ニューヨークの金融マンがやってきた日
2008年10月17日 (金曜日)
世界経済の中枢を担うニューヨーク金融市場。ここで働いているMさんが、本日、パフを訪ねてくれた。
パフとニューヨーク金融市場。いったいぜんたい何の関係があるのか?
何の関係もありません(笑)。
ニューヨークの市場とパフとは関係ないのだが、Mさんとの関係は大ありなのである。
Mさんと僕が出会ったのは、1998年の春。いまから10年以上も昔になる。
当時Mさんは、設立されたばかりの、未上場企業専門の証券会社(ディーブレイン証券)の立ち上げ業務と、創設されたばかりのグリーンシート市場のルール作りを行っていた。
そして同時に、グリーンシート市場への登録を検討していたパフの担当となり、パフを第五号銘柄の登録企業とすべく、僕と二人三脚で、泥まみれになりながら走り続けてくれた。
一時期は、ほぼ毎日会っていたと思う。そして、パフの資金調達のために、ベンチャーキャピタルをはじめとする金融機関・投資機関の方々のところに、僕と一緒に訪問していた。
そしてパフが創業して3年目(西暦2000年)に、やっと大きなファイナンス(公募増資)を成功させ、5千万円近い資金調達によってパフの財務を安定させてくれた。創業時のパフの、金融面での大恩人である。
Mさんは、パフの公募増資が終了した直後から、MBAを取得するために英語の猛勉強をやり始め、翌年アメリカの大学院に合格。会社を辞め、自費でアメリカに渡った。
そして3年前、無事MBAを取得し、ニューヨークの金融機関に再就職したのだった。
今夜4年ぶりに会って、ゆっくり食事をしたのだが、当時とあまり変わらない。飄々とした男である。
ニューヨークはいま、大変なことになっている。金融の仕事そのものが、大きな変貌を遂げようとしているらしい。その渦中にいるMさん。僕は専門的なことはまったくわからないのだが、それでも激動の毎日を過ごしていることくらいはわかる。
そんななかにあっても、帰国の折に、こうやって(いまの仕事とはまったく無縁の)パフを訪ねてきてくれるというのは嬉しいものだ。
Mさんは、今後ずっとニューヨークで仕事を続けていきたいそうだ。自分の性格には、日本よりもアメリカ(ニューヨーク)のほうが合っているという。
確かにMさんは、日本の金融マンにはいないタイプなのだが、あの朴訥(ぼくとつ)さは、ニューヨークっていう感じでもないんだけど、まあ、本人が合うっていうんだからいいか(笑)。
いずれにしろMさんには、(100年に一度あるかどうかの)金融界のピンチを絶好のチャンスとしてとらえ、もっともっとビッグな男になってもらいたいものだ。
Mさん、がんばれよ!
1週間ぶりの東京の日
2008年10月16日 (木曜日)
久々の東京だ。なつかしい。
といっても、不在にしていたのは一週間だけ。でも、その一週間がとても長い時間だったように感じられる。
なぜだろう。
でも一方で、あっという間の一週間だったような気がする。名残惜しい。
午後2時過ぎに会社に戻って、お土産の愛媛ミカンと、松山銘菓・一六タルトを社員に渡す。
その後、大量のメールに呆然としながらも、メールの整理や返事などなど。
あ、そうそう、昨日僕がいない間に、きちっとオープンした『職学校web2010』も、ずうっと眺めていた。なかなかデザインがイケている。
制作に関わった社員諸君らと名クリエイターF氏をはじめとするGL社、それからシステム面をバックアップしてくれたTF社に最大級の感謝である。
こりゃたくさん売って、恩を返さなくちゃね。
さて。
東京の生活のリズムに慣れるまでどのくらいかかるだろう……。なあんて悠長なことを言っている場合ではない。さっそく明日から多くの来客があったり、イベントが休日も含めて目白押しである。明後日の土曜日は、いよいよキックオフイベントである。
今夜はひとまず、久々の自分の枕で、ゆっくり寝ることにしよう(笑)。
長期出張の最終日は、愛媛・松山で寸劇の公演だった日
2008年10月15日 (水曜日)
長い旅も、いよいよ大詰めを迎えた。
昨日の夕方、僕は愛媛の松山観光港に降り立った。広島の呉港から、高速船を使って約1時間。ここは、坊ちゃんの舞台、道後温泉でも有名な松山である。
松山に来た目的は、同業者であるコンベックスさんがこのたび立ち上げた、『ふるさと就職応援ネットワーク(Fネット)愛媛』の設立総会に出席するためである。
コンベックスの遠藤社長は、行動力の男である。全国のFネット加盟企業の中で先陣を切って、「ふるさと就職」を地元の有力企業を巻き込みながらカタチにしようとしている。
今回のFネット愛媛の立ち上げでは、コンベックスさんは運営事務局という裏方にまわり、幹事企業はすべて地元の企業の方々で構成されている。そして、わずか2か月足らずの短い時間で数十社の加盟企業を募ることに成功し、今回の設立総会まで漕ぎつけた。
たいしたもんだ。
で、僕は全国組織の幹事企業の1社として、今回の総会に出席させていただいたというわけだ。
もちろん他の幹事企業、加盟企業のみなさんも駆け付けた。仙台(エムジョイ菅原社長)、新潟(広報しえん山岸社長)、金沢(JJC夏至社長)、岡山(シーズ平川社長)、そして盟友・就職エージェントの下薗社長も東京からやってきた。
でも僕は、単に総会に出席するためだけにやってきたわけではない。大きなミッションを背負ってやってきたのだ。
それは寸劇の上演(笑)。
先日(9月27日)の東京でのFネットキックオフイベント「キミは、Uターンできるか?」で上演した『ヒロヤスのUターン就職物語』のリバイバル公演を、愛媛の設立総会でもやることになったのだ。
キャストは先日と同じ面々(ヒロヤス=下薗社長、ヒロヤスの父=夏至社長、遠藤工業社長=遠藤社長)だったのだが、ヒロヤスの悪友であるダイスケの役だけは、コンベックスの若手社員が演じることになった。
あらたな気持ちで臨む演劇。脚本家兼演出家の僕の腕のみせどころだったわけである(笑)。
で、本日。
昨夜のうちに、ダイスケ役のコンベックス若手社員にはたっぷり練習をつけたので、設立総会の時間までは余裕があった。
ということで僕は、松山市内の散策に出かけた。
坊ちゃんや夏目漱石に関するところは、すでに行ったことがある。今回は、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の主人公である、秋山兄弟の生家を訪ねることにした。小説を読んだことのある人はご存じだろうが、秋山兄弟の存在なくして、日露戦争での勝利はあり得なかった。日本にとっての隠れた超重要人物だったのだ。
秋山兄弟の生家に行くと、観光客は僕しかいなかったこともあり、職員の方が付きっきりでとても詳しい説明をしてくださった。いやあ、勉強になった。
秋山兄弟の生家訪問の後は、松山城を目指した。
松山城は、山のうえにあるとっても立派なお城だ。標高が150メートルほどあるらしい。
リフトに乗って城門まで登る。そしてさらに15分ほど登ると、眼前には松山城がデーンと広がった。
また、ここからの松山市内の眺めも、最高に良かった。
僕がのんびり観光している間に、総会の時間が迫ってきた。
会場に到着して舞台の準備を進めるなかで、僕はなんと、寸劇の脚本兼演出だけではなく、ナレーターと、照明と、音楽の裏方のすべてを担うことになってしまった。
こりゃハードだ。
しかも、きょうの総会では、地元のメディア(新聞社や放送局)も取材に来ていた(テレビカメラが3台も回っていた!)。
こりゃすごい。
そして総会本番。
役者陣はたいしたもんだ。皆、3週間前よりもさらにレベルアップしていた。またダイスケ役も、昨日の練習のときには不安を感じさせていたものの、本日の本番では完璧な演技を見せてくれた。
地元企業の皆さんからのごあいさつや、コンベックスさんのプレゼン、そして全国組織の会長である新潟の山岸社長のユニークな記念講演をもって、無事、総会は終了した。
そしてその後の地元企業の皆さんとの交流会も楽しい会話のうちに終了。僕ら幹事企業としての役目もすべて終わり、ほんとに「お疲れ様!!」という感じだった。
その後の二次会、三次会のことは、まあ書くまい(手元には証拠写真があるんだけど…、笑)。
※下の写真は、コンベックスの遠藤社長(後列左端)と社員たち。前列中央でVサインをしているのがダイスケ。ダイスケを取り押さえているのがヒロヤスの親父役の金沢JJCの夏至社長である。
さて、これで僕の今回の長い旅はおしまい。あすは久々の東京である。
今回の地方行脚の旅であらためて感じたのであるが、日本はやっぱり美しい。とても素晴らしい国だ。各地それぞれの歴史があり、文化があり、景色があり、食べ物があり、地元を大切にしながら暮らす人々がいる。
僕らはこの日本という国を大切にしながら、後世の人たちにきちんと繋いでいかなければならない。中央中心の政治経済の社会になってしまっているが、日本が日本らしくあるためには、地方が地方らしくあらねばならない。
そんなことを考えた、この一週間の旅であった。
( ↓ 小さくおまけ。「下さん、ちょっとハシャギ過ぎ」の図)
念願の松下村塾を訪ねた日
2008年10月14日 (火曜日)
海岸沿いの旅館をあとにし、東萩の駅に戻ったのは朝の9時。
きょうは夕方までに、愛媛(松山)に行かねばならない(これは仕事です)。
山口県と愛媛県というのは、日本地図で見ると近いようにみえるのだが、実際にはとっても遠い。僕のいる萩は日本海側にあるので、いったん山を越えて瀬戸内海に出なければならない。そして、その瀬戸内海を船で渡ってはじめて、四国に上陸することができる。
乗り継ぎの時間も含めると、6時間ほどかかる。お昼前には萩を出発しなければ、日が沈むまでに松山には着かないのだ。
ということで、萩で残された時間は2時間。この2時間で、萩を効率よく見てまわるためには……。そうチャリンコである。
運よく駅前に、貸自転車屋さんがあった。僕はわき目も振らず、その貸自転車屋さんに向かい、大きな荷物を預けて、自転車を二時間借りた。レンタル料は、金300円也。安い!
コインロッカーの代金が300円なんだけど、それと同じ料金で荷物を預かってくれ、なおかつ自転車まで貸してくれる。すっごく満足。
颯爽と自転車に飛び乗り、松下村塾のある松陰神社を目指した。
えっちらおっちら漕ぐこと約10分。「←松陰神社」という標識が見えた。やった。やっとたどり着いた。
思えば、パフの「つきしま村塾」というのは、いまから8年前、吉田松陰の松下村塾の精神にならって立ち上げた塾(というか少人数制のイベント)だった。松下村塾が、明治維新を成し遂げた若者たちを生み出したのと同じように、パフの「つきしま村塾」から日本を変えていく若者を生み出していきたいと考えていた。
そんな松下村塾。一度は訪問し、松陰先生(やっぱり先生と呼んでしまう)にご報告しなければ!と前々から思っていた。
駐車場の敷地をこえたところに自転車を置く。そして少し歩いたところに、松下村塾はあった。
これだ!まさにこれが松下村塾なのだ!
その昔、高杉晋作や久坂玄瑞や伊藤俊輔(博文)が学んでいたという狭い(8畳間ほどの)座敷を、そのシーンを想像しながら、ずっと眺めていた。20歳前後の塾生たちは、寝る間も惜しんで勉学に、議論に励んでいたのだ。この国の行く末を、本気で憂えていた。誠を貫き通す精神を、この地で身につけていったのだ。
当時、吉田松陰は28歳。いまの僕よりも20歳も若い。抜群の行動力と抜群の頭脳と抜群の人格の持ち主であったのだろう。松陰先生は、決して何かを一方的に教えていたわけではない。塾生一人ひとりが潜在的に持っている能力を引き出し、顕在化させていった。そしてその能力が行動につながることの大切さを説いていったに違いない。
結局1時間以上を、この松陰神社で過ごした。
その後、あわてて萩市内を自転車で走り抜けた。藩校だった明倫館(いまは明倫館小学校となっている)も見ることができた。
#余談だが、明倫館は身分が上のものしか学べなかった学校。しかし、松下村塾は、身分の分け隔てなく、学びたいものは誰もが学べた。
萩。素朴で情緒のある城下町である。どうしてこの町から、日本を変えていく傑材たちが何人も生み出されていったのか。やっぱり吉田松陰という希代の教育者によるところのものが大きいんだろうなあ……。
11時40分のバスで、萩をあとにした。向かうは、愛媛県松山市。
この先は、また明日の日記で書くことにしよう。
金子みすずと萩の夕日に魅せられた日
2008年10月13日 (月曜日)
朝、下関を出発し、萩に向かった。
当初の予定では、萩の吉田松陰をはじめとする幕末の志士の生家や松下村塾を回ろうと考えていた。
しかし、急きょ予定変更。
金子みすず の生家が、萩駅の手前の長門市駅から伸びた支線にあると知り、そこへ向かうことにした。
金子みすずとは、『若き童謡詩人の巨星』とまで称賛されながら、26歳の若さで世を去った、昭和初期の詩人である。
僕が金子みすずのことを知ったのは、つい一年ほど前。この日記や僕のコラムにもちょくちょく登場する國(クニ)さん から、この詩のことを聞いた。
その詩とは、 『こだまでしょうか』という短い詩である。読めば読むほど、その深さに感動する詩である。
以来、金子みすずの詩のことが、いつもぼんやり頭の片隅にあった。でも、まさかその金子みすずの生家が、これから向かおうとする萩の手前にあるとは知らなかった。
下関から電車(山陰線)に乗って2時間(その電車の名もまさに、『快速みすず湖彩1号』というから、JRも洒落ている)。途中、日本海の絶景を左に見ながら到着したのが、仙崎(せんざき)という小さな駅(無人駅)だ。
とても小さな町なのだが、清潔感にあふれている。昔は漁業で栄えた町らしい(日本水産が設立された街でもあるらしい)。
駅から一本道を歩いて5分ほどのところに、金子みすず記念館はあった。時代を感じさせる建物だ。入館すると、大正から昭和にかけての時代にタイムスリップしたかのような錯覚に陥った。
これ、書きだすと切りがないので(というか中途半端になってしまいそうなので)、詳細な記述はしないが、詩の世界に関心のある方は、ぜひいちど立ち寄られたら良いと思う。あるいは詩に関心がなくとも、人間に関心がある(?)っていう方はぜひ。
そうそう、この町に降りて感心したこと。何人かの小学生や中学生とすれ違ったのだが、みな「こんにちは!」と挨拶してくれるのだ。そんなことに慣れていない僕は、最初びっくりして声がでなかった。ま、まずい!と思って、すれちがった子供の後姿に、あわてて「あ、こんにちは!」と返した。
金子みすずの故郷の子供であるという誇りからだろうか。きっと学校の先生も、「この地を訪れる人たちには挨拶をしよう」という教育をしているのだろう。やたらと嬉しくなって、すれ違う二人目以降には、子どもの声に負けないように大きな声で「こんにちは!」と返すことにした。
心地よい時間を仙崎で過ごしたのだが、なんと電車が二時間に一本しかない。
結局、本来の目的地である萩(東萩)に着いたのは、すでに午後5時。この時間から町の散策をしても中途半端なので、宿に向かうことにした。
宿は、萩の海岸線に建っていた。
これがまたすごい。宿ではなく(いや、宿もきちんとした宿なのだが)、海に沈む夕日のことだ。
きょうは、午後5時40分が日没の時間だという。部屋に入るやいなや、窓から見える夕日にしばし見とれていた。
ということで、きょうの日記は、その夕日の写真で締めくくることにしよう。
長州……。日本の歴史と情緒を、存分に味あわせてくれる街だ。すっかり気に入ってしまった。
下関で幕末を辿った日
2008年10月12日 (日曜日)
明治維新において偉大な功績を残した長州藩。きょうは高杉晋作の幕府軍に対しての挙兵の地としても知られる功山寺(仏殿は国宝に指定されている)をはじめとする下関市内の各地を散策した。
写真をたくさん撮ったので、以下アップしておこう。もちろん高杉晋作の像もありますよ。
うみたまごと、お猿さんと、パンダの日
2008年10月11日 (土曜日)
実は昨夜から、僕の育った故郷である大分・湯布院に帰省している。出張と連休を利用して、ひとりで暮らしている高齢の母親の様子を見に来たのだ。
母親の面倒をみてくださっているご夫婦がいるのだが、ご主人が体調を崩され、別府(湯布院からクルマで30分ほど)の病院に入院している。そのお見舞いも兼ねての帰省だ。
宿泊したのは、実家ではなく、中学生時代の友人エトちゃんが経営する旅館。 『御宿なか屋』という旅館なのだが、とっても情緒あふれる宿だ。なんといっても料理が優れている。「豪華、贅沢」ということではなく、選りすぐりの素材を活かしながら、丹精込めて料理しているのがよく分かる。手作りの胡麻豆腐などは、最高の味だった。
エトちゃんは地元の高校を卒業したあと、板前の修業をするために、大阪に単身渡った。5年間の修業を終え、湯布院にもどり、この旅館の主人となった。料理の腕前は天下一品であり、うちの死んだ親父(やっぱり湯布院の板前をやっていた)ともかつて親交があったという。
加えていうと、エトちゃんは中学生時代、僕と同じく柔道部に所属していた。いっしょに黒帯を目指し、きつい練習に耐えた仲間だったのだ。なんだかんだの深い縁がある友人なのだ。
夕食と翌日の仕込みが終わった後、一升瓶を片手に夜遅くまで語り合った。中学生時代の思い出、湯布院の現状、教育論、子育て論、これからの町づくりのことなどなど。話は尽きなかった。
明けて本日は、(先に書いたように今回の帰省の目的のひとつである)別府の病院へのお見舞い。おじさんは、思ったよりもとってもお元気で安心した。
お見舞いのあと、少し時間があったので、水族館と高崎山の見学をしに行くことにした。
水族館は、昔は「マリーンパレス」という名前だったが、いまは「うみたまご」という名前になっている。別府湾に面した、とても立派な水族館だ。そしてこの「うみたまご」の向かいにある山が、 「高崎山」だ。自然のお猿さんがたくさん暮らしていることで有名な山である。
この水族館と高崎山に行ったのは、小学校の社会見学以来。たぶん40年ぶりくらいだったのかな。いやー、心が洗われた。特に無邪気なお猿さんたち。童心にもどった時間だった。
夕方、前日のエトちゃんに続き、もうひとりの中学時代の同級生、イオちゃんと会う。会うのは30年ぶり。まともに話をするのは33年ぶりである。過去の同窓会ではいつもすれ違いで、会えていなかったのだ。
イオちゃんが別府で働いているということは、昨年の暮れころ、別の同級生から聞いており、ぜひ会いたいなあと思っていた。その念願かなって、きょう会うことになったのだった。
「顔わかるかなあ…」と不安になりながらも、待ち合わせ場所である別府駅前の「手湯」のところでボッと立っていたら、 「パンダ? わたしや、イオやイオ」と、突然ひとりの女性が眼前に現れた。
「イオ? わあ、ひっさしぶり!」と声をあげたら、 「パンダ!ちょっと声でかいよ!」と33年ぶりに怒られてしまった(笑)。
僕の中学生の頃のあだ名は「パンダ」である。あだ名というよりも実名のようなものだった。先生たちも含め、僕を「クギサキ」と呼ぶ人は誰もいなかった。3年間ずうっと「パンダ」と呼ばれ続けてきた。
なので、前日、エトちゃんと飲んでるときもそうだったが、今夜イオちゃんと話をするときも、ずっと僕は「パンダ」だったのだ。
酒を飲みながら昔話をしていると、30数年前の記憶が見事によみがえってくる。僕は当時クラスの班長で、イオちゃんが副班長。イオちゃんはいつも僕の隣の席にいた。尊敬すべき先生方といろんな個性が集まった愛すべき同級生たち。七転八倒しながら一緒に過ごした多感な時代。
なーんて、ノスタルジに浸りながら過ごした別府の夜だった。