パフ代表の徒然ブログ「釘さん日記」

22分50秒に感動した日

2009年12月26日 (土曜日)

昨夜(25日深夜23時59分~)、TBSで放映された小田和正の「クリスマスの約束2009」。僕は録画したものを本日観たわけだが、こりゃすごい。たまげた。感動した。

小田和正からの依頼に応じた21組(34名)のアーティストたちの息がぴったり合った熱唱。

21組のアーティストたちの代表曲を、小田和正がアレンジして、22分50秒のメドレー作品としてつくり上げた。楽譜は13枚にも及んだらしい。

数か月にわたる企画と議論と練習。そのドキュメントも放送されていたのだが、楽しさだけではなく、苦悩、重苦しさ、息苦しさを感じさせるものだった。テレビ局の制作者との打ち合わせなどは、見ていられないほどだった。

21組のアーティストの顔ぶれがまたすごかった。まさに老若男女入り乱れ。上は小田和正の62歳。下はたぶん20代前半。親子以上の年の開きのあるアーティストたちだ。

僕がよく知っているアーティストは、小田和正のほかには、財津和夫(チューリップ)、山本潤子(赤い鳥)などの、1970年代に活躍した人たち。でも多くは21世紀に入って活躍している比較的若手の面々。とはいえ、小田和正が依頼するだけあって、いずれもすばらしい唄声を有したアーティストたちだった。

なにがすごいって、唄や編曲ももちろんすごいのだが、彼らのプロ魂と、見事なチームワークと、練習時の真剣な姿と、本番のときの楽しく歌う姿と、歌い終わった後の彼らの感動する姿と本気の涙がすごかったのだ。

いやー、本物だ。本物は何回聴いてもいい。録画しておいてよかった。実はいまも聴きながら、この日記を書いている。きょう四回目だ。

このメドレー曲のタイトルは、『22′50″』。

権利の壁を乗り越えて、ぜひCD化、DVD化を期待したいところだ。

#出演したアーティストたちを番組ホームページから以下コピペしておきます。

小田和正

AI
Aqua Timez
いきものがかり
キマグレン
Crystal Kay
財津和夫
佐藤竹善
清水翔太
JUJU
スキマスイッチ
鈴木雅之
STARDUST REVUE
中村 中
夏川りみ
一青 窈
平原綾香
広瀬香美
藤井フミヤ
松たか子
山本潤子

12月25日。クリスマスである。本日で仕事納めという会社も案外多いようだ。が、パフは来週の月曜日まで。まだまだお客様への提案活動は続いている。

僕もいつもどおりに朝早めに起きて一日の準備を始めた。

僕は朝起きてまずすぐに、自宅のパソコンから会社のメールサーバーに接続して、重要かつ即返信が必要なメールが届いていないかどうかチェックする。その後、盟友たちのブログを読む(あえてチェックとはいいませんよ。I社長、S社長)。

常見さんのブログを読んでいた時、思わず声をあげた。「うぉー、やってくれるねー、ツネミヨヨウヘイ!」。

#詳しくは常見さんのブログにてご確認ください

常見さんとのコラボ企画である「破壊と創造の採用会議」。来年はパワーアップしていきたい。企業の採用活動が本格化してしまったのだが、企画だけは早めに練っておきたいな。一人から二人になってパワーアップした常見さん、よろしくお願いしますよ!

会社での朝礼後、現在もっとも深く強くコラボしているパートナー企業G社へ訪問。とっても重要な相談と提案を行う。まだ誰も知らないことなのだだが、さて、どうなるかな。

お昼に帰社すると、とあるお客様(某社の元採用責任者で、現在某社の重役であるムラカミさん)から大きめの段ボールが届いていた。

なんだろうと思って開けたら、あらびっくり。

ぎっしりと、お菓子、チョコレート、それから書籍の数々が詰まっているではないか。

「パフの皆さん Merry Christmas!」で始まるメッセージは、短いけど、我々パフではたらくメンバーたちに対する愛情がたっぷり込められたものだった。

いやあ、嬉しいな~。 そういえば最近ムラカミさん、サンタに風貌が似てきたような気がする。

詰められていた本は、16冊もあった。いろんなジャンルの本だ。現在の従業員が一冊ずつ持って帰ると、ちょうどの数量である(僕の分はないけど)。そこまでムラカミさんが気を配ったとすれば恐るべきことだが、ま、偶然だろうな(笑)。

さっそく「ムラカミ文庫」と名付けて、従業員の皆への貸し出しを始めた。

ムラカミサンタさん、クリスマスプレゼント、本当にありがとうございました。新年会、タカタに企画させますので、ぜひ!!

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朝と夜の月島の風景を載せる日

2009年12月24日 (木曜日)

きょうはクリスマス・イヴ。朝、目が覚めて体温を計ったら、見事、平熱に近づいていた。昨夜、寝る前に、リポビタンDをグイっと飲んだのが良かったのかもしれない。やれやれ。

そうはいっても病み上がり。いつもより、ゆったりとしたペースで、会社まで歩くことにした。ゆっくり歩くと周囲の景色が目に入ってくる。

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月島から晴海通りに出たところに建設中の超高層マンションがある。びっくりするくらいデカイ。まだまだ伸びていきそうな雰囲気だ。

月島・勝どき地区は僕が住み始めたこの20年ちょっとで、大きく姿を変えた。それまでは、僕が昔住んでいた7階建ての区民住宅がいちばん高い建物だった。それでも近隣住民からは「景観を壊す。けしからん!」と疎んぜられたものだった。

しかし、徐々に地上げが進んでいき、昔ながらの味のある商店や建物が取り壊されていった。

気がつけば、ボーン、ボーン、ボーンと、高層マンションが建てられていった。ここまでたくさん建ってしまうと、さすがに気持ちが悪い。高い建物を見上げるたびに、なんだか吐き気がしてしまう。

写真にある高層マンションなんかは、その最たるものだ。住人の皆さんには申し訳ないのだが、僕はとても、こんな(きっと値段も含めて)高いマンションでは暮らせないな。

 

一方で帰り道。ほっとする風景が、まだ月島には残っている。

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なんとも田舎くさい、商店街の風景ではないか。

クリスマスということもあり、商店街には、貧乏くさい、い、いや庶民的な、イルミネーションが取り付けられている。

(手前に見える)トナカイのイルミネーションの、なんと寂しそうなこと。ペーソスを感じる。

やっぱり日本人には、この庶民的な風景が似合う。超高層マンションの味気なく気取った風景は似合わないのだ。

そんなことを考えながら帰宅した、クリスマス・イブの夜だった。
 

寝込んだ日

2009年12月23日 (水曜日)

いやあ、マイッタ。

昨夜とことん飲んだせいではないと思うが、朝からアタマがいたい。目は覚めているのだが、なかなか布団を抜け出せずにいた。それでも10時過ぎにやっと起きて朝食を採るのだが、起きているのが辛くて再び布団へ。

風邪なのか二日酔いなのか、まさかとは思うがインフルエンザじゃあないよな。。。

熱を計るのも面倒なので、そのまま放置していた。

結局、夕方までずっと布団の中で過ごす。途中、「あ、昨日の日記を書かなきゃ」と起きだして、パソコンを立ち上げたくらいだ。

夜、いくぶん楽になったので、普通に晩ご飯を食べ、風呂に入り、現在。

おそるおそる体温計を取り出して熱を計ってみた。

37.9度

うーん。平熱の低い(いつもは36度あるかないかくらいの)僕にとって、これはなかなかの熱である。っていうことは、昼間の辛い時間は、さらに高温だったんだろうな。

きょうは天皇誕生日。祝日で良かった。

明日は来客が5件もある。早朝からぎっしりだ。休めない。うつせない。治す。頑張る。

おやすみなさい。愛しています。(←常見陽平さんを真似てみました、笑)。

12周年を祝ってもらった日

2009年12月22日 (火曜日)

1997年12月12日にパフは設立された。設立のきっかけは、その2か月前(つまり97年10月)、僕がリクルートで働いていた当時の先輩と、新橋で飲んでいたときに繰り出された次のひとことである。

おまえはリクルートを飛び出したときから独立しているようなもんだ。おまえは結果をオーライにできるやつだ。だからきっとうまくいく。やってみろよ

その気になった僕は、翌日から出資者集めに奔走し、約30名から資本金の1千万円を集め、そしてゲンのいい「イっチニっ!イっチニっ!」の12月12日に、会社を登記したというわけだ。

このことは、いろんなところでいろんな人に話をしてきたので、パフのオールドファンの方なら、よくご存じだと思う。

あの日あのとき、あの男(先輩)と新橋で酒を飲んでいなければ、「パフ」はこの世に存在しなかったかもしれないのだから、不思議なものだ。

そんな勢いでつくったパフの12周年を、今夜ひっそりと祝おうということになった。相手はもちろん「あの男」である。翌日が休みだということもあり、珍しく二軒目の店(のろ)にも行った。「とことん飲もう」ということになった。

いろんな話をした。僕をそそのかしてパフを設立させた「あの男」は、やっぱり凄い男だということが分かった。

途中から完全に記憶が飛んでいるのだが、僕はホントにひとに恵まれているということを実感した夜なのであった。

#パフ設立の経緯を綴った物語を下にリンクしますので、興味のある方はどうぞご覧ください。大昔に書いたものなので、誤字脱字、それからちょっと独善的な表現なども散見されますが、ご容赦くださいませ。

パフの創業物語 第41話「独立決意前夜」

底冷えした日

2009年12月21日 (月曜日)

いやー、寒い。

ただいま夜中の1時を回ったところ。底冷えする。

きょうは朝から寒かったもんな。徒歩通勤の僕には、朝晩の冷え込みは特に堪える。

きょうは月曜日だったので早朝8時から全体会議。「論語の教え」から始まった。きょうの論語は僕が中学生のときに教わったもの。「巧言令色鮮矣仁」である。やっぱり「男は黙ってサッポロビール」がいちばん。高倉健、偉大なり(なんのこっちゃ。CMキャラは三船敏郎でしたね、念のため)。

木曜日の午後からずっと外出していたので、郵便物や決裁書類が溜まっていた。溜まった書類をみると「ふー」と溜息が洩れる。なにごとも溜めるのはよくないってことだ。

13時のアポのため12時前に会社を出る。途中、立ち食い蕎麦屋で昼食。500円玉で手軽に食べられる。食券を買って、蕎麦を受け取って、食べて、水をぐいっと飲んで、店を出る。この間わずか10分。この気取らない昼食が、僕は大好きなのだ。

13時。渋谷の某社の社長と打ち合わせ。気がつけば二時間近い話になっていた。なかなか濃い内容だったな。詳しくはまた今度。

16時帰社。G長会議などを挟むも、サーバールームに篭って、しばし沈思黙考。時間はあっというまに経過する。あ、そういえば!という原稿チェックなども行う。

22時半。目が痛い。腹も減った。そろそろ帰ることにする。

外は朝以上に寒い。

吉野家を経由して帰宅。本日は完全に休肝日だ。

WBSなどテレビを眺めていたらウトウトしてしまう。

いかんいかんと思い風呂へ。

そしていま。風呂上がりの日記執筆だ。

うーん。こうやって書き出すと、なんてことのない一日を過ごしている。

あ、寒くなってきた。湯冷めせぬうちに寝るとしよう。

明日の朝も寒いのかなぁ…。

きょうはなんだか小学生の日記だったな。

おやすみなさい。

「宇宙戦艦ヤマト」は、1974年(僕が中学2年生のとき)に、毎週日曜日の夜に放映されていたテレビアニメである。僕は毎週欠かさず観ていた。大ファンと言っても過言ではない。

このファン度が最大限に高まったのが、1978年(高校3年生のとき)の夏休みである。「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」というタイトルで、テレビの続編が劇場用の映画として放映されたのだ。

Yamato

この映画には大きな衝撃を受けた。いまでもよく覚えている。

土曜日の夜だった。友だちと二人で、晩飯を食べた後、チャリンコで大分市内の映画館に観に行った。その日はオールナイトで上映されていたのだった。

ヤマトの何百倍もの大きさの白色彗星帝国(超巨大戦艦)に艦長の古代進が操縦するヤマトが突っ込んだ。そして古代進やヤマトの命と引き換えに、地球は救われた。その他のヤマトの主だった乗員たちも皆、死んでしまった。古代進の愛した女性・森雪(もりゆき)の死にゆく顔が、なんと美しかったことか。

ヤマトが彗星帝国に吸い込まれるように消え、一筋の閃光とともに大爆発が起きる。そしてエンディングでは、沢田研二(ジュリー)が歌う、「ヤマトより愛を込めて」(作詞:阿久悠/作曲:大野克夫/編曲:宮川泰)が静かに流れる。

気がつけば僕の目からは涙があふれでていた。いっしょに行った友だちも同様だった。

劇場内が明るくなっても、ショックと感動のあまり、しばらく立ち上がることができなかった。友だちと目を見合わせ、頷きあった。そしてその場で、次回の上映を連続してもういちど観たのだった。すでに午前零時を回っていた。

二回目が終わって映画館を出た時には、夜が白んでいた。下宿に帰ってから、ヤマトの乗組員たちの死を悼んで、友だちと酒を酌み交わした。アニメの登場人物のために追悼の酒を飲むなんて、このときが最初で最後である。

だから僕にとっての「宇宙戦艦ヤマト」は、この高校3年生の夏で終わったのである。

が、しかし!

翌年、なぜか宇宙戦艦ヤマトは「何事もなかったかのように」蘇った。死んだはずの乗組員たちもピンピンしていた。「これが最後のヤマトの映画です」と言っていたのはなんだったんだ?

いろんな大人の事情があったのは分かる。だから、僕はその後、一切の新作ヤマトのテレビや映画を無視し続けた。だって、自分のなかのヤマトと乗組員たちは、地球と愛する人たちを守るために、あの1978年の夏に死んだのだから。

 

が、その封印を、本日(約30年の歳月を経て)解いてしまった。

先週から上映が始まった『宇宙戦艦ヤマト復活篇』を、さんざん迷った挙句、観にいってしまったのだ。

そう、あくまで「観てしまった」なのだ。

感想はあえて書かない。

やっぱり自分のなかのヤマトと乗組員たちは、1978年、僕がもっとも多感だった18歳の夏に、地球と愛する人たちのために死んだということだけを再確認することにしよう。