パフ代表の徒然ブログ「釘さん日記」

宴席シーズンたけなわである

2014年2月25日 (火曜日)

僕の予定はいつも夜から先に埋まってしまう。

今週から再来週にかけては特にぎっしりだ。忘年会&新年会シーズンよりも詰まっており、1日の隙間もなくなってしまった。

単なる宴会の日もあれば大事な打ち合わせを兼ねた会食の日もある。出張先での宴席もある。新しい出会いも予定されている。

「歴史は夜つくられる」というコトバもある。楽しみつつも気は抜けない。そして胃腸薬も欠かせない(苦笑)。

あ、しかも来週末は名古屋シティマラソンだった。宴席スケジュールの中にみごと埋もれてしまっている。このところまったく走り込んでいないのだけれど大丈夫かな(;’∀’)。

ともかくも、これからの繁忙期。風邪菌やウィルスに邪魔されないように体調管理をしっかりとやっていこう。調子に乗って二次会などには決して行かない(きっぱり)。特に日帰り出張先での宴席は要注意。帰りの新幹線に乗り遅れたりしたら悲劇だもんね。

さて、しょうもないことを書きならべたところで本日の日記はおしまい。

では、ちょっと一仕事済ませてから行ってきます!

 

昨日は日曜日であるにもかかわらず、ほとんどの社員が朝から休日出勤。

場所は御茶ノ水のキャリぷら東京

何をやっていたかというと、パフ自身の新卒採用のための会社説明会を開催していたのだ。

社員だけでなく、古くからの株主様や、お客様(企業人事も大学職員も)や、パートナー(クリエイターなど)や、なんと過去パフを辞めていった元社員たちも大勢ゲストとして参加してくれた。

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社員のFacebookへの投稿から無断借用

 

しかも司会を務めてくれたのはポンちゃん(本田勝裕さん)

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これも社員のFacebookから

 

なんて贅沢な説明会なんだろう。

13時から始まって15時半までが第一部。

そのあと希望者は誰でも参加できる(飲みながら食べながらの)懇親会が第二部。これが17時まで。

「会社説明会」としての時間はここまでだったのだが、さらにその後もイベントは続く。先月末でパフを退職したオオノの卒業式だ。これが20時近くまで。

このすべての時間を、パフの現役社員だけでなく、すべてのゲストのみなさんが付き合ってくださった。

パフ創業以来、長いあいだ図々しく周囲の方々を巻き込み続けてきた僕でさえ、「多忙なシーズン中の貴重な休みの日なのにそんなに巻き込んじゃっていいの?」と恐縮するくらいの激しい巻き込み方だった。

しかし、この巻き込み力こそがパフの強みなのかもしれない。巻き込まれている方々も、とても嬉しそうに、楽しそうに、巻き込まれてくださっていた。

(たぶん)自分が作ってきた文化だとは思うんだけど、これは冷静に考えると普通ではない。よその会社ではなかなかマネができない。いや、たぶんマネしたいとも思わないだろう(苦笑)。

昨日参加してくれた学生たち。キミたちの目にはどのように映っただろうか。

ともあれ、この普通じゃない会社のことを、もっと知りたいと思ってくれる学生諸君の応募を楽しみにしたい。みんなのチャレンジを待ってるぞ!

 さて、本日は久しぶりの茅場町。外は寒そうだけど久々の徒歩通勤で行ってきます!

休筆宣言!

2014年2月19日 (水曜日)

平日はほぼ毎日、書き続けてきたこの日記だが、しばしお休みをいただくことにした。

理由は聞かないでほしい。

長らくご愛読いただいた皆様、どうもありがとうございました。またお会いできる日を楽しみにしております。

じゃあね~(^.^)/~~~

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・なーんて、一度言ってみたかったのだ(笑)。

あ、でもお休みするのは本当のこと。

期間は今週いっぱい。

ちょっと書きたくても書けない事情ができてしまった。

全国数10 万 人の読者の皆様、明日以降は、画面右下(スクロールしてずっと下のほう)にあるアーカイブをぜひご覧いただければと(笑)。

いま見てみたら、どうやら2008年1月まで遡れるようだ。

考えてみればブログのシステムって偉大だ。

「5年前の今ごろ、俺は何を考え、何をやっていたのだろうか…」と、振り返りたいときに、簡単に過去の自分を覗きに行くことができる。まるでタイムマシンみたいだ。

2007年以前の日記も読んでみたいのだが、どこかのサーバーに冷凍保存されてしまって復元させることができない(どこのサーバーに格納されているかすらわからない)状態。たしか2001~2002年ころから書き始めたはず。これは一種の財産。なんとしてでも見つけ出さないと。

 

あ、脱線してしまった。

要するに、「今週いっぱい、釘さんは日記を書きません!」ということ。

ということで、次回は月曜日あたりに(書けるかな?)。

 

では、本日は早朝経営会議。いつもより早めに行ってきます!

大阪のホテルでソチ五輪をみる

2014年2月18日 (火曜日)

いま大阪にいる。昨夜の10時ころホテルにチェックインした。桜ノ宮にある某高級ホテルだ^^。

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ホテルから見える早朝の大阪天満橋界隈

 

僕は若いころは(というか割と最近までは)「ホテルなんて寝られればどこでもいいや」という感じで安いビジネスホテルに泊まることが多かった。

でも最近では、「どうせならゆったり、ゆっくり、ちょっとだけリッチに過ごせるところ」を選ぶようになった。

高級なホテルというのは、やっぱり快適だ。

とはいえ、そんなに高いわけではない。遅い時間にチェックインし朝早くチェックアウトするビジネスマン向けのプランがあるのだが、ふつうの宿泊プランの半額以下なのだ。

昨夜から今朝にかけて、このホテルで何をやっていたかというとオリンピック観戦。

やったね日の丸飛行隊。

ジャンプ男子団体は見事、銅メダルだった。

日の丸飛行隊といえば、1972年の札幌オリンピック。当時まだ小学校5年生だった僕なのだが、笠谷選手ら3人の表彰式のシーンは鮮明に覚えている。

それから、1998年の長野オリンピック。起業したばかりのパフの初代おんぼろ事務所で生でテレビを観ていた。原田選手の泣き顔には感動させられた。

そして今回の日本選手の銅メダル。40代の葛西選手が20代の3人の若手選手をみごと引っ張ってくれた。

うれしいね!

さて、仕事に出かけるまでの少しの時間、朝のニュースでもう少し感動に浸るとしよう。

TV

 

手抜き日記でスミマセン(笑)。では、テレビ観戦後、行ってきます!

僕がまだサラリーマンだった頃から(ということはもう20年くらい前から)ずっと通い続けている床屋さん。この日記でも5年ほど前に書いたことがある。(これですね。⇒ 床屋のマスターを紹介する日 )

CA3C0008

この床屋さんが今月末で廃業するのだという。

ショックもショック、大ショック(;´Д`)。

マスターは現在、70歳過ぎ。

でも僕がこのお店に通い始めたときは、マスターはいまの僕と同い年くらい。あのころ僕は30代半ば。まだ髪の毛もたくさんあったころだ(苦笑)。

毎月必ず1回は通っていた。

起業したばかりの頃は、髪の毛のことだけじゃなく、僕の体調のことをすごく気遣ってくれた。

頭を刈った後は、いつも必ずデザートを用意してくれる。パイナップルや柿などのフルーツを、マスターなりにひと手間かけて美味しく仕立ててくれているのだ。

そんな行きつけの床屋さんがなくなってしまう。とても寂しく悲しい。

マスターは70歳を超えたとはいえ、まだまだお元気。なぜ辞めてしまうのか。でも、理由を聞いて「それはしょうがないですねえ……」と、あきらめざるを得なかった。

昔、(以前の日記にも書いているが)こんなことをマスターに訊ねたことがあった。

「マスターは、なぜずっと床屋をやりつづけてこられたんですか?」

するとマスターは、なんの迷いもなく、こう答えた。

「そりゃあ、クギサキさん、喜んでくれるお客さんがいるからだよ。オレが働く理由なんて、それしかないよ」

まさにプロだ。プロ中のプロだ。

店仕舞は今月の27日。

会社の仕事を休んででも、宴席をドタキャンしてでも、最後にもう一回行かなきゃな。記念に五分刈りにでもしてもらおうかな……。

マスター、50年以上にわたる長い長い間のお仕事、本当にお疲れ様でした。

あと2週間を切ってしまいましたが、「喜んでくれるお客さん」のために、最後の最後までマスターらしく頑張ってくださいね!

 

さて、本日は夕方から大阪に出張だ。そろそろ準備しなきゃな。では朝食後、出張カバンをゴロゴロしながら行ってきます!

がんばれ新聞少年!

2014年2月14日 (金曜日)

昔、山田太郎という歌手がいたのだが、その代表曲が「新聞少年」。僕がまだ小学校に入学する前だったと思うから50年近く前のヒット曲だ。

 

僕のアダナを知ってるかい

朝刊太郎というんだぜ

新聞配ってもう三月

雨や嵐にゃ慣れたけど

やっぱり夜明けは眠たいなあ

 

という歌詞の唄である。

昔は家計を助けるために、新聞配達や牛乳配達をする若者たちが大勢いた。

うっかり「昔は」と書いてしまったが、もちろん今でも新聞配達をしている若者たちはいる。その貴重な労働力のおかげで日本の新聞事業は成り立っているといっても過言ではない。

新聞各社には育英奨学会(新聞奨学生)の制度がある。奨学生には学費や生活費の(ほぼ)すべてが支給される。食事や寮(または借り上げアパートなど)も用意されている。親に一切の経済的負担をかけることなく学校に通い卒業することができるのだ。

しかし、その仕事はとってもハードだ。山田太郎の唄のごとく、雨の日も嵐の日も新聞を配らなければならない。先日のような大雪の日の配達は、想像を絶する辛さだったろうと思う。

そして(月に1回程度の新聞休刊日以外は)休みがない。毎朝、夜明け前(だいたい午前3時ころ)から新聞を配り始めて、朝の7時くらいには自分が受け持っているすべての家庭に配り終えなければならない。もちろん配達は朝だけではない。だいたいの新聞は夕刊もセットになっているので、午後3時にはまた配達を行なう。夕刊が休みなのは日曜日と祝日だけ。「風邪を引いた」とか「お腹が痛い」なんていって仕事に穴を空けるわけにはいかない。そんじょそこらの甘ちゃん社会人なんかの何倍もの自己管理が必要な仕事なのだ。

昨日は、この過酷な新聞配達の仕事を大学1年生のときからずっとやり続けている就活生(大学3年生)向けの就職相談会を行なった。スポンサーは新聞社の育英奨学会だ。新聞社にとっても、彼らの就職活動が円滑に行えるような環境をいかに作っていくかということは、重要な課題なのだ。

彼らにとって悩ましいのは、企業の説明会や選考に出席するための時間がなかなか確保できないということ。配達時間にぶつからない日時で開催されている説明会や選考会にしか参加できない。あるいは応募先の人事担当者に交渉して、参加する説明会や選考会の時間を調整してもらわなければならない。融通を利かせてくれる場合もあるのだが、(特に多くの応募者が集まるような企業の場合は)「残念ながら個別の事情に合わせることは出来かねます」という冷たい対応をされることも多い。

それから、これは質問されて意外だったのだが、「新聞配達なんて企業には評価してもらえないのではないでしょうか?」という疑問や不安を彼らは抱いている。人事担当者に限らず、普通のサラリーマンには新聞配達の仕事を経験したことのある人は殆どいない。だから、この仕事の辛さや大変さなんて理解できっこないと思っているのだ。

僕はそれを聞いて、「そんなことは絶対ない。少なくとも俺はよく知ってるぞ」と答えた。1週間や2週間ならいざ知らず(卒業まで通算すると)4年間も新聞配達をやり続けるなんて、それだけで多くの企業の採用基準を(全部ではないが)クリアしている。ビジネスパーソンに必要な、忍耐力や継続性を有していることは間違いないことだ。

僕は、勤労学生に対しては人一倍思い入れがある。ぜひ、あきらめることなく有意義な就職活動をしてほしい。

今後も継続的に、彼らを集めての相談会を行なう予定だ。個別に企業を紹介することも考えている。

キミたちなら絶対大丈夫。がんばれ新聞少年!

さて、本日は早くも金曜日。なんだか雪がたくさん降ってきたようだ。(新聞配達が困らないように)あまり積もらないことを祈りながら行ってきます!

31年前のちょうど今頃。僕は22歳の大学3年生。いろんなところで書いていることだが、リクルートの神田営業所で新卒就職情報誌の広告営業を、学生の分際で(でも入社2年目の社員だと偽って)行っていた。

神田界隈の中小企業に対して来る日も来る日もドブ板営業を行なっていたのだが、「あなたのキャリアの原点は?」と問われれば、僕は間違いなく、「リクルート神田営業所で過ごした日々です」と答える。

昨日は、この神田営業所で働き始めた1983年1月下旬から3月下旬までの2か月間だけ一緒に働いたことのある当時の大学4年生から連絡をもらった。

名前をTさんという。実に31年ぶり。Facebook経由でもらったメッセージは以下のようなもの(個人名や社名の箇所など一部修正しました)。

釘崎さん こんにちは Tと申します。

釘崎さんとは、リクルート神田営業所でA職として2カ月程一緒だったんですが覚えていらっしゃいますでしょうか? 当時のA職メンバーは、●●さんと我々2人の他に●●氏(中略)などが居たと記憶しています。

私は、その後、リクルート神田営業所の客先だったS社に就職して現在に至っています。 今は、S社が全額出資した、上海にある中国現地法人、S有限公司という会社の総経理を仰せつかり、只今、上海からアクセスしています。

昨日の事、当時リクルート神田営業所の所長だったWさんが弊社にお越しになったそうです。

(中略)

弊社社長が、私宛にMAILをくれたのですが、Wさんとの会話の中で、釘崎さんのブログの事が話題になり、当時の神田営業所の事が書かれていると聞き、早速、WEBを検索して、『創業物語』を拝見し、何とか釘崎さんと連絡を取る方法はなものかと探しまくってfacebookに辿りついたという次第です。

(後略)

いやあ、びっくりしたけど、とても嬉しかった。

なんたって31年ぶりである。しかも一緒に働いた期間は2か月間だけ。

S社に就職したことは知っていたけれど、その後、互いに連絡を取り合うことはなかった。

でも、このメッセージをもらって、Tさんの顔も声も見事に思い出した。

右も左も分からない、この先どうなるかもさっぱり分からない、キャリアの第一歩を踏み出したばかりのあの頃を共に過ごした同志である。

ちなみにTさんが就職したS社というのは、当時、秋葉原にあった小さな電子部品商社。15年ほど前に株式を上場するまでになり、いまではTさんのメッセージにもあるように海外にも進出する中堅商社となっている。そしてTさんは現地法人の総経理(つまり社長)だというからスゴイことだ。

昨日は、しばしメッセージのやりとりをしていたのだが、次回帰国の際には久々に神田で飯を食べようということになった。

31年ぶりの再会。いまからとても楽しみなのだ。

仕事って、いや人生って、こんなことがたまに(しかも突然)起きるから面白い。ここからまた新しいことが生まれたりするのかも……。

 

さて、本日は(31年前の僕のように)働きながら大学に通っている大学3年生を集めた進路相談会を行なうことになっている。「苦学生」というコトバは死語になりつつあるが、どんな勤労学生たちが集まるのか楽しみにしたい。

ではそろそろ行ってきます!