パフ代表の徒然ブログ「釘さん日記」

僕の父親の職業は流しの板前。まさに「包丁一本」で、いろんな温泉旅館を渡り歩いていた。僕ら家族がそれまで暮らしていた八代市日奈久から人吉市に引っ越したのも、父親がそれまでの日奈久温泉の旅館から人吉温泉の旅館に仕事場を移したことによる。

人吉市で暮らしていた家は、それまでの日奈久の家に比べると、いくぶん広かった記憶がある。寝る場所と食事をする場所は別々だったし、なにより「すごい!」と思ったのは、それまでの共同便所から家の中に我が家専用の便所があったことだ。

ひとりで便所に行くことができなかった僕にとって、この専用便所は革命のようなものだった。都度、僕を便所まで連れて行かなければならなかった母親も、おかげでずいぶんと救われたことと思う。

僕がひとりで便所に行けるようになったからかどうかは分からないが、母親はこのころから勤めに出るようになった。生命保険会社の外交員だったと記憶している。生保会社の社名と母の名が刷り込まれた名刺が、なぜか脳裏に焼き付いている。

通っていた幼稚園は、人吉市の青井幼稚園というところ。国宝にも指定されている青井神社の境内にある。自宅のあった人吉温泉街からはかなり遠く、毎日バスで通っていた。母親が働き始めていたこともあり、幼稚園が終わって家に帰っても誰もいない。小学校5年生だった兄が帰ってくるまで僕は一人ぼっちだった。そんなこともあり、ひとりでマンガ週刊誌を貪るように何回も何回も読んでいた。

現在の青井幼稚園。6年前、熊本出張した折に立ち寄ったときに撮影

現在の青井幼稚園。6年前、熊本出張した折に立ち寄った

このころ我が家では、週刊少年マガジンを定期購読していた。毎週、本屋のおじさんが自転車で配達してくれていた。発売日になると、家でそわそわしながら自転車の到着を待っていたことをよく覚えている。このころの僕にとっての一番の友達は少年マガジンだったのだ。僕は小学校に入学する頃には、ひらがなはもちろんのこと、カタカナや(ある程度の)漢字が読めるようになっていたのだが、すべて少年マガジンのおかげだと思っている。

この人吉市で暮らしたのは、僕の幼稚園入園時の1966年春から1966年秋までの半年ちょっと。「ウルトラQ」「ウルトラマン」「オバケのQ太郎」といった歴史に残る名作がテレビ放映されていた時期とも重なっている。ビートルズが来日したのもこの頃だ。高度成長の波に乗った古き良き時代だったのだろう。

(続く。次はたぶん来週の月曜日かな?)

ふと、自分の幼いころから少年時代(15歳くらいまで)の思い出を綴ってみたくなった。本日からしばらくのあいだ、全国数十人の読者のみなさん、どうかお付き合いください。

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僕は1960年(昭和35年)11月30日生まれ。僕が生まれたとき父親は31歳、母親は37歳だった。

母親は当時としては珍しい6歳も年上の姉さん女房。そして僕は遅めの子供だったようだ(いまは37歳で子供を産むのは珍しいことではないが)。

熊本県の片田舎にある母親の実家(当時、旅館を営んでいた)で、僕ら家族は、母親の父と母(つまり僕の祖父と祖母)と、母親の兄の家族(僕にとっての叔父と叔母と従兄姉たち)と一緒に暮らしていた。

この母親の実家で暮らしていたのは僕が3歳くらいの頃まで。当然、僕にはそのころの記憶はない。

しかし、中学生になるくらいまでは、この実家にしばしば遊びに行っていたので、いまだに僕にとっては懐かしい思い出の地である。赤ちゃんだった僕を、毎日のようにおぶってあやしてくれたという従兄や従姉は、(もう何年もお会いしていないが)いまだに僕にとっては実の兄や姉のような存在である。

ところで、僕を37歳で生んでくれた母親。大正12年(1923年)11月24日生まれなのだが、実は僕はその本当の年齢をずっと知らなかった。というか、当の母親にサバ読んで教えられていた。

昔の戸籍というのは、けっこういい加減で、戸籍謄本に記載されていた母親の生まれ年は、なぜか昭和3年(1928年)。実年齢よりも5歳も若く記載されていた。

当の本人もそれをいいことに、ずっとその年齢を自分の年齢だと偽っていた。なんと、実の息子である僕にさえも、自分は昭和3年生まれであると(ほんとは大正生まれのくせに!)嘘をついていたのだ。見栄っ張りなのか何なのか。それを知った時の僕(もう20歳くらいだったけど)は、「は…?、まじ…?、アイドルじゃあるまいし…、ったくもう、もっと早く言えよ!!」と、憤りを通り越して、あきれてしまったものだ(+o+)。

 

それはさておき、僕の幼少の頃。

記憶に残っているのは、4歳くらいからだ。時は1964年。そう、東京オリンピックの年だ。

僕ら家族は、それまで住んでいた母親の実家から、父親の実家のすぐそばにある熊本県八代市日奈久のオンボロ借家に引っ越していた。

僕の家族は、父と母、そして5歳年上の兄と僕の4人家族だった。

この家族4人は、6畳一間+土間の小さなオンボロ借家(専用の便所も風呂もない)に肩寄せあって暮らしていた。その頃のことは、なぜかよく覚えている。押入れの襖に、マジックでさんざん落書きをしていたのだが、不思議と怒られなかった。つまり、何をやっても構わないほどのオンボロ借家だったのだろう(笑)。

このころの僕は、とてつもなく泣き虫だった。なにか気に食わないことがあると、いつも泣き叫んでいた。いま考えると、4歳のころから反抗期が始まっていたのかもしれない。

しかし、そんな泣き虫で反抗的だった僕も、5歳になると幼稚園に通わせてもらえることになった。初めての集団生活に緊張していた僕は、母親の後ろに隠れながら登園した入園式の日のことをよく覚えている。

(明日以降に続く)

 

なな子のヒモ生活

2014年10月22日 (水曜日)

一昨日の昼食は午後4時で、夕食は午後10時。昨日の昼食は午後3時で、夕食は午前零時。そしてお茶と味噌汁代わりに飲んだのが、芋焼酎と缶ビール。

うむ、どう考えても健康的とは言えないが、連日、来客や打ち合わせや会議が詰まっており、通常の時間に食事が出来なかった。

そんなとき、僕の強い味方になってくれたのがコレ。

nanako

 

 

 

 

 

 

 

 

会社から徒歩1分。夜遅く自宅に帰るときにも、地下鉄出口のすぐ傍に、なな子の家はある。

どんなに中途半端な時間でも、サラダやお弁当、おにぎり、パン、ビールを常備してくれている。そして上のカードを見せるだけで、好みの食事を振る舞ってくれる。

財布にお金が入ってなくても大丈夫。滞在時間は数分なのに、文句を言われるどころか「いつもありがとうございます♪」と気丈な笑顔を見せてくれる。なんて良い子なんだろう。

とはいえ、2日で4食をなな子に頼るのは、さすがに不健康な気がしてきた。毎食、意識的にサラダを中心に食してはいるのだが、なな子に食べさせてもらっているというヒモ感は拭えない。

今日こそはまともな時間に、普通の食事をしたいと思うのだが、予定表をみると今日も難しそう……。

せめて今夜は帰り道になな子の家ではなく、親友の「吉野君の家」にお邪魔して食べさせてもらうことにしよう(´・_・`)。

と、くだらないことを書いたところで、朝食だけは正妻宅でまともに食べてから行ってきます!

 

 

日記ネタが乏しい日

2014年10月21日 (火曜日)

さて、困った。本日は日記ネタがないぞ。

昨日は、

8時~8時45分 営業進捗チェック会議

8時45分~9時 朝礼

9時~11時 デスクワーク

11時~15時 会議4種ぶっつづけ

15時~17時半 デスクワーク&昼食

17時半~19時 中途採用の面接

19時~19時半 セミナールームに移動

19時半~20時半 職サークルアカデミー(プロ出前講座見学)

20時半~21時半 打ち合わせ

という一日。

イライラしたり、モヤモヤしたり、クスクスしたり、ザワザワしたりはしたが、日記に残そうと思えるようなネタはなかった。

ということで、本日は執筆断念。まあ、こんな日もあるさ(´・_・‘)。

では、朝食後、マッサン抜きで行ってきます!

マッサンをまとめて観た

2014年10月20日 (月曜日)

朝のNHK連ドラは、ここ数年の僕の毎朝の楽しみ。『梅ちゃん先生』、『あまちゃん』、『花子とアン』は、毎朝欠かさず観ていた(『ごちそうさん』は“あまロス”の影響で後半しか観ていないのだが…)。

そして、9月29日(月)から始まった『マッサン』。予告編を見ていた時から楽しみにしていた。

しかし、放送開始から3週間経つというのに、僕はほとんど観ることができていない。

9月末より毎朝、早朝ミーティングを行っているからだ。

お恥ずかしい話だが、一部の社員たちの営業状況が芳しくなく(加えて、厳しさに欠けたヌルい状態だったので)短気な僕は我慢できず、「しばらくのあいだ俺が進捗を厳しくチェックするので明日から毎朝8時に集合!」と、号令を発してしまったのだ。

「あ、やっぱ連ドラがあるから、早朝はやめとこかね…」などと、いまさら言い直すこともできず(^_^;)。

一応毎日、録画予約はしているのだが、このところ帰りも遅くて、風呂に入ったらバタンキューの毎日。週末も九州への帰省などでほとんど時間がとれず、2話までしか観ることができていなかった。

ということで昨日は意を決して(そんな大袈裟なことでもないがw)、3週間分の『マッサン』をまとめて観た。

いやあ、なかなか面白いではないか。

史実をもとにしたフィクションらしいが、主人公のマッサン(ニッカウィスキー創業者)と堤真一演ずるサントリー創業者との掛け合いが実に楽しい。

そして、このドラマを観ていると、ついついウィスキーが飲みたくなる。

僕のような、ドラマに影響を受けやすい奴は世の中に多いと思うので、今年の下半期はウィスキーの売り上げがぐんと伸びるのではないだろうか。事実、昨夜は久々に、ウィスキーをロックで2杯飲んでしまったし(#^.^#)。

ということで、今年の秋・冬は『マッサン』に注目だな。

早朝会議が続く限りは、リアルタイムで観られないのが悲しいが……。

では、今朝もマッサン抜きで、行ってきます!

やめときゃよかった…

2014年10月17日 (金曜日)

「自分の選択を正解にする。」

これはぼくのモットーである。就職や結婚など、人生においては大きな選択をしなければならない瞬間がいくつか訪れる。しかし、その選択そのものには正解も不正解もない。その後の自分の行動次第で、その選択が正解にも不正解にもなるからだ。

 

とはいえ、昨夜の自分の選択は明らかに不正解(失敗)だった。もはや正解にすることはできない(T_T)。

深夜、ついふらふらとラーメン屋に入ってしまったのだ……。

別におなかが減っていたわけではない。ほんの30分前まで焼き肉を食べながら打ち合わせをしていたので、むしろ満たされていた。

が、〆のライスや麺を食べていなかったので、炭水化物をカラダ求めていたのかもしれない。

と、言い訳はどうでもよい。

現実にあるのは、胃がもたれて気持ちが悪いという「今」だけなのだ。

あーあ、やめときゃよかった(+o+)。

20141016men

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、本日は学生との面談、中途採用のための面談が入り乱れている。夜はイベント(くだんTalk Night)のファシリテーターも務めなければならない。胃のもたれを早めに回復させなきゃね。

では、胃もたれ解消のためにピッチを上げたウォーキングで行ってきます!

 

とても低姿勢なお客様

2014年10月16日 (木曜日)

昨日は、今年から本格的なお取引が始まった某社の採用部門の皆様との定例ミーティングの日。

いつもは先方の採用部門の方々と、パフのコンサルティング担当者たちだけが行うミーティングなのだが、昨日は先方の採用部門の責任者だけでなく、戦略人事部門のトップ(役員)と教育部門の責任者も同席されるとのことだったので、僕も最初から最後まで(ランチも含めると5時間近く)同席させていただくことにした。

毎度のことだが、この会社の皆様方の腰の低さには本当に感心させられる。というより、それを通り越して感動させられる。採用部門の方々だけでなく、人事部門トップも教育責任者も、みなさんともに驚くほどに低姿勢なのだ。

お客様は仕事を発注する側で我々は仕事を受注する側。本来的には対等であるべきはずの関係なのだが、現実のビジネス社会では、なかなかそうはいかない。

やはりお金を出す発注側のほうが優越的な立場にあり、ともすれば(そんなつもりはなくても)横柄な態度に陥りがち。そして受注する側は、へりくだりすぎて、ともすれば卑屈になってしまうこともある。

でも、昨日の某社にはそんな態度が微塵も感じられない。表面的な態度ではなく、心の底からの謙虚さや我々に対する感謝の気持ちが滲み出ている。

ずいぶんと年下であるパフの担当者に対して、「本当にいつもありがとうございます。面倒なことばっかりお願いして本当にすみません」と、役員が先頭を切って頭を下げてくださる。

そのことを意気に感じた我々は、より受注した仕事を頑張ることになる。効率の名のもとに、手を抜くなんてことはあり得ない。結果としてお客様は、発注した金額以上の価値ある成果物を受け取ることになる(だろう)。理想的な、発注側と受注側の関係だ。

いろんなビジネスの形はあると思うのだけれど、昨日のようなお客様との関係を持てる仕事を、もっともっと増やしていけたらと思う。

さて、本格的な秋。ではそろそろお仕事をしに行ってきます!