではなかったかと思います。

新潟の笹神村(現 阿賀野市)で開催した50歳ライブにも、わざわざ東京から足を運んでくれたほどです。

ライブ翌日、笹神を散策したときの写真👆僕の右が磯辺さん、左が矢津田さん

 

パフとの仕事上の取引も細々と続くことになりますが、その取引額が矢澤さん+磯辺さん+矢津田さんの出資額を上回ることは一度もありませんでした。まあ、それはご愛嬌ということで(苦笑)。

磯辺さんは僕よりも3歳年上、矢津田さんは僕よりもひとつ年下。年が近いせいか好きな歌やドラマやマンガや映画など共通項が多く、飲みに行くといつも盛り上がっていました。

磯辺さんと矢津田さんは、漫才コンビのようで、僕から見れば仲のいい兄弟みたいでもありました。

一度だけ、お二人のことをこの釘さん日記にも書いたことがあります。

定年退職と監査役就任を記念しての飲み会(2017年7月28日の日記)

こちら👇そのときのお二人の写真です。

奥にいるのが矢津田さん、手前が磯辺さんです

この日の日記にも書いていますが、磯辺さんは3年前に定年を迎え、その後は嘱託として東映での仕事を続けることになりました。矢津田さんは東映人事部を離れ、東映アニメーションの監査役に就任しました。

実は矢津田さん、この日の飲み会の1年半ほど前に肺ガンの病に侵されていました。僕の55歳ライブに参加して会場で元気に飲んで騒いだ直後のことでした。

その後、闘病生活が続きましたが、持ち前の明るさとバイタリティとで、上の写真のように一緒に飲めるくらいまで回復しました。

大きかった癌も、治療の成果で消え去り、ほぼ完治したかのようでした。昨年(2019年2月)開催した僕の「春よ来いライブ2019」にも参加してくれましたし。

今年2月の「春よ来いライブ2020」にも真っ先に申し込んでくれました。

こちら、予約申し込みをしてくれた直後のメールやり取りです。その一部をコピペします。


矢津田佳広<toei-anim> 2019/12/16 14:25

釘崎さん、磯辺さん

チケットは案内メールが届いたその日に申し込みました。

2 月のライブではまた新たな挑戦を楽しみにしています。

ところで中野飲みオッケッケーです!12 月は無理そうなので年明け 1 月で日程調整しましょう。体調を整えて頑張ります。

ところで、わたしの現況ですが、今年は 5 月下旬頃から放射線治療・抗がん剤点滴・レントゲン/CT/MRI 検査などを繰り返していました。

今も 4 週間(1 週治療+3 週休養)サイクルの治療&各検査を 6,7 ヶ月継続しているところです。その間、山下達郎ライブや舞台「めんたいぴりり」に行ったりもしました。

月に 4,5 回の会議を中心に出社もしています。磯辺さんとは 20 日の東映グループ監査役会で一緒になりますね。そこで軽く打ち合わせしましょう。

今回は治療前に喉(声帯)を痛めて美声をお聞かせできないのが残念です。常に裏返っている状態なんです。アース・ウィンド・アンド・ファイアか森山直太朗か!?(笑)

1 月の日程(注:飲み会のこと)は改めて調整しましょう。

釘崎さんの引退&フォークソング居酒屋開業の話しもたっぷり聞かせてください。


 

しかし、今年の2月21日、ライブ会場に姿を現したのは磯辺さんだけでした。

実はこの数日前から容態が急変していたのだそうです。磯辺さんはこの日、矢津田さんが入院している病院に見舞った後、ライブ会場に直行したのでした。

そしてライブが終わったあと、磯辺さんからこう告げられました。

「矢津田なんだけど、実はもうダメなんです。でも釘崎さんが今夜歌ってくれた曲、とくにラストの3曲は矢津田も大好きで、いつもカラオケで歌ってた曲なんですよ。きっと矢津田のところにも届いたんじゃないかな…」

矢津田さんはこの翌朝、奥様に看取られながら静かに息を引き取ったそうです。

ほんとうに本当に、残念でした。もっとたくさん飲んで、もっとたくさん歌いたかったなと。

亡くなられてもう半年になりますが、まだ名古屋にある矢津田さんのご自宅に伺うこともできていません。そろそろ世の中も落ち着いてきたころなので、磯辺さんと一緒に、手を合わせに行きたいと思います。

ちょっと湿っぽくなってしまいましたが、矢津田さんは僕と同じ熊本出身。肥後もっこすで酒好きの明るく豪放磊落な性格です。「釘さん、湿っぽく扱うのは好かん、勘弁してくれ!」と言ってるような気がします。

最後は、10年前の新潟笹神村に向かうバスの中で熱唱していた、磯辺さんと矢津田さんの写真で締めくくることにしましょう。

 

磯辺さんの熱唱

 

矢津田さんの熱唱

 

そういえば矢津田さんが亡くなられたあと、こっそり磯辺さんと(本当は矢津田さんも誘って一緒に行くはずだった)中野のディープなお店で「矢津田さんを偲ぶ会」というのを催しました。ぜんぜん湿っぽい会ではなく、大笑いの連続でした。

矢津田さんにはやっぱり、酒と笑いと昔のフォークソングが似合います。

矢津田さん、いつか僕も天国に行ったら、また一緒に飲んで歌って騒ぎましょうね(@^^)/~~~

ということで今回は、東映の兄弟のような人事マン、磯辺さんと矢津田さんのお話でした。

さて、大昔の写真を漁りながら書いていたらすっかり遅くなってしまいました。今日はこのあと会計士との打ち合わせ、さっそく準備します!

<追記>

実は本日の日記を書くにあたって、磯辺さんと電話で数カ月ぶりに話をしました。実名で日記に書くことを快諾してもらったのはもちろんですが、日記に出ることをとても喜んでくれたことが、僕にとってもとても嬉しいことでした。

 

ここ数回は、創業時(正確には会社が生まれる前)に出資してくださった方々のことを紹介しています。昨日予告した東映のお二人はちょっとあと回しにして、今回は「キムラさん」をご紹介します。今回も2006年2月に書いた「釘さんの素晴らしき100の出会い」の第61~62話をリライトしながらご紹介します。


システム開発の仕事をしていた20代の頃、僕が働いていた会社には凄いエンジニアがいた。

わずか10数名しかいない小さな会社だったのだが、働いていたのは個性的なエンジニアばかりだった。そのなかでも最も個性的だったのが今回登場のキムラさんだ。

キムラさんは僕よりも7歳年上。当時、ちょうど30歳になったばかりの中堅エンジニアだった。無口な人で、僕とは別のプロジェクトの仕事をしていたこともあり、ほとんど口をきいたことがなかった。

もともとキムラさんはフリーのエンジニアで、正社員として働いていたわけではなかった。なのでプロジェクトが進行中のときには会社にいるのだが、それ以外は顔を合わせることも少なかった。

・・・その時も、会うのは半年振りくらいだったと思う。バイクのヘルメットを片手に事務所に入ってきたキムラさん。顔を見てビックリした。

ありゃー、まるで森の熊さんだ!!

口のまわりから顎にかけて、一面黒々と髭をたくわえていた。それも実に見事な髭。明治維新の英雄たちもビックリするくらいの髭だった。

そのころからだったと思う。キムラさんが僕と喋ったりお酒を飲むようになったのは。

キムラさんの仕事スタイルはとてもハッキリしていた。

毎朝、新横浜の自宅から、愛車のナナハン(750CCのオートバイ)に乗って颯爽と会社にやってくる。皮ジャン姿でヘルメットを片手に「おっす」と、ぶっきらぼうな挨拶をしながら自分のデスクに座る。自分の部下たちに、パパッと指示を飛ばし、その後自分も仕事に没頭する。

そして夕方の6時。僕などは「あーあ、今夜も残業だなぁ。ラーメンの出前でも取るか」と思っている時間だ。

「じゃあな、お先に!!」。そういってヘルメットを片手に、ささっと帰っていく。キムラさんの部下たちもそれに続いて帰っていく。

昔のSEやプログラマーといえば徹夜が当たり前の世界だったのに、キムラさんのプロジェクトだけは、徹夜はおろか残業している姿をほとんど見たことがなかった。

僕が担当していたプロジェクトなどは、納期前になると一週間連続で寝泊りするなんてことも珍しくなかったのに……。キムラさんは、よっぽど楽な仕事ばかりを選んでいるんだろうと思っていた。キムラさんのプロジェクトで働いているメンバーはラッキーな連中だなと、やっかみ半分で眺めていたものだ。

しかし、キムラさんが担当していたプロジェクトは「楽」な仕事なんかじゃなく、当時としては先進的な新聞社向けの画像処理システムだった。残業をしないっていうのは仕事が楽なわけではなく、仕事の見積もりが正確で、無駄なく無理せずテキパキと、スケジュールどおりに仕事を進めていたからだったのだ。

それが分かったのは、僕がエンジニアの仕事を始めて5年目。僕はキムラさんと一緒に仕事をしたことは一度もなかったのだが、一度だけキムラさんが納品の作業で詰めていた新聞社まで届け物をしたことがある。その時に晩飯をご馳走になりながら、キムラさんの「仕事哲学」を聞いたのだ。凄い、と思った。

僕はその直後、28歳で会社を辞め、システム開発の仕事から足を洗った。キムラさんとも、以来、顔を合わせることはなかった。

再会を果たしたのは、それから8年後。僕が「パフ」を創業しようと決意した時だった。

会社を創ろうと思ったものの、貧乏サラリーマンだった僕には資本金となるべき現金がほとんどなかった。

そこで僕は、いままでの人生の中で知り合った信頼できる友人のところを毎日のように訪ね歩き、出資のお願いをして回っていた。

しかし、なかなか思うように資本金が集まらない。当時の法律では「株式会社」を設立するための最低資本金は1千万円。そうカンタンに集めることのできるお金ではなかった。

そんななか、ふと思い出したのがキムラさんのことだった。数年前に独立して、会社を経営していることは知っていたが、不義理なことに連絡は一度もをとったことがなかった。

キムラさんが作った会社には、僕の昔の同僚だったI君やT君や、先輩たちも何人か入社していたので、「皆で会おう」と連絡をしてみた。もちろん僕の目的は、皆から出資を仰ぐことだったのだが。

東京は蒲田にある居酒屋。昔の同僚3人とキムラさんが駆けつけてくれた。酒を口にする前に僕は、自分が会社を設立しようと思っていることと、出資を仰 ぎたいことを切り出した。

キムラさんは、

「クギ、独立なんかやめとけ。社長になっても良いことなんて何もない。苦労するだけだ。奥さんや子供にも苦労をかける。考え直せ」と、僕を諭すように言う。昔の同僚たちも神妙な面持ちで、うつむいている。

それでも僕の考えは変わらない。出資を仰ぐなんてことは、もうどうでも良かった。会社をつくって自分の力を試してみたい、ということや、どんな苦労があろうとも絶対に負けない覚悟はできている、といったことをキムラさんに訴えかけた。

キムラさんはそれでも、「クギ、悪いことは言わない。やめとけ」を繰り返すばかりだった。気まずい沈黙の時間が流れた……。

「クギ、100万円でいいか」

突然のキムラさんの言葉に、僕は耳を疑った。

「え!?」

いまの今まで、さんざん「やめろ」と言っていたキムラさんが、急に100万円ものお金を出すと言う。狐につままれた気分というのは、こういうことを言うのであろうか。

キムラさんは続けて、「まあ、クギがそこまで本気で会社をやりたいっていうんなら大丈夫だろう。俺が応援しないわけにもいかないだろう」と、笑顔で言ってくれた。

涙が出るほど嬉しかった。いや、実は本当に涙が流れた。

後で分かったことだが、キムラさんは最初から皆と相談して100万円を出資することに決めていたらしい。同時に、会社を設立するということが、どれだけ大変なことであるのかということも分からせ、それで僕の気持が揺らぐようであれば、引き止めたかったのも事実らしい。

キムラさんには、それ以来、いろんなところで助けてもらっている。パフの監査役も務めてもらっている。

森の熊さんキムラさん。素晴らしいエンジニアであると同時に、男気溢れる僕の人生の大先輩だ。最初に出会った23年前(注:2006年のコラム執筆当時。現在は出会ってからすでに37年が経ちました…)まさか今のような関係になっているなんて夢にも思わなかった。


キムラさんには、現在でもパフの監査役を務めていただいています。

創業からしばらくのあいだ仕事が受注できず資金繰りに汲々としていたとき、リーマンショックでどん底になったとき、酒を飲みながら僕を励ましてくれました。

パフにシステムの分かる人材が不足していたときにはキムラさんの会社からエンジニアを派遣してもらったこともありました。

上の写真は3~4年前、僕が初めてキムラさんを築地の寿司やで接待したときの写真です。なぜか白黒なのですが(;’∀’)

僕は社長を辞めてしまいますが、キムラさんにはもう少しだけ(少なくとも任期となる来年の9月までは)監査役に留まってもらいたいと考えています。

ということでキムラさん、もうちょっとだけ面倒をおかけしますが、よろしくお願いしますm(__)m

さて、本日も在宅でWeb会議だらけですね。出社するより疲れるかも…汗。

では、朝食&エール再放送後、仕事します!

 

前回の日記にも書いたとおり、これからの数回は、創業時(正確には会社が生まれる前)に出資してくださった方々のことを紹介していきます。

本日は東映の常務だった矢澤さんです。

2006年7月に書いた「釘さんの素晴らしき100の出会い」の第84話をリライトしながらご紹介します。かなり長いです。


東映といえば、戦後の日本映画製作の中心的役割を担ってきた会社である。

特に、僕らの世代で有名なのは、鶴田浩二、高倉健、藤純子、菅原文太などが主役として登場する任侠ものの映画だ。

僕がはじめて東映と仕事面での関わりを持ち始めたのは、30歳になったばかりの頃だった。僕が勤めていた会社のセミナーに、東映の人事部長が参加してくださったのがきっかけだった。

人事部長のお名前は矢澤さん。口数が少なく一見恐そうにみえるものの、たまに見せる笑顔がとても優しく可愛い。まるで東映のヤクザ映画に出てくる組の親分みたいな雰囲気を持っていた。当時50歳を少し超えたくらいの年齢だったろうか。

そして何回かの営業訪問を経て、東映と正式なお取引を開始することになった。東映の社員採用時に使っていただくための、とあるツールを提供させてもらうことになったのだ。さほど大きな金額ではなかったが、採用においては大事なツールで、その後毎年採用シーズンになると、必ず注文をいただいていた。

1997年11月。最初の出会いから6年ほどが経過していた。僕は意を決して、矢澤さんに会いに行った。矢澤さんはこのとき常務取締役という、たいへん高い立場であった。

矢澤さんに会いに行った目的。それは、僕が設立しようとしていた会社(つまりパフのことです)への出資のお願いだった。以前のコラムでも書いたが、僕はこのとき連日のように知人・友人を訪ね歩き、出資者を募っていたのだ。

矢澤さんに、僕が会社を辞めて独立する旨を話した。新会社で実現しようとしていることを話した。そして、ぜひ矢澤さんにも株主のひとりになっていただきたいと、深く頭をさげてお願いした。

矢澤さんはひとこと。「釘さん、釘さんが作ろうっていうその会社は、人の役に立つ会社なのかい?それから独立するにあたっては、誰にも迷惑をかけたりしないかい?今の会社から人を引っこ抜いたり、険悪な関係になったりしないかい?」と聞いてきた。矢澤さんは「義」をとても重んじる方だったのだ。

僕は「も、もちろんです」と答えた。矢澤さんは「そうかい。じゃ、ちょっと待ってな」と言い残して、ぷいっと部屋を出て行ってしまった。

いったいどうしたんだろうと思って待つこと15分。矢澤さんは部屋に戻ってきて僕の前に再びどかっと腰を下ろした。

そして背広の内ポケットから「ほい、これ」といってパンパンに膨らんだ銀行の封筒を取り出して、テーブルのうえにどさっと置いた。

中を見ると、数十枚の札束が入っていた。僕はびっくりして「え…? い、いやあの、いま現金でもらっても困るんですけど……」と感謝の気持が沸き起こるより前に、いま目の前に積まれたお金の取り扱いに窮してしまったのだった。

それにしても出資のお願いにきたその日に、いきなり現金(しかもかなりの額の札束)をどさっと差し出すなんて。まさに東映の任侠モノの映画に出てきそうな光景だ。

無口で男気あふれる矢澤さん。僕にとっては親父さんというか「親分」みたいな人だ。

現在すでに東映の役員は退任され、お仕事も完全に引退されている。もう3年以上(注:このコラム執筆の2006年時点での年数)お会いできていないのだが、「親分」元気でいらっしゃるだろうか。

なんとかお元気でいらっしゃるうちに、パフを成長させて恩返しをしたいものだ。「株式配当金」を銀行の封筒にパンパンに詰めて、どさっとテーブルの上に置き、「あの時はありがとうございました」と、ひとことお礼を言いたいと思っている。


そして、実はこのコラムを書いた3か月後の2006年11月3日に、矢澤さんは亡くなられてしまいます。恩返しをすることも、配当金をどさっとテーブルの上に置くこともできないままでした。

ご葬儀の直後、追悼コラムを書いていましたので、本日はそちらもあわせて再掲したいと思います。


3日(金)の午後のことだった。休日だったこともあり、ひとり有楽町に映画を観に行ったその帰り道。携帯にメールが入っていることに気がついた。

見ると休日出勤している梅木(注:当時のパフ新入社員)と、自宅にいたカミさんから、それぞれ同じ悲しい報せ。

「東映の元常務、矢澤さんがお亡くなりになったとのことです…」

びっくりした。まだ72歳。ご病気だということも知らなかった。本当に突然のことだった。

矢澤さんは、僕がサラリーマン時代、そしてパフを設立するとき、たいへん お世話になった人であり、大きなご恩をいただいた人。奇しくもわずか3ヶ月前、このコラムでも矢澤さんのことを取り上げたばかりだった。

そして、前回のコラムではスナック『のろ』のことを取り上げたのだが、 この『のろ』に一番最初に行ったのも、矢澤さんとだった。コラムを書きながら、矢澤さんが楽しそうにカラオケを歌っていた姿を思い出していた。

『のろ』に行ったのは、パフ設立直後(1997年12月)のことだった。サラリーマン時代、僕は矢澤さんにとても可愛がっていただいていたが、一緒に飲みに行ったのは、後にも先にも、このとき一回きりだった。

後から東映の人事の方に聞いて知ったことだが、矢澤さんは、飲みに行って カラオケを歌ったりする人ではないそうだ。「矢澤常務は、釘崎さんと飲みに行ったのがよっぽど嬉しかったんでしょうね」と言われたのが、いまも心に残っている。

その数ヵ月後、パフの設立パーティーを日比谷の中華レストランで行ったのだが、この時のスピーチも矢澤さんにお願いしていた。矢澤さんは他の用事 が入っていたにもかかわらず、快くスピーチを引き受けてくださった。その日の用事を調整してパーティーに駆けつけてくださり、心温まるスピーチを披露してくださった。

会社が設立されて3年目のころだった。パフが学生向けに開催したイベント『キミは就職できるか?』の就職相談コーナーで、矢澤さんに無理を言って 就職相談員をお願いしたことがある。このとき矢澤さんは、すでに東映の役員を引退されており、東映アニメーションの相談役の立場だったのだが、やはり二つ返事で僕のわがままなお願いを引き受けてくださった。

2003年3月末の株主総会の日(当時パフは12月決算でした)。矢澤さんは、とつぜん月島にあったパフの事務所に顔を出してくださった。総会が始まる1時間以上前だったので、久々にゆっくりとお話することが出来た。今から考えると、顔を合わせてお話しをしたのはこのときが最後だった。

サラリーマン時代、そして会社(パフ)創業時と創業後、矢澤さんにいただいたご恩はとても大きい。特に創業時、僕にかけてくださった優しい言葉の数々と、父親のように優しい眼差しを忘れることができない。

矢澤さんとの出会いは、僕にとって間違いなく、かけがえのない『素晴らしき出会い』だった。

この原稿を書いている数時間前、世田谷にある斎場でご焼香をしてきた。祭壇に飾られた矢澤さんの優しい笑顔の写真から、「おい釘さん、 まだまだ若いんだからしっかり頑張んなさいよ」という声が聞こえてきたような気がした。

矢澤さん、いままでお世話になり本当にありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。

矢澤昭夫さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。


 

矢澤さんから、銀行の袋に詰め込まれた札束をもらったときには本当にビックリしました。23年経ったいまでも、あの時の情景は忘れられません。

このときの東映人事部には、磯辺さんと矢津田さんという、僕とも仲の良い、そして矢澤さんの子分のような方々がいらっしゃいました。

「おーい、磯辺くん、矢津田くん。釘さんが会社作るらしいから、キミらも出資しなさい!」

室内の他の方々にも聞こえるような大きな声で、そう呼びかけたのにもビックリしました。磯辺さんと矢津田さんは、とんだ巻き添えを食った感じです(苦笑)。

でも、そのおかげでお二人とはその後20年以上にわたる個人的なお付き合いが続いています。

次回は、(矢澤さんに命じられて強制的に出資することになってしまった)この磯辺さんと矢津田さんのこともご紹介したいと思います。

さて、本日は在宅勤務。web会議だらけですね。台風10号も心配ですが、朝食&エール再放送後、仕事します!

 

ここ数回の「新・創業物語」では、出資者集めのことを書いてきました。まだ生まれてもいない(何のビジネスも行っていない実績ゼロの)会社に対して出資するなんて、ふつうなら考えられないことです。

でも、そんな「ふつうなら考えられない出資」をしてくださった株主さんのおかげで、パフは事業をスタートすることができました。

しかし、20年前に書いた元々の創業物語では、その株主さんのことをあまり詳しく書いていませんでした。

前々回「パフ創業の陰には、いろんな方々のご支援があったんですよね。現在のパフの社員たちにも、この事実は知っておいてもらいたいことです」と書きましたが、あらためてこれからの数回は、創業時(正確には会社が生まれる前)に出資してくださった方々のことを(特にパフの社員たちに向けて)紹介しておこうと思います。

ほとんどの方々のことは「釘さんの素晴らしき100の出会い」という(やはり15年ほど前にメルマガで連載していた)コラムに書いていましたので、それをリライトしながらご紹介していきます。どうぞお楽しみに(^^)v。

 

さて、僕の社長退任まであと3週間となりました。実は長らく続いたこの「釘さん日記」も社長退任と同時に終了することになります。

2001年から書き始めたこの日記、どうやって締め括ろうか思案しているのですが、まあ、もともと締まりのない人間なので、キッチリとした終わり方は似合わないですかね(苦笑)。

あ、そうそう、社長退任まであと3週間ってことは、記念ライブの開催までもあと3週間ということですね。焦らないといけません。申し込んでない方はぜひこちら👇から。


= 釘さん社長引退記念ライブ(ネット生配信+リアル若干名)開催概要=

●日時 2020年9月25日(金)18時開場、18時半開演(終演は21時半ころ)
●場所 四谷Lotusより生配信(会場には関係者含め23名15名まで入場可)
●出演 山と鼓と葉
●コンセプト
昔懐かしいラジオの深夜番組のように、皆さんからのリクエストはがき(メール?)を読みながら進めていきます。さらに当日はtwitter等でもリクエストや声援や野次を受け付けながら参加者の皆さんと一緒に楽しく進行してまいります。どうぞお楽しみに!

☆お申し込みはこちらから⇒ 釘さん社長引退記念ライブ(ネット生配信です!) 


できれば「チャリティーチケット」を買ってもらえると嬉しいです( ^)o(^ )。

では、そろそろ朝食&エール再放送後、行ってきます!

 

20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第46話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


またまた引き続き1997年10月下旬。

若手起業家の支援をライフワークとされているKさんの事務所を、オプトの鉢嶺さんと一緒に訪れたのでした。

釘「鉢嶺さん、ほんとーにその方は、何の面識もないボクなんかに資金を提供して下さるものなんですかねー?」

鉢「それは釘崎さん次第だと思いますよ。しっかりとした理念と事業プランを説明できれば良い方向に話は進むと思いますが」

釘「し、しっかりとした『事業プラン』ですか……」

ボクがこの日用意していたのは、友人に出資をお願いするときに作っていた、「事業計画書」と呼ぶにはあまりに厚かましいA4用紙2枚の「紙切れ」だったのです。

(えーい!ともあれ、あたって砕けろだ!)

なかば開き直りつつ、高田馬場にある事務所に到着したボクと鉢嶺さんは、Kさんの部屋に通されたのでした。

Kさん 「やー、鉢嶺社長、よくいらっしゃいました。あ、この方が例の就職情報のビジネスでの起業を考えておられる方ですね」

釘「ど、どうも初めまして。クギサキと申します」

Kさんはとても背が高く、体格もよく、高そうなダブルのスーツをキチッと着こなしており、しゃべり方もとても紳士的で表情も極めて柔和なのですが、風格というか威厳が漂っており、「むむむ、これはタダモノではないな」というのが一目で見て取れる、そんな方でした。

鉢嶺さんから後に聞いたところ、この方は数年前ゼロから興した不動産関係の会社を株式公開し、そこで得た創業者利益(株の公開益)を資金にしてベンチャーキャピタルを運営しているとのこと。

しかし、Kさんが株式公開したその会社は複雑な事情があって某大企業の子会社となり、ご自身は自分が作った会社を辞任せざるを得ない、という大きな挫折を経験した方でもあったのです。

そんなこともあって、今後は自分が実業界の表舞台に立つのではなく、有望な若手起業家を発掘し支援していくことを自分の使命とされていたのでした。

ボクはこの時、そんな細かい事情は一切知らず、ただただ出資を仰ぐことだけに気持ちを集中させていました。

Kさん 「さて、それじゃあクギサキさん、あなたの考えておられる事業プランをお聞かせ願えますか?」

ボクは手元にあるたった2枚の「紙切れ」をKさんに渡し、身振り、手振り、口からはツバを飛ばしながら、自分の考えている就職情報ビジネスについて30分ほど語りました。

Kさんは、ボクがひと通りの説明を終えた後も表情を変えずに、しばらくじっと2枚の紙切れを眺めていました。

Kさん「それで、会社を作るためにあといくら必要なんですか?」

この時集まっていたお金が、自分の出資分も入れて約400万円。あと100万円くらいは、これから会う友人や知人で、なんとかなるだろう。とすれば、会社設立までに必要な残額は・・・

釘「ご、500万円です」

Kさん「わかりました。出資させていただきましょう」

釘 「え!ほ、ほんとですか?」

Kさん「もちろんですよ、がんばりましょう!」

Kさんはスクッと立ち上がり、ボクに握手を求めてきました。

ボクは、一瞬なんだかよく分からない感じだったのですが・・・

釘「あ、ありがとうございます!!!」と、次の瞬間には握手に応じていたのでした。

お会いしてから30分しか経過していないのに、500万円の商談(?)が成立した瞬間でした。

Kさんは後に、

「いやー、しかしよく私もあんな紙切れ2枚の事業計画に、しかも初めて会った人に対して出資の判断をしたものだと思いますよ。まあ、クギサキさんの会社が将来成功したら美談になるんでしょうけどね(笑)」

と、冗談交じりに仰っていましたが(汗)。

ともあれ、これで会社設立まであと一歩。ムライさんにそそのかされた夜から数えてまだ2週間。

こんなに簡単にコトが運んでいっていいのだろうか……。

すべてがトントン拍子に進んでいくことに、逆にちょっと怖ささえ感じられた秋晴れの日でした。

(次回、何か波乱でもあるのかな?つづく)


Kさんはこの後、約15年間、パフの大株主として僕の相談に乗ってくださっていました。

5年ほど前に個人事務所を閉鎖し完全に引退されたのですが、3年前の20周年記念には体調のすぐれないなか、わざわざ遠方からお越しいただいたりもしています。

出資してもらった500万円が紙屑になることはなんとか免れたものの、何倍ものお金に化けるまでには至らなかったことは申し訳なく感じています。

ご無沙汰をしてしまっているので、世の中が落ち着いてきたらご挨拶に伺わねばと、今日の物語をリライトしながら思った次第です。

さて、本日は朝から出社です。お昼ご飯を食べるために(笑)。

では朝食&エール再放送後、行ってきます!

20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第45話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


引き続き1997年10月下旬。

会社を作るための最低資本金が(1997年当時の法律では)1,000万円、現在集まった金額が200万円。

あと800万円を、なんとか調達しなければ会社を設立することができない。

ボクは昔からの仲の良かった友人を中心に、ひとりひとり連絡をとり、新会社の事業計画を説明し、いずれ利益が出たら配当することを約束し、出資者を募ることにしたのです。

いちばん多く会ったのは、学生時代の仲間たち。

「俺さー、会社作ることにしたんだ。ついてはお前にも株主になって欲しいんだけど・・・1株でも2株でもいいから出資してくれんだろうか?」

いつもは、ヘラヘラとふざけていたボクが、かなりの真面目モードで迫ったこともあってか、

「わかった、お前が会社作るんだったら、なんとか協力するよ!」

と、会ったかつての仲間たちほぼ全員から出資の約束を取り付けることができました。

1株で5万円、2株で10万円の出費。サラリーマンにとっては、極めて大きな金額です。

しかも、返ってくる保証は(その時点では)まったくと言っていいほどない。また、この年は、橋本内閣の失政など(消費税増税、アジア通貨危機の発生、国内金融システム
の不安)により、景気が奈落の底に落ち始めた時でもあり、企業の倒産が相次ぎ、経済の先行きが非常に暗い頃だったのです。

それにもかかわらず、学生時代の仲間たちは皆、出資を快く引き受けてくれたのです。人数にして約10数名。感謝の言葉もありませんでした。

しかし、それでも集まったお金は、まだ300万円程度。

「うーん、まだまだ前途多難だな~」

この時、救世主となってくれたのが、現在(注:2000年当時)パフの協賛企業でもある株式会社オプト社長の鉢嶺さん。

オプトは当時、FAXを利用した営業・販売支援企画を企業に提供しており、ボクは「登龍門」の販促を通じてお付き合いをさせてもらっていました。

同時にオプトの新卒採用を「登龍門」を通じて行ってもらう関係でもあり、鉢嶺さんとは親密なお付き合いをさせてもらっていました。

この時、鉢嶺さんは29歳の好青年。大学卒業後、ある大手企業を経たのち会社を設立・成長させてきた、若きベンチャー経営者でした。

 釘:「鉢嶺さん、ボクついに会社をつくることにしましたよ!」

 鉢:「へー、おめでとうございます。よく思い切りましたね。でも釘崎さんが会社をつくるなんて楽しみだな。で、株式会社ですか?よく資本金を用意できましたね」

 釘:「い、いや、それが・・・実はまだこれからでして……」

 鉢:「え?そうなんですか?よし、わかりました。じゃあボクが出資してくれそうなベンチャーキャピタルの方を紹介しますよ」

こうして、話はトントン拍子に進んでいき、数日後、起業家支援を手がけるベンチャーキャピタルのオーナーの方と面談することになったのでした。

(1,000万円までの道のりは遠いですね。つづく  )


 

今回は、いまやIT業界の雄となっているオプト(現デジタルホールディングス)創業者の鉢嶺さんが登場しました。

以下の写真は、パフ創業時オプトの新入社員だった菊ちゃん(菊ちゃんの詳細はこちら⇒創業時メンバーの菊ちゃんが帰ってきた!)と鉢嶺さんと、3年前に一緒にご飯を食べた時の写真です。

パフ創業の陰には、いろんな方々のご支援があったんですよね。

現在のパフの社員たちにも、この事実は知っておいてもらいたいことです。

さて、本日の午前は、パフ第25期9月度のキックオフミーティング。僕は自宅からオンラインでの参加です。業績の進捗はどうなってるのかな?

では、朝食&エール再放送後、在宅します!

 

20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第44話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


1997年10月中旬。

カミさんの承諾を取り付けたボクは、なんの気兼ねもなく正々堂々と独立に向けた準備を進めることができるようになっていました。

まず、真っ先に報告したのは、あのムライミツル氏。

釘:「ムライさーん、ムライさんの忠告通り、カミさんを説得し味方につけましたよ」

ム:「え?何の話?」

釘:「何の…って、おれ会社作るんですよ、作れって言ったのはムライさんでしょ?」

ム:「えー!?そうかあ、作るのかあ、へー、そうかあ、思い切ったなあ、へー」

まー、もともとこんな感じの人なので、あまり気にしませんでしたが(笑)。

そして、次の報告&相談が兄貴。そもそも弟のボクをリクルート業界に引きずりこんだのは兄貴。

このとき兄は、リクルートのグループ会社の社長に就任したばかりでした。

そんなことで兄にはぜひ出資を仰ぎ、株主になってもらおうと思って電話したところ・・・

釘:「あ、もしもし俺、清秀だけど久ぶり。あのさー、俺会社作ることにした」

兄:「そうかー」

釘:「よかったら出資してくれないか?」

兄:「わかった。100万円くらいなら何とかするぞ」

兄からは、少しは反対されるかと思いきや、むしろ独立することを喜んでくれたようでした。しかも100万円ポーンと出してくれるというので、逆に拍子抜けしたものでした。

さて、これで資本金は、とりあえず自分のお金(実際は娘名義の貯金ですが)とあわせて、200万円確保したことになります。

あと800万円をどうするか。

「そうだ!昔からの友人をリストにして、一人ひとりお願いしてみよう」

「とりあえず、『事業計画書』をつくんなきゃ!」

そして苦心の末できあがったのは、A4サイズ2枚だけの事業計画書。

今読み返すと、恥ずかしくなるほど拙いものでした。

そして、作成の翌日から本格的な出資者探しが始まるのでした。

( 詐欺でつかまるなよな! つづく)


結果から書くと、出資者を探し始めて1か月も経たないうちに、資本金1,000万円を集めることができたのですが、この間、会って話をした人は約30名。そのほとんどの方々には株主になっていただくことができました。

このときはまだサラリーマンなので、会えるのは夜間か土日。しかも、まだ携帯電話が普及していなかったころですから本人を捕まえるのにも苦労したものですが、我ながら粘り強く、よく頑張ったものだと思います。

フォークソング居酒屋開業に向けて同じことをやれと言われても、とても真似できないです(苦笑)。

さて、本日は終日在宅勤務の予定です。最近では本業以外の仕事がやたらと降ってきて意外と時間がありません。きょうも最後の打ち合わせが終わるのが夜の8時だし。眠くならないようにしなきゃ💦

では、朝食&エール再放送後、仕事します!