WBC優勝の陰で戦う球児もいた日
2009年3月24日 (火曜日)
きっと、ブログを書いている人たちの本日の話題は、WBCのことで持ちきりなんだろうな。
かくいう僕も羽田空港の出発ロビーで、運よく優勝の瞬間をみることができた。周囲の搭乗待ちの乗客たちと一緒に、歓声をあげ、手を叩いて喜んだ。
(僕は、WBCゲームセットの直後、午後3時の飛行機に乗って福岡に向かったのでした。いま福岡のホテルでこの日記を書いています)
でも、僕らがサムライジャパンの試合にヤキモキしていたまさにその時、裏側ではもうひとつの熱い戦いが繰り広げられていた。
そう、春の選抜高校野球大会が、WBCで日本中が盛り上がっているのを尻目に、先週末から開幕していたのである。
僕の出身県からは、母校の大分舞鶴高校のライバル校である「大分上野丘(うえのがおか)高校」が21世紀枠で選ばれて出場している。なんと60年ぶりの出場だという。
この大分上野丘高校は、僕の兄貴の母校である。しかも兄貴は高校球児だったので、もろ後輩たちが出場することになって、大喜びであったろうと思う。
そしてもうひとり、僕の中学校時代から現在に至るまでの悪友Wも、この大分上野丘高校の野球部出身。Wは、キャッチャーでありキャプテンだった。奴の高校三年生の夏。これが最後だと思って、県大会予選の応援に、下宿屋の悪友たちといっしょに出かけたことがある。大分上野丘高校の野球を見たのは、そのときが最後だったかな(なんとあれから31年が過ぎた)。
そんなこともあり、きょうはWBCのことを気にしながらも、高校野球のことも密かに気になっていた。兄貴とWは、甲子園まで応援しに行ったらしいし。
WBCがゲームセットになったあと、携帯電話からネットに接続して、高校野球の試合の速報を見た。
ううーん、残念。
でも、よくやった。悔(くや)しいだろうけど、「悔い」はないやろ、きっと。
ともかくも、お疲れ様でした。
サムライジャパンは、元気や希望を失いかけている多くの日本人の心に、大きな灯をともしてくれた。
大分上野丘高校の球児たちも、心ある大分県人を、大いに奮い立たせてくれた。
勝ちや負けという結果は、人の心を感動させるにおいて、大きな問題ではない。
「勝とうとする姿」、「あきらめない姿」に、我々は感動するのだ。
「自分もやっぱり負けてられない」と、自分自身の課題と置き換えながら、勇気を分けてもらうのだ。
ベースボールにあっぱれだ!!
2食のとり方を改めた日
2009年3月23日 (月曜日)
先日の日記「家畜にならないと決めた日」は、予想外の反響だった。タイトルの「家畜」というのが良かったのかな。日記上に茶化したコメントが書き込まれたのは、まあ、想定の範囲内(笑)。でも、まさかと思われたお客さんにまで、「昼ごはん食べなくて大丈夫なんですか?」と心配していただいたのは嬉しかった。
どうやら、うちの娘も、この日の日記を読んでいたようで、 「昼ご飯じゃなくて、朝ご飯を抜きなよ」とアドバイスしてきた。
理由を聞いてみると、極めて合理的な理由だった。
「家計が浮くから」
なるほど。確かにそうだ(汗)。
僕が家で朝ご飯を食べないことで、朝食で消費されるパンやコーヒーや牛乳が、33%節約されることになる。
昼ご飯については、僕のお小遣いから支出されるので、家計にとっては、僕が昼飯を抜こうが抜くまいが、何も関係ない。
しかし、朝ご飯を食べないことの家計に与える影響は大きい。
まあ不況の折ということでもあるので、僕も家計の経費節減に協力することにした。
ということで、本日から僕の朝食は、“野菜ジュース”のみ(これは僕が僕の小遣いで買いました)。
昼ご飯はキチンと食べる。もちろん晩ご飯もしっかり食べる。この2食以外は食べないことにする。
それにしても、娘の経済観念も大したものだな(苦笑)。
#imanoさん、この際、心おきなくランチを御馳走になりますよ♪
親父の墓参りをした日
2009年3月22日 (日曜日)
お彼岸ということもあり、きょうは早起きをして、世田谷にある父親の墓(正確にはお寺の納骨堂)にお参りに行った。
親父は、僕が30歳のときに心臓発作で急逝した。いまから18年前。享年62歳だった。
田舎の温泉旅館の雇われ板前だった親父は、死ぬその日まで、包丁を片手に仕事をしていた。誰に迷惑をかけることもなく、誰にも看取られず、静かに息を引き取った親父のことを、僕は常々、親父らしい死に方をしたもんだなあと、感慨深く思う。
照れ屋で泣き虫だった僕は、小さい頃、あまり親父と会話した記憶がない。もっとも、板前という職業柄、早朝から深夜まで仕事をしている親父と一緒にいる時間も、ほとんどなかった。
親父と真面目な会話をしたことが一度だけある。
それは、僕が高校を卒業する間際。これから大学受験に臨もうとしているときだった。
受験を控えて下宿から自宅に一時的に戻った日、親父は珍しく、仕事から早く帰ってきていた。僕が自宅に戻っていたので、わざわざ早めに帰宅してくれたのかもしれない。
東京の大学に合格する見込みが殆どなかった僕は、親父に、こう言った。
「いま受けちょる大学は、全部落ちてしまうかもしれんのやけど、そんときは浪人してもいいやろか?」
「そんで、浪人するときは東京でしたいんやけど、許してもらえんやろか?」
「生活費はできるだけ自分でバイトして稼ぐけん、来年はぜったい東京の大学に受かるように勉強するけん、東京に行かしてもらえんやろか?」
たったこれだけのことを、僕は緊張しながら、意を決して親父にお願いした。
親父は、(熊本弁で) 「よかたい。わが(お前が)思うごつしたらよかたい」と、穏やかな笑顔で答えてくれた。
僕は親父に怒られた記憶がほとんどない。口やかましく言われた記憶もない。ただ、じっと見守ってくれていたという記憶だけがある。
東京で一人暮らしを始めてから、毎月の仕送り(どうしても足りない生活費だけは仕送りに頼っていた)は、決まって親父の直筆の、現金書留封筒だった。10,000円札数枚の他に、メモが1枚、いつも入っていた。 「元気でやってるか?頑張りなさいよ」という短いメッセージがほとんどだった。郵便局に備え付けられている伝票の裏紙を使った粗末な紙だったのだが、当時の僕にとって、この短いメモがどんなに大きな励ましとなったことか……。
きょうの墓参りは朝早く、周囲に誰もいなかったこともあり、線香が燃え尽きるまでずっと親父の写真を前にしながらしゃがみ込み、「そんなこともあったよなぁ…」と、写真を見ながら、懐かしく思い出していた。
メモリを増設して快適になった日
2009年3月21日 (土曜日)
僕は、自宅で仕事をするときは、ノートパソコンを使用している。使うのは自宅だけではない。頻繁に外に持ち出している。出張時はもちろん。会社でも、面談のときなどはメモ帳代わりに使っている。会社の机のパソコンよりも使用頻度は高いんじゃないかな。
昨年の夏、それまでのThinkpadから、Let’sNoteに買い替えた。7年ぶりの買い替えだった。それまでは、Windows2000という(いまとなってはかなり古い)OSだったが、いまはVistaである。CPUのクロック数も、メモリも、HDDも、大幅に性能アップした。
ずいぶん快適になったでしょ……と思われるが、実はそうでもなかった。
アプリの立ち上がりはむちゃくちゃ遅いし、同時に複数のウィンドウを開くと、固まってしまうこともよくあった。せっかく新しくしたのに!とイライラすることもあった。
これ、メモリが小さいと起きる現象なのだ。買ったとき1GBのメモリが積まれていたので十分だと思っていたのだが、OSがVistaの場合は、1GBでは、ぜんぜん足りないのだそうだ。
そこで本日、思いきって(っていうほどではないですが、苦笑)、メモリを増設した。増設後のメモリは3GB。いっきょに3倍になったわけだ。
パソコンを起動すると、スーイスーイ。実に気持ちよーく、こ気味よーく、動作している。いままでの苦しさは何だったんだろう、という感じだ。
僕がパソコンを(仕事として)使い始めたのが、いまから25年前。そのころのOSは、MS-DOSと呼ばれるもの。パソコンにはHDDなんかついていなかった。フロッピーディスク(しかも5インチや8インチ)で起動させていた。メモリも、せいぜい256KBしかついていなかった。MB(メガバイト)ではない。KB(キロバイト)である。
1GBは、1024MBのことである。1MBは、1024KBのことである。
すなわち、いまの僕のノートPCのメモリは、僕がパソコンを使い始めた25年前と比べると、1,000,000(ひゃくまん)倍の大きさだということだ。
うっひゃーである。
僕らは、たったの25年で、1,000,000倍もの情報量をパソコンで扱うようになってしまったというわけだ。かつての大型コンピュータをも凌駕する情報量だ。
しかも、料金たるや、かつてのパソコンの10分の一程度(昔のパソコンは一台、100万円近くしていた)。
コンピュータの進化は、ものすごい。
でも、人間のアタマの処理速度や記憶容量は、この25年間で増えているわけではない(僕個人でみると大幅に退化している、苦笑)。
ううーん。ここは、コンピュータに支配されないように気をつけなければならぬな。
・・・と、メモリの増設のことを書いてただけなんだけど、ついふらふらと余計なことを書いてしまった。こんな芸当(余計なことを思いつきでふらふら処理する)は、コンピュータには苦手なことだろう。よし、勝ったぞ。
「ありふれた奇跡」の日
2009年3月20日 (金曜日)
この数週間、なんだかんだ週末にも仕事や用事があり、家でテレビを見るということがなかった。
僕はテレビっ子であり、実はドラマが大好き。
でも、最近のテレビドラマには、品質の高さを感じられずにいた。
ところが、(以前の日記にも書いたが)フジテレビが開局50周年で制作・放映している木曜10時のドラマには、久々にテレビドラマの面目躍如的なところを感じた。
昨年の秋に始まった倉本聡脚本の(緒形拳の遺作となった)“風のガーデン”も良かったのだが、それ以上に良かったのが、山田太一脚本の“ありふれた奇跡”。今週の木曜日が最終回だったのだが、今回も前回も前々回も、3週連続で観ることができずにいた。
普段なら週末に録画しておいたものを観るのだが、冒頭に書いたとおり、この数週間、まとまった時間がとれずに、ずっと溜めてしまっていた。
で、本日。3週間分をまとめて観た。
よかったなあ~~。
淡々としたストーリー展開のなかにドラマがある。「人間」を実に、味わい深く描いている。さすが山田太一だなあと思う。
山田太一テイストを存分に生かしながら演じている役者陣にも感心した。特に、仲間由紀恵、加瀬亮の主役のふたりの演技は良かった。加瀬亮の演技をみたのは、痴漢冤罪の被告人をみごと演じた“それでも僕はやってない”以来だったが、彼はすごいと思う。彼以上にあの役を演じられる役者はいないんじゃないかな。
仲間由紀恵も見直したなあ。彼女の演技力を批判する人もたくさんいるけど、いいですよ、なかなか。きっと大物女優になると思う。
陣内孝則の演技も久々。同年代だもんね。井川比佐志はさすが貫禄。風間杜夫も久々に観たけど、さすが(つかこうへい)劇団員出身だ。八千草薫も久々だったけど70歳を超えてのあの可愛さ。すごすぎる。オメダのお母さん役(33年前のドラマ“俺たちの旅”)のときと、全然変わってなかった。
山田太一がドラマの脚本を書くのは、本作が最後だという。視聴率も思ったほど伸びなかったようだ。いまの若者たちには山田太一の脚本は受け入れられないのだろうか。実にもったいない。
今回のドラマはDVD化されるらしいが、ぜひ「釘さん日記」読者の皆さんには、鑑賞してもらいたいなあ。“ふぞろいの林檎たち”以来の、山田太一ワールドが広がる、味わい深いドラマですよ。
社長と若者が突然やってきた日
2009年3月19日 (木曜日)
午後2時半過ぎ。古くからの協賛企業K社の元採用責任者であるMさんから電話がかかってきた。
Mさんは、採用責任者を離れてからのここ数年、社長室長という立場で、経営を脇から支える仕事をしてきた。
ところがこのたび、関連子会社の社長に突然指名された。脇からではなく、まさしく経営の仕事をすることになったのだ。
つい先日、Mさんからのメールで社長就任の知らせを受け、「へー、そうなんだぁー!」と、びっくりしたばかりだった。
考えてみたら、Mさんとは今年になってまだお会いできていなかった。最後に会ったのは、昨年暮れの「釘さん歌手デビューコンサート」 (12月11日)のとき。
そのMさんからの電話。「なんだろう?」と思った。
「あ、社長さまっ!お久しぶりです!!」と、ちゃらけて電話に出た。近況を少しだけやりとりしたのち、 「忙しいでしょうけど、近いうちに飲みにでもいきましょうよ」という必然の流れになった。
ところが僕は4月上旬まで、夜の空きがまったくなかった。唯一、今夜だけ(予定されていた会合がなくなったため)空いていた。
「今夜なら大丈夫なんですけどねー。7時以降がいいんですけど、どうですか?」
「お、それはちょうどいい。東京駅界隈での仕事が6時に終わるんで、パフの事務所に7時ころ行きますよ。パフの皆さんにごあいさつしてから軽く一杯行きましょう」
という感じで、急きょの飲み会が決まった。
かたや、18時半ころだった。某総合商社に勤務する入社二年目の若者社員のHから携帯に電話がかかってきた。Hは、学生時代(卒業間際)パフの仕事に絡んだことがあり、以来、パフの社員たちとも深い関わりを持っていた。現在は名古屋で勤務しているのだが、年がら年中、東南アジアに出張している。
そのHからの電話。
「あ、Hです。いま出張で有楽町に来てまして、近くまで来てるのにパフに顔を出さないのは失礼だと思って電話しました。いまから行っていいですか?」
という内容だった。当然、 「おお、来いよ」と僕は答える。
夜7時。新社長のMさんと、若者商社マンHとの遭遇である。まったく意図せぬ偶然の出会いである。
Mさんに、 「せっかくなんで一緒にいいですか?」と、Hを一緒に連れていくことを確認すると、 「もちろん、クルモノコバマズですよ」という、これまた意図せぬ流れになった。
なぜか、 「僕もいっしょにいいですか?」と、きょうたまたまアルバイトに来ていた内定者のツチダもついてくることになった。なんとも運のいい奴。嗅覚の鋭い奴だ。
そういえば、ツチダは、Hが学生時代に立ち上げた団体に属しており、さらにはツチダの大学(東京外語)は、Mさんの母校でもある。意図していなかったわりには、よくできた組み合わせである。
この、急ごしらえの4人の飲み会。新社長のMさん、2年目社会人のH、社会人秒読み内定者のツチダ。
新社長の苦労話も聞けたし、Hの奮闘ぶりも聞けた。そして終盤は、先輩たちからツチダへの、新社会人になるにあたっての数々のイニシエーションが与えられた。気がつけば、焼酎のボトルの二本目は一升瓶だった(!)。
こういう面白い会合は予期せず突然やってくる。
でも、たしかに突然だけど、組み合わせも偶然だったんだけど、これってやっぱり 「天が仕組んだ必然」のような気がしてしょうがない。今後、何かに発展し、新しい変化に繋がるような気がする。
家畜にならないと決めた日
2009年3月18日 (水曜日)
先日、とある同業界の社長との打ち合わせ後の雑談の時の話。
某社長 「そういえばクギサキさん、ダイエットしてるんですって? ブログ拝見しましたよ。66Kg台になったんだそうですね」
クギ 「そうなんですよー、これが。でもなかなか減らないですね」
某社長 「僕も実はちょっと前まで、80Kgあったんですよ」
クギ 「ええー! いまは何キロなんですか?」
某社長 「65Kgくらいです」
クギ 「ええー! そんなに痩せたんですか!? どうやって痩せたんですか?」
その社長の話では、「一日一食」の食習慣にしたのだそうだ。
朝は野菜ジュースのみ。昼は食べない。夜は、きちんと食べる。接待などの酒席もあるので飲んでも構わない。
つまり飲み物を除いては、晩御飯だけしか食べないのだという。
クギ 「ええー! 一日一食だなんて、そんなんでよくもちますね。 朝食は食べないと健康に悪いのでは?」
と、当然そう思う訳なのだが、某社長の答えは、こうだった。
某社長 「野生の動物というのは一日一食なんですよ。一日に三食もとる動物は、家畜くらいです。だいたい現代の人間は、食べすぎなんですよ」
これには納得した。
しかも、野生の動物は空腹の時間が長いからこそ、集中力を発揮できるのだそうだ。ハングリー精神もそこから生まれる。不況で業績が低迷しているっていうときなのに、一日に三回も食事して満腹感に浸っている場合ではないよな、確かに。メシを食べる大変さ、ありがたさを、もっと切実に感じる必要があるのかもしれない。そういえば貧乏な学生時代は、いつも腹を空かしていた。だからこそ、勤労意欲が湧いていたことを思い出した。
ほかにもいろいろと、一日一食の効用をお聞きした。
・・・ということで、本日、決めた。
まずは一日二食の習慣をつけようと思う。
いきなり一日一食はさすがに辛いし、そもそも出来そうもないし、やっぱり朝ごはんはキチンと食べたい。
そこで、一日二食を習慣化しようと思ったのだ。具体的には、 「昼ごはんを食べない!」。これだけである。
家畜にはならないぞ!!!
さて、この結果はまた、一箇月経ったころに、この日記でご報告することにしよう。
なーんて、宣言しちゃって大丈夫なのかな……。