幼いころを思い出してみる(14)
2014年11月20日 (木曜日)
「柔道一直線」に影響を受け、一条直也や車周作のようになりたくて門を叩いた柔道部。でもドラマのように人をホイホイ投げ飛ばすなんてことはできず、厳しく苦しい毎日が続くことになった。
スポ根の時代である。練習は月曜日から土曜日までの毎日。放課後すぐに始まり、終わるのは日暮れ遅く。開始の際は準備体操として、腕立て伏せと腹筋は最低でも100回ずつ。あと腹ばいになって腕の力だけでの匍匐(ほふく)前進のようなことを50メートルくらい行っていた。
これがきつかった。
それまでろくに運動なんてしたことのなかった僕の体は悲鳴を上げて、腕がまったく上がらなくなった。服を脱いだり着たりすることもできない。肘や膝は擦り剝けて血だらけ。
最初は10人以上いた新入部員も1週間が過ぎたころには半分くらいに減っていた。
僕もよっぽど辞めようかと思ったのだが、なぜか続けていた。
母親に無理言って安くない柔道着を買ってもらった手前、すぐに辞めてしまっては申し訳ないという気持ちもあった。
柔道部の顧問の先生から、目をかけられていると勘違いしていたことも大きかったのかもしれない。
顧問は、飯倉巌先生といって、名前もそうだが、全身から威厳を感じさせる先生。大分県の柔道界では有名な指導者だった。
入部して間もないころ、この飯倉先生から「クギサキ、お前は柔道をやるために生まれてきたようなもんじゃの、練習を続けていたらそのうち強くなるぞ、ガハハ」と言われていた。
純粋だった僕は、先生のそんな根拠のない言葉を信じてしまったのかもしれない。
(続く)
幼いころを思い出してみる(13)
2014年11月19日 (水曜日)
1973年4月。僕は湯布院町立湯布院中学校に入学した。
当時の中学校の校舎には新校舎と旧校舎の二棟があったのだが、1年生の校舎は旧校舎。もう信じられないくらいオンボロの木造校舎で、歩くとギシギシ鳴って床が抜けるんじゃないかと思うような古さだった。
前回書いたように、僕は入学式の翌日には柔道部の門を叩いた。
柔道部はなぜだかすごい人気。たしか一年生の新入部員は10人以上いたのではないだろうか。「柔道一直線」に影響を受けていたのは僕だけではなかったのだ。
柔道部の写真だけアップして、詳しい話はまた明日(以降)、書くことにしよう。
幼いころを思い出してみる(12)
2014年11月18日 (火曜日)
小学生時代の、忘れられない出来事をひとつ書き忘れていた。
カラーテレビが初めて我が家にやってきた日のことである。
忘れもしない。1970年12月31日の出来事だ。
大晦日である。小学4年生だった僕は、ウキウキドキドキしていた。
何にウキウキドキドキしていたかというと、その日の夜の「レコード大賞」と「紅白歌合戦」に対してである。
僕はテレビっ子で歌謡曲が大好きだったのだ。
夕方になった。
年の瀬の街の様子を伝えるニュースが我が家の白黒テレビから流れていた。
プツっ。
という音がしたかどうかは定かではないが、突然画面が真っ黒になった。
バンバンバンと叩いても、ガンガンガンと蹴飛ばしても、テレビはうんともすんとも云わない。
それまでも真空管が切れてテレビが映らなくなることは何度もあった。そのたびに町の電気屋さんを呼んで修理してもらっていた。
もちろんこの日も、町の電気屋さんに来てもらった。
電気屋さんは、テレビを横に倒し、裏側のパネルを取り外して分解し、いろいろと調べている。
僕も母も兄も、病気になったペットを見守るかのように、その修理の状況をじっと見ている。
そうこうするうちに、大晦日の仕事を終えた父親も家に帰ってきた。
電気屋さんが、「うーん、こりゃあちょっと今夜中に直りそうもねえで。どげえしょうか?」と、絶望的なことを言う。
一瞬、気まずい沈黙の時間が流れた。
が、次の瞬間の父親の言葉。
「しょんなかね。新しかテレビば買おうか。せっかくならカラーテレビにしようかね」
我々は一転、天にも上るような気持ちになった。
まさか、貧乏な我が家にカラーテレビがやってくるなんて……。
僕は喜びを噛みしめていた。
万博に連れて行ってもらえず悔しくて大泣きした1970年だったのだが、急転直下、嬉し泣きするような出来事で終えられることになったのだ。
町の電気屋さんは、いそいそとカラーテレビを車に積んで再度やってきた。
とてつもなく大きく感じた。たしか18インチかそこらのブラウン管のサイズなのだが、当時のテレビの筐体はその何倍もの大きさだったのだ。
すでに夜8時を回っていた。レコード大賞はクライマックスのシーンを迎えていた。
この年のレコード大賞は、菅原洋一の「今日でお別れ」。
まさに、それまでのオンボロ白黒テレビとお別れした日となったわけだ(笑)。
「我が家も文化的な暮らしのでくるようになったねえ……」と、紅白歌合戦を観ながらしみじみと、しかし少し誇らしげに語っていた父親の姿を今でもよく覚えている。
(次回はホントに中学時代ね)
幼いころを思い出してみる(11)
2014年11月17日 (月曜日)
さて、そろそろ小学校を卒業して中学校に入学してみようかと思う。
僕が通っていた小学校は、由布院小学校。そして中学校は、湯布院中学校。
お気づきだろうか。「ゆふいん」の「ゆ」の字が違う。小学校は「由」で、中学校は「湯」なのだ。
湯布院町は、昔は「由布院町」だったのだが、その後「湯平村」と合併したことで、「湯布院町」となった。
小学校には旧由布院町の子供たちが通い、中学校には旧由布院町に加え旧湯平村の子供たちが通うことから、「湯布院中学校」の字を使うようになった(と解釈している)。
1973年4月。
僕は、ピカピカの黒い制服を着て中学校の入学式に臨んだ。
そして頭は、坊主頭。
中学校の校則で、男子生徒は必ず坊主頭にしなければならなかった。
小学校卒業直前、ものすごく恥ずかしかったのだが、床屋に行って丸刈りにしてもらった。
このころの写真を探してみたのだが見つからなかった。相当に初々しい顔をしていたのではないかと思うのだが、残念。
中学入学後、僕はすぐに柔道部に入部した。
中学に入ったら柔道部に入ろうと、小学生のころから決めていた。「柔道一直線」というTVドラマの影響を強く受けていたのだ。
可愛い奴だ。
(このシリーズ、12月初旬まで続けますね)
岡山を走った朝
2014年11月14日 (金曜日)
幼いころの思い出話は本日お休み。
昨夜から岡山に来ている。2年ぶりだ。
で、今朝、岡山の街を走った。岡山城、そして日本三大名園の一つである後楽園の付近をウロチョロ。
一緒にいるのは、なぜか、ウルトラインターンシップ100×10チャレンジの熊澤コーチ。
このあと、ちょこっと倉敷の美観地区を散策して会議に臨む。ではでは、そんなわけで行ってきます!
幼いころを思い出してみる(10)
2014年11月13日 (木曜日)
小学4年生頃から僕はえらく太り始めた。原因はわかっている。
それは、たこ焼き。
小学校のすぐそばに、たこ焼き屋さんがあった。カウンターだけの小さなお店で子供が10人も座れば満員になる。
僕の母親と同い年くらいのおばちゃんがひとりで経営していた。
初めてこの店に行ったのは小学3年生のころだった。当時中学生だった兄に連れて行ってもらったように記憶している。
生まれて初めて食べたとき、その美味しさに感動しまくった。
こんなおいしい食べ物が世の中にあるんだ。
以来僕は、たこ焼きに夢中になっていった。
たこ焼きの値段は、3個で10円。当時、僕のお小遣いは1日10円。全財産をつぎ込んで、来る日も来る日も、学校が終わると毎日、たこ焼きを食べに行っていた。なんとエンゲル係数100%である。
そりゃー、太りますわね(笑)。
中学を卒業し、湯布院を離れてからも、たこ焼きを食べることはたまにあった。今でもたまに、たこ焼きチェーン店のたこ焼きを食べることがある。
しかし、あのころの湯布院のたこ焼きを上回るたこ焼きとは、いまだ出会ったことがない。
ああ、あのころのたこ焼きを、もう一度食べてみたい(´・_・`)。
幼いころを思い出してみる(9)
2014年11月12日 (水曜日)
僕が小学校5,6年生だったころ(1971年~1972年)は、「アイドル」と呼ばれる芸能人たちが登場し、市民権を得始めた時代でもある。
天地真理、小柳ルミ子、南沙織、麻丘めぐみ、アグネスチャンなどは、毎日のようにテレビ番組に登場していた。
僕はとくに天地真理の大ファンで、小学館の学童誌に掲載されていた写真を切り抜いては下敷きなどに挟んでいた。「時間ですよ」というTBSのテレビドラマで、白いギターを抱えて歌う真理ちゃんの姿に胸をキュンキュン、ドキドキさせたものだ。
一方で、クラスの中にも好きな女の子が2名ほどおり、妄想を膨らませていたころでもある。
文房具屋で便箋と封筒を買ってきて、「ラブレター」にチャレンジしたことも何回かある。結局、出すことはできなかったのだが、一晩かけて作り上げた情熱的な大作。とっておけばよかったなと思う。
「仮面ライダー」に嵌っていたのも、このころ。
前回、湯布院の街中を自転車で乗り回していたことを書いたが、あたかも自分が本郷猛や一文字隼人になったつもりで、5段変速の自転車をサイクロン号にみたてて、坂道をぶんぶん飛ばしていたのだった。
なんて純情無垢で可愛いらしい小学生だったことか(笑)。