新・パフの創業物語<第16話> 「売れる営業マンにヘンシーン?」
2020年7月7日 (火曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第16話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
社長 : 「分かりました。じゃあ、お付き合いさせていただきましょう」
釘崎 : 「へっ?」
社長 : 「まずは、当社の会社案内を作ってもらえますか?そうですねぇ。予算は200万円でどうですか?」
釘崎 : 「に、にひゃふまんーーー!?」
僕がリクルートで営業の仕事を開始して、はや2ヶ月。まったく売れず、情けなく惨めな思いで「もう辞めようか……」と思い始めていた矢先に、不意に訪れた初受注の瞬間でした。
釘崎 : 「に、にひゃふまん、い、いや200万円の会社案内を作らせていただけるのですか?」
社長 : 「200万円じゃ足りません?」
釘崎 : 「い、いやいや、大丈夫です。て、ていうか、僕じゃよくわからないので、制作マンをこれからすぐ連れてきます!」
会社案内の制作は、営業マン側にいろんな知識やある程度のセンスが必要とされるため、新米営業マンが受注することなんて滅多にありませんでした。
しかも、今まで何一つとして商談を成功させたことのなかった『売れない営業マン』に売れるはずのない商品だったのです。
わけの分からないままに、営業所に戻り所長に報告。
所長は「おー!くぎー、遂にやったかー!おめでとう!」と自分のことのように喜んでくれ、キツーい(キスじゃなく)握手を交わしてくれました。
制作マンや、庶務の女性や、事務所に居あわせた他の営業マン達も「クギサキくーん、良かったねー」 「おー、クギ、これでやっと棒グラフに色がつくなー」と口々に喜んでくれました。
そ、そうか……俺、ついに売れたんだ……と、やっと実感が湧いてきて、なんだか熱いモノがこみ上げてくる自分に気がつきました。
今から17年8ヶ月も昔の出来事ですが(注:2020年の現在から数えると37年前の出来事となります)、絶対一生忘れる事のない感動の日でした。
ところで、この初受注には後日談がありまして……。
初受注をくださったこの会社の社長に、「あのー、どうしてあの日、初めて会った僕にいきなり注文を出そうと思われたんですか?」と勇気を持って聞いたことがあります。
「いやー、実はね、私には関西のある会社に就職したばかりのひとり息子がおりましてね」
「は、はい」
「いま、大阪で営業をやっとって、ひとり暮らししながら苦労しとるらしいんですわ」
「そうなんですかあ」
「釘崎さんが、うちの課長に小一時間も粘りながら一生懸命営業しとる姿を遠目で見とったら、なんだかうちの息子とだぶってきましてなあ……」
「は、はあ・・・」
「うちの息子もこの若い営業マンみたいに一生懸命営業しとるんだろうか・・・よし、私がこの営業マンと直接話をしてみよう、と思ったわけですわ」
「な、なるほど・・・」
「まあそれで釘崎さんと話をするうちに、ますます釘崎さんが息子みたいに思えてきましてね。息子にエールを送るつもりで、こいつに仕事を任せてみるかと、親バカで恥ずかしいんですが、初対面の釘崎さんにお願いした次第なんですわ」
つまり、この初受注は僕の実力でも何でもなく、「たまたま」飛び込んだ会社の社長の息子さんが、「たまたま」僕と同じくらいの年頃の営業マンで、「たまたま」事務所に居合わせたその社長は、僕と息子さんのことがダブって見えてしまい、ついうっかりホロホロと注文を「出してしまった」と、いうことだったのです。
出来すぎなくらいうまい話しですが、これは全部ほんとうのこと。まさに事実は小説より奇なり。この感動の初受注がなければ、パフが生まれることなんてなかったかもしれません。
(ひとりでウルウルしながら次号につづく)
20年前に書いた37年前このエピソード。書いておいてよかったなと思います。いまならここまでリアルに描けなかったかもしれません。
この初受注をくださった会社、水道橋の駅そばにありました。現在のパフの本社事務所から歩いて10分くらいのところです。何年か前に行ってみたことがあるのですが、当時のビルも会社も見あたりませんでした。ネットで検索しても見つかりませんでした。
できることならもう一度お会いして、当時のお礼ができたらなと思うのでした。
さて、本日僕はオンラインmeetingが数本。夜は久々の会食です。
では朝食&エールの再放送後、準備します!
これが僕の生家。お見舞い申し上げます。
2020年7月6日 (月曜日)
僕が生まれたのは(旧住所で書くと)熊本県八代郡坂本村葉木にある「鶴の湯旅館」という昭和29年に建てられた木造三階建ての旅館です(日本で最後に建てられた木造三階建ての建物らしいです)。
僕の母方の祖父(気性の激しい明治生まれの九州男児)が創業した旅館です。
建物のすぐ脇には球磨川が流れています。最近リライトを始めたこちら( 新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」)にも書いていました。
住んでいたのは3歳くらいまでなんですが、小学生の頃は毎年夏休みになるとこの生家に2週間くらい帰っていました。僕にとっての本当の「ふるさと」です。
現在では、僕の従兄のご家族が旅館業を継続しておられます。
検索したら洒落たホームページもありました。
鶴の湯旅館のホームページ
ところがこの地域、今般の大雨の被災地になってしまいました。
心配になって、熊本に住む従兄に電話しますが繋がりません。夜になって、やっと連絡が取れて無事であることが確認できました。建物も少し小高いところに建てられていたことから水も上がってこなかったとのこと。少しホッとしました。
僕の家族は、この生家で暮らしたあと、球磨川をさらに上っていったところにある人吉市にも1年近く暮らしていました。僕が5歳だったころですが当時のことは今でもよく覚えています。
今回の大雨の被害は、この人吉のほうが酷くて、市中のほとんどの建物が浸水してしまいました。
従兄の話によると、僕が通っていた幼稚園(青井神社のなかにある青井幼稚園)も浸水してしまって酷い状況だとのことでした。
暮らしていたのはもう50年以上も前のことですが、なんだかすごくショックです。
被害に遭われた皆様に、心からお見舞い申し上げたいと思います。
それにしても毎年のように襲ってくる自然災害。温暖化の影響なのでしょうが、そうして考えると(我々が目の前の便利な暮らしを追求したことと引き換えにもたらされた)人災なのかもしれません。
不便でも貧しくてもいいから、僕らの地球を、ふるさとを守ってほしい。自然災害が起きるたびにそんなことを思います。
さて、本日は第25期のキックオフミーティング。オンラインなのですが、節目の会議でもあるので会社まで行こうと思います。東京も朝から大雨ですけどね。
では朝食&エール後、行ってきます!
これからやること。
2020年7月3日 (金曜日)
昨日の日記(これが社長交代の内容と経緯です。)では、前日に続いて多くの皆さんからコメントを頂戴しました。とてもうれしかったです。ありがとうございました。
さて、今日は僕の今後のことを少しだけ。
消えてなくなるわけではなく、別の活動を開始します。
こんな感じです( ^)o(^ )👇
これは、僕の「55歳記念ライブ」のときのステージ写真です。たまにやる講演や研修の際の自己紹介として使ってます。受けを狙って使ってるんですが、いつもシーンとしてしまいます(苦笑)。
このライブから5年が経ちました。今年は「還暦記念ライブ」をやることになっています。
あ、でもライブ活動ばかりを今後やっていくわけではありません。せいぜい月に1回くらいでしょうか(それでも多い?)。
歌好き、音楽好きの人たちが気軽に立ち寄って、軽めのお酒を飲みながら、人の歌や演奏を聴いたり、自分でもピアノやギターなどの楽器を奏でて歌えるようなお店をつくろうと思っています。
分かりやすくするために「フォークソング居酒屋」って言ってるんですが、別にフォークソングだけにこだわるつもりもなくて、クラシック、ジャズ、演歌、民謡、ポップス、手品や漫才やコントや落語。ステージで楽しめるものなら何でもいいんです。
客層も、年齢・性別・国籍・職業など様々で、むしろ日常では出会わないような人たちの偶然の出会いが演出できるようなスペースになるといいんじゃないかと思ってます。
日中は、お酒や音楽は抜きにして、キャリア相談なんかが気軽にできるスペースにしてもいいのではないかと。就職・採用の仕事を長年やってきたおかげで、キャリア相談できる知人・友人はたくさんいますからね。
そして大事なのは、ここに集う人たちは(初対面であったとしても)信用・信頼できる「仲間」であるということ。そのために完全会員制にするつもりです。まずは僕の友達にお願いして入会してもらいます。そこから友達の友達、そのまた友達の友達。「みんなで広げよう友達の輪!」っていう感じで徐々に広めていこうかなと。
もちろんパフの「職サークル」の会員学生や協賛企業は、もうそれだけで入会OK!にしちゃいます(拒否権は行使していただいて結構ですが💦)。
こういったことをやるための会社もすでに作りました。
マジックドラゴン株式会社です。
パフとの付き合いが長い方はご存じでしょう。リーマンで瀕死の状態だったパフを救うために、2011年に設立したパフの100%子会社です。
でも、その役目を完遂した2016年以降は休眠会社になっていました。
この会社を、このほど僕が個人で買収して、「フォークソング居酒屋」を運営するための会社として生まれ変わらせたのです。
生まれ変わったマジックドラゴンの謄本です
本当は年末にもこのお店が出来上がるはずだったんですが、今般のコロナ禍でお店の開業準備はちょっと中断しています。
が!
ライブはやります。
まずは9月25日(金)。はい、正式にパフの社長を退任する日なので「社長引退記念ライブ」と名付けました。
こちらは時節柄ハイブリッド(少数の観客+ライブ配信)での開催です。場所は55歳記念ライブの会場としても使用した四谷LOTUSさんです。いつもは100人キャパなんですが、その2割の20人が定員なので、あっというまにチケットは完売しそうです(するといいな💦)。でもオンラインでは定員はありませんので、100人でも1,000人でも10,000人でも参加OKです。
そして次のライブは、12月5日(土)です。こちらはかねてから予定していた「還暦記念ライブ」です。
状況次第ですが、こちらも無観客(または少数客)でのライブ配信を前提に考えています。
ほかにもコロナが収まるまで(フォークソング居酒屋を開業できるまで)のあいだ、いろいろとやっていこうと妄想&構想してますが、ひとまず今日はこんなところで。
さて、すっかり引退モードになってますが、まだパフの社長の仕事は続きます。今日は午前は会社ですし、午後は創業時にたいへんお世話になった方のところへのご挨拶です。
では、そろそろ準備して行ってきます!
これが社長交代の内容と経緯です。
2020年7月2日 (木曜日)
昨日の日記(社長交代を決議した日)は、多くの方々にお読みいただけたようです。
Facebookにもたくさんのコメントを頂戴しました。
詳細にはほとんど触れず、ただ「社長交代を決議しました」というだけの簡単な報告だったのに恐縮しています。読者の皆さん、ありがとうございました。
ということで本日は、社長交代の内実をご報告したいと思います。
「後任の社長を誰にするか。パフという会社の舵取りを誰に託すか」ということは、実はもうずいぶん前(15年くらい前だったかな)から考えていたことです。
会社を立ち上げて社員を毎年定期的に採用し、創業期から成長期に向かい始めたころからです。そのとき僕は50歳をひとつの区切りにしようと思っていました。
13年前(2007年12月に開催した10周年記念式典)の寸劇「パフ創業物語Always編」では、僕は20周年の日(2017年12月)に社長引退し、キングレコードからCDデビューしたうえで全国ツアーすることになっていましたし(笑)。
ところが2008年秋に突如襲ってきたリーマンショックによって、社長交代どころではなくなってしまいました。
会社がなくなるかどうかの瀬戸際が3年間続き、その後も傷んだ財務を回復させるために、僕はあれこれと修復作業に追われていました。
でも、この時代の試練が、僕も社員も会社も強くした(というか大人にしたのかな)と思います。
2016年には業績も財務もすっかり回復しました。このときの執行役員はヨシカワとホサカの二名。そこに同業で活躍していたオーオカが合流して、事業運営の安定感も増してきました。
そして20周年を迎えた2017年の正月に僕は決意しました。
3年後の2020年に社長をバトンタッチしよう。バトンを渡す相手は、新卒一期生のヨシカワだ。まだ内定者だった西暦2000年の夏から苦楽をともにしてくれた彼女にトップとなってもらい、その脇を(助さん格さんのように)ホサカとオオオカでしっかりと支えてもらおうと。
まずは2017年9月の株主総会で、ヨシカワには取締役になってもらいました。プロパー社員で取締役に就任したのはヨシカワが初めてのことでした。
そして翌年の2018年9月の株主総会では、社外取締役として名大社社長の山田さんを三顧の礼で迎え入れました。東海地区で名実ともにナンバーワンの実績と歴史を有する業界の名門企業であり、パフとのパートナーシップの絆も強い名大社。そして、ヨシカワ同様(新卒入社で同族ではない生え抜き社員)の立場で経営を託された山田さんであれば、ヨシカワのよき相談相手になってくれるだろうと判断したのです。
もうこのときには、ヨシカワ本人にはもちろんのこと、ホサカにもオーオカにも山田さんにも、「次期社長はヨシカワで行く。交代のタイミングは2020年である」ということをしっかりと伝え、同意をとっていました。
皆さんの記憶もまだ新しい昨年2019年9月には、そのためのステップとして、副社長に就任してもらいました。
このとき唯一誤算だったのは、副社長就任を内外ともにも盛大に祝っていただいたことです。僕は内心「あーあ、来年には社長になっちゃうのに、いまこうして盛大に祝いすぎると来年が色褪せちゃうなあ……」なんて思ったものです(笑)。
そして待ちに待った、今回の社長交代の発表。
正式な交代日は9月25日ではありますが、パフの第25期のスタートである昨日から、実質的にヨシカワが会社のトップとしての舵取りをスタートさせています。具体的な権限移譲(社長としての決裁権限)の内容も決めています。
僕もしばらくの間は会長として残りますし、パフの創業者であることに変わりありませんが、できるかぎり新社長の邪魔にならないように、ましてや老害などには決してならないように、陰ながら新社長とパフをしっかりと支えていきたいと考えています。
では以下、昨日パフのホームページにも掲載されたニュースリリースをコピペして、本日の極めて珍しくまじめなトーンで書いた日記を終わりたいと思います。
あ、山田さんも比較的まじめなトーンで伝えてくれていますので、リンクしておきますね ⇒ 新生パフをよろしく!(名大社社長ブログ)
明日は、僕がこれからどうしていくかということを(知っている人もたくさんいますが笑)お伝えしますので、どうぞお楽しみに( ^)o(^ )。
社長交代に関するお知らせ
各位
当社は、2020年6月30日の取締役会にて、新たな経営体制のもと今後の事業展開を図っていくことを決議いたしましたのでお知らせいたします。
具体的には、2020年9月25日開催予定の第24期定時株主総会および取締役会において承認可決されることを条件に、吉川安由(現取締役副社長)が代表取締役社長に昇格すると同時に釘崎清秀(現代表取締役社長)が代表権を持つ会長に退きます。
社長交代は1997年の設立以来、初めてのこととなります。今後大きく変わりゆく社会環境の中で、新社長の若い感性を生かしながら当社の新しい時代を創造してまいる所存です。
今後とも変わらぬご支援ご鞭撻を賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。
2020年7月1日 株式会社パフ取締役会
■吉川安由 次期社長からのコメント
創業者の強い理念への思いと精神力、たぐいまれなる能力と人柄(と可愛いまゆげ?)で「知る人ぞ知るこだわりの名店」として続いてきたわが社。その店の長女として、こだわりの味とそれを生み出す匠の技、人と向き合う基本姿勢をみっちり叩き込まれてきました。
そして入社20年目を迎えた今、居心地のよい実家を飛び出し、古いしきたりやしがらみを捨て、より多くの方に、より食べやすいスタイルでお届けするお店へと改造していくことが、育ててくれた皆さんへの恩返しになると感じ、次なるバトンを受け取ることに決めました。
「顔の見える就職と採用」の実現のため、リアルにこだわり、多くのマンパワーをかけるスタイルを貫いてきたこれまで。しかし、大きく環境が変化した今、ここにこだわることが理念の追求になるのか?そんな疑問がわいてきました。
ここからは時代にあった様々なツールの活用と、能力・性格共に凸凹が激しいスタッフの“強み”を活かしたチーム総合力で、時間的・距離的・心理的ハードルを越えることを意識した事業経営を目指してまいります。
そして、新体制になってもこだわり抜きたい「顔の見える就職と採用」というパフ伝統の味は3つあります。
①【face-to-face】顔を見せ合う(一人一人に目を向ける)
②【heart-to-heart】心の顔も見せ合う(ホンネで良いことも悪いことも伝えあう)
③【face each other】顔を背けない(逃げずに向き合い続ける)
いよいよ「パフ=釘さんの会社」から、本当の意味での「株式会社パフ」になる物語をスタートさせます!
ポジティブさと運の良さだけが取り柄の未熟な新米店主ですが、全スタッフの心を一つにし、誠心誠意がんばりますので、これからもパフをどうぞよろしくお願い致します。
■山田哲也 社外取締役(株式会社名大社社長)からのコメント
釘崎さんと出会ったのは2010年2月。 私が社長に就任したばかりの頃。早いものであれから10年が過ぎました。経営者として右も左も分からず、実績のない私が目標としていた人物が釘崎さんでした。温厚そうに見える表情の裏側にある強い信念と理想、そして取り組みに大きな影響を受けました。東京に出張する度に学びを得ながら、パフというユニークな会社を理解していきました。リーマンショック後の厳しい時期でしたが、常に明るく全力で取り組む会社の姿勢に勇気づけられたことを今でも記憶しています。
その中心にいたのが吉川さん。どんな時でも笑顔を絶やすことなく、こちらのどんな難しいお願いも断ることなく引き受けてくれ、成果を上げてくれました。弊社の役員と「吉川のような社員がうちにいてくれたら・・・」とどれだけ話をしたでしょうか。
私が最も信頼するパートナー企業がパフで、共に成長を築いていきたい企業がパフです。2年前に釘崎さんから社外取締役を打診された時も迷うことなく引き受けました。パフの力になりたいというよりも自分が近くにいたいと思っただけなのかもしれません。
私と吉川さんは共通点も多いです。共に新卒入社。私も20年勤め、社長に就任しました。トップからの理不尽な要求にも耐え、苦境を乗り越えてきたのも同じ(笑)。10年前の私と比べれば能力の高い吉川さんですが、重圧に苦しむこともあるでしょう。そんな時は都合のいいメンターとして使ってください。これが釘崎さんに助けてもらった恩返し。余計な心配なのかもしれませんが・・・。
これから吉川カラーを前面に押し出しながら、全スタッフの力を結集し、新生パフを創ってください。期待しています!
■釘崎清秀 現社長からのコメント
吉川も山田さんも、上のコメントで珍しく私のことを持ち上げてくれていますが、私がいままで社長を続けてこられたのは、私にたぐいまれなる能力や精神力があったからでも、強い信念や理想があったからでもありません(少しばかりの頑固さと垂れた眉毛のおかげだったことは認めますが笑)。吉川を筆頭とする社員たちが(どんなに苦しい時でも辛い顔を外に見せることなく)明るく前向きに、多くのお客様に寄り添いながら仕事をし、期待に応え続けてくれたおかげです。
パフの社訓にもなっている「うまれよ」(“うそをつくな”、“負けるな”、“礼儀正しくあれ”、“世のため人のため”)。次期社長を引き受けることになった吉川は、入社以来20年間、このことを先頭に立って実行してきた理念の体現者です。
「今般のコロナ禍の大変な状況のなかで社長交代などして大丈夫なのか」という声も漏れ聞こえてきますが、心配ご無用です。「会社はトップの器以上には大きくならない」といいます。吉川は脇が甘くて頼りないようにも見えますが(確かにそんなときもありますが苦笑)、人間としての器は私などの何倍以上もの大きさです。パフを今よりもずっと強く、大きく、育ててくれることでしょう。
そして、世の中が大変な時代に突入する今だからこそ、私たちも「大きく変わる」必要があります。このたびの社長交代によって、パフがこれからの時代に真に必要とされる会社へと変化・成長していくものと信じています。ぜひご注目いただくとともに、皆様のより一層のご支援をいただけますよう、なにとぞよろしくお願い申し上げます。
以 上
社長交代を決議した日
2020年7月1日 (水曜日)
第24期の最終日だった昨日、夕方5時から取締役会を開きました。
現在のパフの取締役は3名。僕、副社長の吉川さん、社外取締役(名大社社長)の山田さんです。
昨日の取締役会ではこの3名に加え、執行役員の保坂さんと大岡さんにもオブザーバー(証人?)として加わってもらいました。
いくつかの重要議案があったのですが、最初の議案は株主総会の開催日程について。
結果、パフの第24期定時株主総会は、3か月後の9月25日(金)に開催することが決まりました。
パフの定款では取締役の任期は1年間になっていますので、僕ら3人が取締役を続行するためには株主総会での決議が必要となります。
この株主総会で3人とも再選されることを前提として、昨日の取締役会では最重要議案として「社長交代について」を僕が上程しました。
そして喧々諤々の議論の末、僕の提案した通りに社長交代が内定。正式な交代日は、9月25日。株主総会後の取締役会を経て、ということになりました。
本日の午前中には、パフのコーポレートサイトにてその内容が発表されることになりますので、詳しくはそちらをご覧いただければと(ちゃんと載るかな……)。
読者の皆さんには、ひとまずそちらをご覧いただいたうえで、また明日この日記で続報をお届けしたいと思います。
どんな内容なんでしょうね。楽しみですね( ^)o(^ )。
さて、それはともかく本日から第25期のスタート。オフィスも体制も新しくなり、社長交代も決まったパフ。新しい時代に向かってヨーイドンです。
僕は在宅で、次なる構想を練ることにいたしましょう。
では、朝食&エール(の再放送)後、練り始めます!