第三の故郷、仙台へ
2018年4月18日 (水曜日)
仙台は僕にとっては特別な土地。九州出身の僕なのだけど、第三の故郷といっても言い過ぎではないくらい。
生まれて初めて仙台に行ったのは僕が28~29歳のころ。まだコンピューターの仕事をしていた時代。東北新幹線が開業したばかりのころで、上野駅~仙台間を何回か往復していた。といっても行くのは年に数えるくらいで、ほとんどが日帰りだった。
頻繁に仙台に通うようになったのは、パフを創業する数年前のころから。
仙台で古くから就職支援事業を営んでいるエムジョイさん(昔はメディアバンクという社名だった)が、当時、僕が責任者をつとめていた就職サイトや人事関連システムを担いでくださることになり、そのサポートでお邪魔する機会が徐々に増えていった。
そして、のちに職サークル協賛企業第一号となったサイデックの志田社長(当時は常務)との出会いがあったのもこの頃だ。
この出会いが決定的なものとなり、僕はパフ創業直後から少なくとも毎月1回は仙台に行くことになった。行けば必ず宿泊。そしてオプションとして国分町も必ずついてきた。詳しくは書けないけど「北の国から」に出てくる“こごみ”似の方々との交流がたくさん生まれたのもこの頃だった(#^^#)。
お酒も食べ物も美味しく、クルマでちょっと行ったところに温泉(秋保温泉)もあったり。なにより人の情に厚い方々がたくさんいて、本当に大好きな街だった。
そんな第三の故郷である仙台。この10年は行く機会が(僕が現場の仕事をあまりしなくなったので)激減してしまったのだが、本日は久々に行くことになった。一年ぶりくらいになるだろうか。とても楽しみだ。目的はもちろん仕事だけど(ホントです)。でも、仕事のあとは国分町にも行くことになるかもね(^^)v。
今日は雨で寒いみたいだけど、仙台は寒いほうが昔を懐かしむうえでちょうどいい。
では、仕事の準備をしてから行ってきます!
自転車操業物語の続きをどうする?
2018年4月17日 (火曜日)
先日の社長面接の際、ある学生から聞かれた。
「自転車操業物語の続きは書かないんですか?」
そうだった。
自転車操業物語。正式な名前は「パフ涙の自転車操業物語」。
パフを創業した日(1997年12月12日)から新卒一期生が入社する直前の2001年始めまでの、約3年間の悪戦苦闘ぶりを振り返りながら書き綴った物語である。
当時の学生向けメルマガのコンテンツとして毎週1話を書いていた。
が、第96話の執筆をもって、突然、断筆してしまっている。
何があったのか。
断筆したのはたぶん2004年の春。当時の新入社員(まだ内定者だったかな?)からの評判がとても悪く「あんなコラムを書くのはやめてほしい」というクレームがあり、気の弱い僕はその声に抑え込まれて断筆してしまったのだ。
「ほとぼりが冷めたころにまた再開すればいいや」と思っていたのだが、あれから14年以上が経ってしまった。
最後の執筆となった第96話では、なんと当時大学3年生だったタシロ(コラムの中ではT君)のことを書いていた。
まだパフに応募する前の、イチ学生だったタシロが書いたコラムを紹介した「番外編」。興味のある人はこちらをクリックしてお読みください⇒ 第96話 「変な就職講座“つきしま村塾”」(番外編)
この第96話の最後、僕はこう結んでいる。
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以上、T君のコラムでした。
次回は、また2001年1月に戻ります!(…つづく)
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そう、「つづく」と書いているのだ。この回を書いたときには自分でもまだ断筆することを決めていなかったんだな。
で、学生からの質問「自転車操業物語の続きは書かないんですか?」への回答。
「うーん、書きたいのは山々だけど、もはや当時のことを思い出すのが難しいんだよねえ……」
とは言ったものの、新卒一期生が入社したころのパフ。刺激的な毎日だった。断片的にだが、ちゃんと覚えている。
さて、どうするか。
そういえば、このころ(2001年あたま)から僕はブログ(釘さん日記)を書いていたのだが、そのブログも「サーバーの容量を増やす」という大義名分のもと、当時のシステム管理者に削除されてしまった。たぶん磁気テープか何かに保管されていると思うのだが、見つけることが出来ないでいる。
せめて昔のブログが見つかれば、続きを書くことが出来るのだが。
マツモトさん、何とか見つけ出せないですかね?
・・・てなことで、社内への呼びかけで終わる本日の日記でした(^^;
さて、本日は雨が降るらしい。気温も低め。フードが付いたランニング用のウィンドブレーカーを羽織って行ってきます!
新しいメガネをつくった日
2018年4月16日 (月曜日)
僕が今かけているメガネ。いつ作ったんだろう。いつからかけているんだろう。
なかなか思い出せない。
ためにしに「釘さん メガネ」でググってみた。
おお、出てきた!
「丸めがねデビューの日」2013年1月15日 (火曜日)
という日記をちゃんと書いていたのだ。
そうか、5年前だったのか。
ご丁寧にこんな自撮り写真まで載せていた(@_@)。
このメガネに替えた時、周囲の反応は冷ややかなだったような記憶がある。
いや、冷ややかというか、みんな必死に笑いをこらえていたような感じだったかな”(-“”-)”
最近さらに老化が進んできており、このメガネも合わなくなってきた。
で、あらたに遠近両用のメガネをつくることにした。
昨日、日本橋の某メガネ屋さんに行き、視力検査をしてもらい、レンズを慎重に選んだ。PCやスマホを見ることも多いので、ブルーライトカットの加工もしてもらうことにした。
そして最後に、フレームも一新。新しいものを選んだ。
出来上がりは今度の日曜日。来週の月曜日の日記で、また記録に残すことができそうだ。
それにしても、日記(ブログ)って便利なものだ。「釘さん」+「○○○」で、過去自分が関わってきたことが検索されて出てくる。
たとえば明後日、仙台に出張するのだけど、「釘さん 仙台」で検索すると、仙台のことを書いた過去の日記(コラムも含む)が7つも出てきた。
東北大出身の新卒二期生(2002年入社)のキミワダを国分町で面接したときの話なんかも出てきて笑える。
「くだらない」「手抜きだ」「もっとマジメなことを書け!」という批判も少なからずあるこの日記なのだが、日常のあれこれを書き残しておくことの意味を感じる(笑)。
さて、それはともかく。問題は新しくなったメガネ。来週出来上がったときに批判されなきゃいいんですけどね(#^^#)。
では、今週いっぱいは5年間かけ続けた丸メガネで、行ってきます!
またもや日帰りで名古屋に行ってきます!
2018年4月13日 (金曜日)
いま朝の6時。いつもなら顔を洗って髭を剃り終えて、朝のニュースを見ながらボーっとしている時間だ。
が、きょうはもうすぐ出なければならない。
うっかりしていた。これから名古屋に行かねばならなかったのだ。つい数週間前に行ったばかりなんだけど💦
ということで、いつものようにボーっとしているわけにはいかない。悠長に日記を書いている場合でもない。
きょうは名古屋の愚か者たちに僕が行くことを伝えていない。夜の7時には別件の用事が東京であり、仕事が終わったらすぐに帰りの新幹線に飛び乗らねばならないからだ。愚か者たちに待ち伏せされないように気をつけなければ(;^ω^)。
では、本日は(も?)中身のない日記でゴメンナサイ。新幹線に乗り遅れないように、大急ぎで行ってきます!
1980年代前半という時代
2018年4月12日 (木曜日)
NHK朝のテレビドラマ『半分、青い。』を毎朝、観ている。昨年の今ごろは『ひよっこ』にハマっていたのがもはや懐かしい(笑)。
このドラマの舞台は岐阜。ヒロインが生まれたのは大阪万博翌年の1971年なので、僕とは11歳違いということになる。ちょっと年の離れた妹っていう感じかな?
現在は、そのヒロイン楡野 鈴愛(にれの すずめ)が10歳。1981年。僕が20歳から21歳になる年だ。
この時代に流行ったテレビ(ザ・ベストテンとか)や唄(松田聖子や、もんた&ブラザーズとか)が出てくるのだけど、自分の学生時代を思い出しながら観ている。
僕が大学に在籍していたのが1980年4月~1984年3月(1983年1月からは90%社会人だったけどw)。この1980年代前半という時代には、濃密な思い出が詰まっている。
今のようにスマホなどで気軽に写真を撮れた時代ではなく、ましてや動画なんてまったくないので、思い出のほとんどはアタマのなかだけ。
なので、その思い出はどんどん自分のアタマのなかで美化されていく。
可愛かった女の子がより可愛いくなるのはもちろんだが、ブスな子(表現悪くてゴメン💦)でも、それなりの容姿に増幅されていく(笑)。
いま振り返ると、この時代に学生時代を過ごせて幸せだった。携帯もスマホもパソコンもネットもなかった。6畳一間の下宿には風呂もなくトイレは共同。決して便利な時代ではなかったけれど、そのぶん友人・先輩・後輩たちとの(男も女も含めての)泥臭い付き合いがたくさんあった。
あ、だめだ。書いていていろんな思い出が駆け巡ってきた。恥ずかしくなってきた。胸もキュンとしてきた。10分程度の日記でまとめることはできなそう。まだまだ青いな(*’ω’*)。
では、そんな青かった1980年代前半の秘蔵写真(昔、一瞬だけfacebookに載せて皆から大笑いされた)を最後に載せておくことにしましょうか(^^ゞ
ということで、本日も『半分、青い。』であの頃を思い出したうえで、35年後の現実の世界に行ってきます!
新本社事務所のサイン(看板)案ができました。
2018年4月11日 (水曜日)
一昨日の日記で「移転に関する話は(どうでもいい話も含めて)ネタがない日に、これからもお伝えしていこうと思います」と書いたのだけど、早速、本日はネタがない(というか、まだ書けない話ばかり)ので、移転後の新オフィスの看板(サイン)案でも載せておこう。
昨夜、オフィスレイアウトを担当しているパートナー会社さんからデザイン案がメールで送られてきたので、そのまま載せちゃおう。
どうですかね?
昨年、パフが発起人として立ち上げ、運営事務局を務めている「日本採用力検定協会」と「履修履歴活用コンソーシアム」も、加えたバージョンだ。
引いて見るとこんな感じ。
看板は大事なのだけど、周囲の意見をきいているとキリがないので社長に一任させてもらおうと思う。
移転まであと20日。来週からは段ボール詰めの作業が始まる。日常業務の多忙な時期と重なってしまったんだけど、皆さん頑張りましょう!
さて、きょうも日記ネタがなさそう。
明日は食べ物ブログでも書いてみようか(苦笑)。
では、ちゃちゃっと一仕事してから行ってきます!
社長面接ラッシュ
2018年4月10日 (火曜日)
パフ自身の新卒採用もいよいよ大詰めである。
先週は2名の社長面接、本日も1名の社長面接、明日以降も5名分の面接のための時間がセットされている。
あれ?うちって何名採用するんだっけ?
・・・・・・と、ふと思うのだけど、まあ細かいことは言うまい。いや、細かくはないんだけど(苦笑)。
でも、さすがにこれまでの面接や適性検査をみごとに通過してきたツワモノたち。面接をしていてなかなか楽しい。
僕の面接は、ただただ自分の話をしてもらう面接。自分が生まれてから今日までの人生を語ってもらう。
「へー、そうなんだー」「うん、それで?」「ほー、なるほどねー」
僕が喋ることといったら、それくらい。
なんて楽チンな面接なのだろう・・・と思ったら大間違い。
僕の右脳はその学生が生きてきたその時その時の姿をアタマのなかに映し出し、僕の左脳は映ったその姿を冷静に解析している。右脳も左脳もフル稼働しているのだ。
まあ、僕のアタマの回転速度はたいして速くないんだけど(苦笑)。
そして、人生を語ってもらった後は僕に質問をしてもらう。とことん質問してもらって、疑問や不安を解消してもらっている。
そんな社長面接なのだ。
面接時間は一人あたり約2時間。それでも足りないこともあって、応接室での面接が終わった後、外でご飯を食べながら延長戦を行うこともある。
昨夜、採用担当のイシガミに、「もし全員合格して、全員ともパフへの入社を希望したらどうする?給料払えるのかな・・・」と、社長らしからぬ質問をしたら、「大丈夫です。私が稼ぎますから!」と、入社2年目らしからぬ上からの答えが返ってきた(笑)。
いまから18年前。新卒一期生の採用枠は2名だったのに4名を採用した。17年前の新卒二期生も、2名の採用枠のところ5名を採用してしまった。
果たして歴史は繰り返すのか?
ということで、社長面接、本日も頑張ります(^_-)-☆
では、朝食後、あたまをスッキリさせるためのウォーキングで行ってきます!