パフ代表の徒然ブログ「釘さん日記」

岡山を走った朝

2014年11月14日 (金曜日)

幼いころの思い出話は本日お休み。

昨夜から岡山に来ている。2年ぶりだ。

で、今朝、岡山の街を走った。岡山城、そして日本三大名園の一つである後楽園の付近をウロチョロ。

一緒にいるのは、なぜか、ウルトラインターンシップ100×10チャレンジの熊澤コーチ。

このあと、ちょこっと倉敷の美観地区を散策して会議に臨む。ではでは、そんなわけで行ってきます!

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小学4年生頃から僕はえらく太り始めた。原因はわかっている。

それは、たこ焼き。

小学校のすぐそばに、たこ焼き屋さんがあった。カウンターだけの小さなお店で子供が10人も座れば満員になる。

僕の母親と同い年くらいのおばちゃんがひとりで経営していた。

初めてこの店に行ったのは小学3年生のころだった。当時中学生だった兄に連れて行ってもらったように記憶している。

生まれて初めて食べたとき、その美味しさに感動しまくった。

こんなおいしい食べ物が世の中にあるんだ。

以来僕は、たこ焼きに夢中になっていった。

たこ焼きの値段は、3個で10円。当時、僕のお小遣いは1日10円。全財産をつぎ込んで、来る日も来る日も、学校が終わると毎日、たこ焼きを食べに行っていた。なんとエンゲル係数100%である。

そりゃー、太りますわね(笑)。

中学を卒業し、湯布院を離れてからも、たこ焼きを食べることはたまにあった。今でもたまに、たこ焼きチェーン店のたこ焼きを食べることがある。

しかし、あのころの湯布院のたこ焼きを上回るたこ焼きとは、いまだ出会ったことがない。

ああ、あのころのたこ焼きを、もう一度食べてみたい(´・_・`)。

たこ焼きの食べすぎで丸々太っていた小学4年生のころの写真

たこ焼きの食べすぎで丸々太っていた小学4年生のころの写真

僕が小学校5,6年生だったころ(1971年~1972年)は、「アイドル」と呼ばれる芸能人たちが登場し、市民権を得始めた時代でもある。

天地真理、小柳ルミ子、南沙織、麻丘めぐみ、アグネスチャンなどは、毎日のようにテレビ番組に登場していた。

僕はとくに天地真理の大ファンで、小学館の学童誌に掲載されていた写真を切り抜いては下敷きなどに挟んでいた。「時間ですよ」というTBSのテレビドラマで、白いギターを抱えて歌う真理ちゃんの姿に胸をキュンキュン、ドキドキさせたものだ。

一方で、クラスの中にも好きな女の子が2名ほどおり、妄想を膨らませていたころでもある。

文房具屋で便箋と封筒を買ってきて、「ラブレター」にチャレンジしたことも何回かある。結局、出すことはできなかったのだが、一晩かけて作り上げた情熱的な大作。とっておけばよかったなと思う。

「仮面ライダー」に嵌っていたのも、このころ。

前回、湯布院の街中を自転車で乗り回していたことを書いたが、あたかも自分が本郷猛や一文字隼人になったつもりで、5段変速の自転車をサイクロン号にみたてて、坂道をぶんぶん飛ばしていたのだった。

なんて純情無垢で可愛いらしい小学生だったことか(笑)。

 

結局、僕が買ってもらった自転車は5段変速のスポーツ車ではなく、24インチのお子ちゃま自転車だった。

値札を見てビビッてしまったこともあるのだが、それよりなにより僕はこの日まで自転車に乗った経験がなく、せっかく高い自転車を買ってもらっても自由に乗り回すことなんてできないのではなかろうか、という不安があったからだ。

さらに5段変速の自転車のタイヤサイズは26インチ。当時の僕の背の高さでは、サドルを一番下げたとしても足が地面に届かなかった。自転車屋のご主人にも、「まずは24インチのほうが練習するのにいいんやねーかい?」というアドバイスをもらったのも大きかった。

まあ、何はともあれ生まれて初めての自転車。飛び上がるほどに嬉しかった。買ってもらったのは青い色の、「つつんつつのだ、つつんつつのだ、つんつんつのだのTU号」だった。いまでもその姿かたちはよく覚えている。後輪の泥除けには、僕の自宅の住所と僕の名前がきっちりと書かれていた。自分だけの自転車。まさに愛車を持つことができたのだ。

しかし、その翌日から、辛く厳しい日々が僕を待ち受けていた。

自転車に乗れないのだ。いや、乗り方がわからないのだ。1メートルも進まないうちに自転車は倒れてしまう。

近くの空き地で練習していたのだが、あまりに恥ずかしいので(春休みで閑散としていた)小学校の校庭まで自転車を押していき、ひとりで練習することにした。

2日経っても3日経っても、まったく進歩なし。自分の運動神経のなさに、ほとほと愛想が尽きた。

「おい、クギサキ、よーがんばっちょるの」

後ろを振り返ると、若杉先生がいた。

若杉先生は小学校4年生のときのクラス担任。低学年のころと違い、すっかりお調子者になっていた僕は、先生からいつも怒られていた。つい数日前に終業式を終えたばかりだったのだが、先生に声をかけられて、なんだかとても懐かしく感じた。

「先生、春休みなのに何しよんの?」

「おまえらは春休みかもしれんけど、教師は学校に来んといけんのじゃ。それにしてもおまえ、自転車に乗りきらんかったんやのう。しょうがねーやっちゃの。ほら、先生が押しちゃるけん前向いて漕いでみい!」

先生はそういって、自転車を後ろから押してくれた。

ずっでーん!と、何回も何回も転んだのだが、そのうちなんとなくバランスが取れるようになってきた。若杉先生は一時間以上、僕の自転車の練習に付き合ってくれた。

「よし、あとはおまえひとりでがんばれ。これがおまえに最後にしちゃれることやったかもしれんの。じゃ、元気での!」。先生はそういって、校門から消えていった。

若杉先生とはこの日以来、会うことはなかった。4月の新学期から他の小学校に異動になったのだ。そんなこと、このときには思ってもいなかったのだが、先生は由布院小学校を去ることをすでに知っていたのだろう。

ともあれ、僕は急速に自転車に乗れるようになっていった。

以来、僕はいつも自転車を乗り回していた。まるで背中に羽が生えたように、湯布院の街を北から南、西から東へと、毎日のように自由に漕ぎまわっていた。

ちょうど成長期でもあり、24インチの自転車がみるみる小さくなっていった。

そして僕が6年生に進級するころ、父親が突然、5段変速の26インチの自転車を買ってくれた。どうしたことだろう。パチンコや麻雀で大勝ちしたのだろうか。24インチの自転車を買ってもらったとき以上に嬉しかった。24インチの自転車が子供向けだとすれば、26インチの5段変速は大人向けの自転車。

思春期を迎えていた僕は、この5段変速の自転車のおかげで、大人の仲間入りができた気分になっていた。そして、女の子のことが気になって気になって仕方のない日々を過ごすようになる。

ちなみに5段変速の自転車は、小学校6年生から高校を卒業するまでの7年間、僕の青春をともに過ごした同志なのである。

5段変速の自転車を買ってもらったころ。最後列の真ん中にいる黒いセーターが僕。かなり体格がよかった。

5段変速の自転車を買ってもらったころ。最後列の真ん中にいる黒いセーターが僕。かなり体格がよかった。

 

 

 

 

小学5年生に進級する春休み直前の頃だった。僕の両親は、なんと僕に自転車を買い与えてくれた。

たしか小学3年生の頃いちどだけ母親に、「自転車が欲しい」と訴えかけたことがあった。そのときは「そげんもん買うてどげんすっと! あんたには何のために足があっとね!!」と理不尽に叱られて、それっきりだった。

しかし、どうしたことか、ある日突然「キヨヒデさん、あんた自転車が欲しかって言いよったね。買うてやろか」と、母親から持ちかけられた。欲しいと訴えてから2年以上の月日が経っていた。小学生には10年以上の歳月が流れていたのと同じくらいの感覚だった。

大阪万博に行かせてあげられなかったことを申し訳なく思ったのだろうか……。

まあ、そんなことはどうでもよい。

突然、自転車を買ってもらえることになった僕は、天にも昇るような気持ちだった。

3月の終業式の日だった。学校は午前中に終わり、お昼過ぎ、勤め先の旅館から抜け出してきた父親と小学校のそばにある自転車屋で待ちあわせた。

店内には、ピッカピカに光った自転車がズラーッと並んでいた。

僕はブリジストンの、かっこいい5段変速の自転車が欲しかったのが、値札を見てびっくり。「これは無理だろうな…」と思った。

父親が店にやってきた。

「どれにするね?」と、優しく尋ねてくれた。

我が家の経済状況を十分すぎるくらい理解していた僕は、「五段変速の自転車が欲しい」なんて、とても言えなかった。

(ゆったりと続く)

 

先々週の木曜日からふと思い立って書き始めたこのシリーズ。小学生時代の思い出をいくつか書いたところで終わりにしようかと思っていたら、昨夜、中学時代の悪友から、「ここまで来たら俺のことを登場させろ!」という投稿がFacebook経由であった。

しょうがない。もう少しだけ書き続けることにしよう(´・_・`)。

1969年7月。

僕ら世代にとっては忘れられない出来事があった。

そう、アポロ11号だ。人類が初めて月面に降り立ったのだ。

興奮しながらテレビにかじりついていた。「月にウサギはいるのだろうか…」と、本気で考えていた。なんて純粋でかわいい子供だったのだろう(笑)。

その翌年の1970年。

これまた僕ら世代にとって忘れることのできない大きなイベントが開催された。

大阪万国博覧会だ。

アポロ11号が持って帰ってきた「月の石」がアメリカ館に展示されており、大きな話題を集めていた。

大阪万博には輝ける未来があった。ドキドキわくわくの世界があった。新聞、雑誌、テレビ、ラジオでは、連日のように万博の賑わいを伝えていた。

行きたくて行きたくて仕方なかった。

兄は、中学校の修学旅行で万博に行けることになった。

うらやましくてうらやましくて仕方なかった。

ある日、「一学期の成績が良かったら連れて行ってやる」と、母親から言われたことがある。

勉強は嫌いだったが、一学期の通知表はそこそこ良かった。

しかし、一向に連れて行ってもらえる気配もないままに、夏休みが終わろうとしていた。

意を決して母親に聞いてみた。

「あ、あのー、万博にはいつ行けるとね?」

「あんた、なんばふざけたこつ言いよるとね。万博やら行けるわけなかろがね。どこにそぎゃんお金があっとね?」

ショックだった。

カラーテレビはおろか、冷蔵庫も洗濯機も、電話すらなかった貧乏な我が家である。大阪万博に連れて行ってもらう経済的余裕など、考えてみたらどこにもなかったのだ。

期待した自分が馬鹿だった。

悔しくて悔しくて、こっそり一人で泣いたことを今でもよく覚えている。

 

(ちょっと一休みしようかな。続く)

人吉市(熊本)から湯布院町(大分)に引っ越したのは僕が6歳になる直前。1966年11月下旬だったと記憶している。

湯布院は、それまでの人吉とは比べ物にならないくらい寒かった。人吉はまだ秋だったのに、湯布院はすっかり冬。それまで見たことのなかった雪が舞っていたことを覚えている。

湯布院の象徴、由布岳。冬になると頂上は雪で白くなり、その美しさを増す。

湯布院の象徴、由布岳。冬になると頂上は雪で白くなり、その美しさを増す。

 

 

僕はまだこのとき幼稚園児だったわけだが、湯布院の幼稚園に通うことはなかった。単純に経済的な問題からだろう。朝から晩まで家の中に閉じこもっていた。昼間の話し相手といえば母親だけ。だから小学校に入学するまで、僕には友達が誰もいなかった。

だからだろうか。僕は小学校に入っても引っ込み思案で、いっしょに遊べる友達がいなかった。大分の方言がうまく喋れなかったことも大きい。熊本の言葉と大分の言葉では、イントネーションも含めて全然ちがう。まるで別の国の言葉のように感じたものだ。

家の中では、父も母も兄もみんな熊本弁を喋るものだから、大分弁習得にはかなりの時間を要した。この言葉の壁は存外に大きく、幼心に劣等感を抱いていたものだ。

授業参観や運動会などで母親が学校にやって来るときは特に憂鬱だった。母親は熊本弁で、あたり構わず大きな声で僕に喋りかけてくるからだ。周囲のお母さんたちとも熊本弁で喋りまくる。もう恥ずかしくて恥ずかしくて、その場を逃げ出したくなったものだ。

そんな僕なのだが、小学校2年生にあがるころには、どうにかこうにか大分弁を喋れるようになっていた。友達も少しずつだが増えてきた。

「巨人の星」のテレビ放映が始まり、メキシコオリンピックが開催され、グループサウンズ(沢田研二のザ・タイガース、萩原健一のザ・テンプターズなど)が大流行したのもこの頃だった。

そういえばこの頃、超狭かったそれまでの長屋から、ほんの少し大きめ(といっても6畳二間+四畳半のお茶の間+三畳の納戸)の家に引っ越していた。風呂(しかも温泉)が家にあったことが何より嬉しかった。

そしてこの家には畑もあった。

母親は、この畑を耕しては、大根、ネギ、茄子、トマト、キュウリ、トウモロコシなどを育てていた。僕もよく畑の草むしりを手伝っていた。採れたての熟れたトマトや、不格好で馬鹿でかいキュウリがやたらと美味しかった。そういえば夏のおやつは、いつもトウモロコシだった。売るほどたくさん実っていた。よくもあんなにたくさん育てられたものだと、今思い出してみても感心する。

(次回あたりで最終回にしようかな)