パフ代表の徒然ブログ「釘さん日記」

平成元年のころを語った日

2017年10月19日 (木曜日)

平成元年。西暦でいえば1989年。世の中はバブル真っ盛りのころ。僕は大手IT企業(当時はメインフレーマーと言っていた)のF社で、その時代においてはまだ異端だったオープンシステム(UNIXをOSとした水平分散型システム)の販売支援部門で仕事をしていた。

その頃のことは(あまりにもマニアック過ぎるので)周りの人たちに話したことがあまりない。なので、自分でも忘れていたことがたくさんある。

が、昨日はその頃のことを細かいところまで思い出した。

というのも、F社の本店所在地である武蔵中原で、そのF社の方々と酒席を共にしていたからだ。

 

 

昨日のイチバン年長者の方(採用責任者)は僕が働いていたころの新入社員。ひょっとしたら、すれ違ったことくらいあったかもしれない。

いやあ懐かしかった。

当時の話は、昔のコラムにも書いていたので、以下再掲しておきましょう。

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<第63話> 「大手コンピュータメーカーF社の人々(その1)」 2006/02/27

小さな会社S社で、ソフトウェア開発の仕事に携わり始めて5年の月日が経と うとしていた。

それは、昭和天皇が崩御し、新元号『平成』がスタートしたばかりの1989年の 春のことだった。

僕は“人材狩り”(カッコよく言えば“スカウト?”)の標的となり、それま でお世話になったS社を離れ、大手コンピュータメーカーであるF社の系列デ ィーラーに営業マンとして転職した。

エンジニアという仕事が嫌いだったわけではない。我ながら優秀な(というよ り、気の利いた)エンジニアだと思っていた。この道でも、なんとか食べては 行けるだろうと思っていた。

しかし、もともとエンジニアを志向していたわけではなかったし、義理人情の 世界に身を任せて入社した会社でもあった。

自分なりには、エンジニアの仕事の凄さや、大変さや、面白さを分かったつも りでいたし、義理人情の世界に対しても、十分報いたつもりでいた。

だから、比較的すっきりとした気持で、転職を決意することができた(でも、 それまで苦楽を共にしてきた仲間達と分かれるのが辛くて、勤務最終日には泣 いてしまったが)。

・・・・・

転職初日。僕が勤務を開始した場所は、F社のディーラーではなくて、F社の 本社そのものだった。

とても珍しいケースなのだが、ディーラーの経営陣とF社の営業幹部との話し 合いの結果、F社が発足させたとあるプロジェクトに、僕は転職早々組み込ま れることになったのだ。

そのF社のプロジェクトは、部長を含めて総勢10名程度。当時F社が取り組 み始めた初の「米国製OEMコンピュータ」を拡販するためのプロジェクトだ った。ディーラーから参加したのは僕だけで、残りのメンバーは全員F社の正 社員。プロジェクトが置かれていたのは、東京駅のまん前にあるドでかい高層 ビル。

超狭いビルにあった、それまでのS社とのあまりの環境の違いに、最初のうち は目まいがしたくらいだ。

だが、職場に慣れて仕事を進めるうちに、目まいなんかできる暇もなく、こり ゃ凄いところに来てしまった!という後悔やら、驚きやら、面白さやら、恐怖 やら、興奮やら、いろんな感情に襲われる毎日が続いていった。

転職して1ヶ月ほど経ったある日。僕は部長から、1週間後に開催される営業 会議でプレゼンテーションをするように命じられた。その営業会議は、全国の F社の支店から部課長クラスが100名ほど集まってくる大規模なものだった。

命令されたときは、そんなに大したことだとは思わずに平然と引き受けたのだ が、席に戻った後、他のメンバー達に「釘やん(と当時呼ばれていた)、ホン トに大丈夫なんか?」と口々に言われ、「え?」と大変な役目を引き受けてし まったことに気がついた。

100名を前にしたプレゼンなんてやったこともない。おまけに昔はパワーポ イントなんていう気の利いたプレゼンツールもない。できるのは、ワープロで 印刷したものをフィルムにコピーして、OHP(オーバヘッドプロジェクタ) を通して写しだすことくらいだ。

僕が途方に暮れている間に、会議は2日後まで迫っていた。

(途方に暮れながら「その2」へとつづく)

※続編を読みたい方はこちらからどうぞ( ^ω^ )

⇒  <第64話> 「大手コンピュータメーカーF社の人々(その2)」 2006/03/06

⇒  <第65話> 「大手コンピュータメーカーF社の人々(その3)」 2006/03/13 

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そんなわけで昨夜はちょっと飲み過ぎて、実はいま二日酔い。日記も手抜きでゴメンナサイ💦

では、ちょっとだけピアノ(みね子)に触ってから行ってきます!

やっと晴れた。

やっと走れた。

朝ラン1.5km地点でのこの朝日、最高である。

 

 

こんな晴天いつぶりだろう。

毎日がこんな一日の始まりだったらいいんだけど、でも雨の日が続いたからこそ、晴天のありがたさが感じられるというもの。ささやかな幸せは、辛さや悲しさの向こう側に隠れているものだ。

そう考えると、雨天続きも悪いことばかりではない。

ということで、朝の「晴走」でカラダが喜んでいる朝でした。

では、朝食後ウォーキングで行ってきます!

 

晴走雨弾

2017年10月17日 (火曜日)

「晴耕雨読」。よく目にする四字熟語だ。あらためてネット(故事ことわざ辞典)で意味を調べてみると「晴耕雨読とは、世間のわずらわしさから離れて、悠々自適の暮らしを送ることのたとえ」と出てくる。

「晴れた日は畑を耕し、雨の日には家で読書を楽しむ。体を使って汗を流せる喜びと、頭を使える楽しみは、人間にとって理想とした生活である」という注釈も出てきた。

いいなあ。憧れる暮らしだ。何歳まで生きるのか分からないけど、晩年は(足腰もアタマもしっかりしていることが前提だけど)このような日々を静かに送りたいものだ。

で、日記のタイトルに書いた「晴走雨弾」。ピアノの先生から昨夜頂戴した造語である。

この先生はいつもレッスンの数日後、前回の練習の振り返りとともにアドバイスメッセージを送ってくれる。

昨夜届いたメッセージに、この「晴走雨弾」という言葉が書いてあったのだ。

なかなか洒落ているじゃないか。

晴れた日の朝は走って、雨の日はピアノを弾く。

今日もそんな朝だ。

このところ雨続きで気分も沈みがちだったけど、この言葉に励まされながらピアノの練習をがんばっぺ!

 

久々に「みね子」の登場です(^^♪

 

天気予報を見ると、きょうの午後から晴れるという。久々に明日の朝は「晴走」になりそう。

では今朝は「雨弾」のあと、ウォーキングで行ってきます(^O^)/

 

雨が続いてランがピンチです。

2017年10月16日 (月曜日)

9月に入って本格再開したランニング。平日も二日に一回は5kmほどを走っていた。週末は最低でも10kmを走っていたこともあり、先月の走行距離はらくらく100kmを超えた。

今月も、先週の水曜日(11日)までの走行距離は53.42km。9月を上回るペースとなっている。

下はその証拠画像。RUNアプリでの集計結果だ。

 

 

しかし、先週の木曜日以降は、まったく走れていない。1kmも。

東京は雨続きなのだ。この週末もずっと雨だった。

困った。せっかく習慣化していたのに。せっかくお腹のぜい肉が取れそう(な気配がしてきたところ)だったのに。

今週も愚図ついた天気が続くようだ。

うかうかしていると、このまま冬がやってきそう。

ああ、冬が来る前にもういちど秋晴れの空の下で快適なランをしたいものです(*´з`)。

 

さて、衆院選も大詰め。みね子がいなくなって久しいけど、政見放送でもチェックしたのちに行ってきます!

いまから12年前、パフに入りそこなった当時の大学四年生がいる。

その名をアキヤマくんという。

彼はパフには入社しなかったものの、衛星のごとくパフの周辺をグルグルしていた。

12年前、僕との最終面接で「お前はこの会社に入れ」と言われて入った会社が、パフの監査役キムラさんが経営する会社(システム開発会社)。

その会社で、しばらくSEとしての修行を積んだ後、パフのシステム担当として(本人の記憶によると)2009年~2010年の2年間、出向してきた。

その後、僕の親友が監督を務めていた(パフのタシロも所属していた)ソフトボールチームに所属。それが縁で、(僕の親友がかつて社長だった)某社に転職。

そしてそこからまた波乱万丈な数年間(スゴ過ぎて書けません)。

で、つい先月、パフ主催の学生向けイベント会場で6年ぶりくらいに再会した。

「あれ?おまえ、アキヤマじゃない?なにやってんだよ⁉」

そう、アキヤマくんは某社の採用担当者として、パフのイベントに参加していたのだ。

「え!おまえが採用担当者?ウソだろ」

ウソではなかった。

アキヤマくんはパフに数百万円の予算を割いて発注を済ませていたのだった。

で、昨夜はそんなアキヤマくんと、ホントは同僚や先輩となるはずだった連中との飲み会でしたとさ(笑)。

不思議な縁のアキヤマくん、これからもよろしくね(^_-)-☆

 

 

さてさて、本日はすでに金曜日。

雨でランはできなかったので、傘を差しながらのウォーキングで行ってきます!

事務所移転を計画してます。

2017年10月12日 (木曜日)

パフは20年間で4つの本社事務所で仕事をしてきた。

最初の事務所は新富町。1997年12月~2000年4月までの2年半近くを過ごした。

10坪程度の小さな古い(2Fには怪しい雀荘が入っていた)ビルで、机6つと小さな打ち合わせテーブルひとつしかなかった。それでも僕にとっては初の事務所。一国一城の主となった地である。内装が終わってはじめて部屋に入ったとき、とても感動したものだ。この事務所がなければ(その後20年間通い詰めることになる)スナックのろさんと知り合うこともなかっただろう。

 

次の事務所は月島(正確な住所は佃)。2000年5月~2004年4月までのちょうど4年間を過ごした。

1フロア30坪で、4F~5Fの2フロアを借りていた。4Fは執務室で5F(最上階)はセミナールーム。このセミナールームでは毎日のように学生向けの少人数イベントを開催していた。「うまれよ塾」は毎土曜日やっていたし、「つきしま村塾」は毎金曜日やってたんじゃないかな。新卒一期生から三期生までの社員を迎え入れたのもこの事務所。いろんな意味でパフの礎を築いた地となった。あ、そうそう。たまに屋上で月や星を見ながらの社内飲み会を開いていたこともあった。のどかな時代だった(笑)。

 

三番目の事務所は東銀座(正確な住所は築地)。2004年5月~2011年8月までの7年間を過ごした。10周年を迎えたのはこの事務所だった。

1フロア約60坪で、当初最上階(9F)の1フロアのみだったが、後に8Fを借り増してセミナールームとして使っていた。が、おぞましきリーマンショックの襲来によって経費圧縮を余儀なくされ2010年には8Fを解約している。東銀座の事務所時代は、社員が急に増えたり減ったり。業績が上がったり下がったり。内紛が起きたり社内結婚が生まれたり。システムが長期ダウンしたり。最後の年は東日本大震災に襲われて執務室のパソコンがなぎ倒されたり・・・・・・と、波乱万丈な時代だった。

 

四番目の事務所が現在の茅場町となる。2011年9月~現在に至る。早いもので、すでに丸6年を超えた。

1フロア約70坪で東銀座の執務室よりも広くなった。セミナールームは九段下に分かれているものの、使い勝手のいい事務所だ。なんたって茅場町の駅出口を出てすぐそばというのがいい。移転したきっかけは経費削減。リーマンショックでどん底に沈んだ財務を復活させるための、ひとつの有効な策だった。部屋が広くなったのに家賃が安くなって、しかも駅のすぐそば。不満はほとんどないのだが・・・・・・。

 

そう、この茅場町の事務所そのものには不満はないのだが、このたび五番目の事務所を探すことにした。移転は来年の夏が来る前に完了させる予定だ。

なぜか。

まあ、その理由はまた今度。

さて、どこになるのだろうか。(この20年間はずっと中央区内の事務所だったのだが)中央区にこのままとどまるのか。他所の区に出ていくのか。いや、それ以前に東京都内なのか。まさか「奥茨城村に移転する!」なんて言い出したりはしないだろうかと社員は心配しているかも(笑)。

実は本日そのために、業者さんとの打合せや内覧に出かけてくる。

さあ、どうなるんでしょうね。

暑い日も今日までという。では、今年最後の半袖シャツを着て行ってきます!

きかっけはこれだった。

 

 

いつまでも引っ張って申し訳ありません(*´▽`*)

そう、谷田部家一家がTV番組「家族みんなで歌自慢」で披露した「涙くんさよなら」。浜口庫之助作詞作曲の昭和を代表する名曲だ。

最近は、鈴木雅之 が『DISCOVER JAPANⅢ』というカヴァーアルバムでこの歌を収録している。

YoutubeではSonyMusicが以下の公式プロモーションビデオを公開していたのだが、この映像を昨夜みつけて、さらに大ハマリした。

 

 

鈴木雅之の隣にちょこんと座って、ハモっている松下奈緒が最高にいいのだ。松下奈緒といえば「ゲゲゲの女房」。大好きだった。どんだけNHK朝ドラに影響を受けているんだって感じだが(苦笑)。

僕も、いつか松下奈緒(みたいな女性)にハモってもらいながら歌いたいな。そしたら本当に、涙くんとサヨナラできるかもしれませんね(#^^#)。

では、きょうもアッサリめ。

東京の暑さは明日まで続くらしい。きょうもまだ半袖シャツですね。ということで、「涙くんさよなら」を口ずさみながら行ってきます!