パフ代表の徒然ブログ「釘さん日記」

仕事をした日

2008年8月20日 (水曜日)

なんという不謹慎な日記のタイトルであろう。

「やっぱり、おまえはふだん仕事をしてなかったのか…」という突っ込みが来そうだ。

本日は、「地味ぃぃぃな仕事をたくさんした日」という意味で、タイトルを付けたのだった。

いや、そもそも社長っていうのは、地味ぃぃぃな仕事をする人なのかもしれない。

どこの会社も、社長って(特に創業社長は)、実は何でもできる人が多い。創業者は、事業が軌道に乗るまでは、だいたい一人だけですべての仕事をこなさなければならないからだ。

営業、経理、法務、庶務、企画、システム、雑用。なんでもやる。自分の専門は○○だから、とか言っている場合ではない。隙間の仕事もぜんぶひっくるめて、職種を超えた仕事をやれるのが社長という人種なのだ。

ということで、きょうは(人知れず)地味ぃぃぃぃぃぃなことを延々とやっていた。

誰にお願いするでもない隙間な仕事。機密性の高いシークレットな仕事。地味な仕事の連続だ。

それに付随して、書いたメールも本日だけで100通以上になったのではないだろうか。

このところ夜のお勤めが多すぎたため、じっくりデスクワークを行なう時間がなかったのも原因なのだが……。

せめてきょうは、日記くらいは手抜きで終わらせていただこう(苦笑)。

いまから丸二年前のことだ。むちゃくちゃアツい奴(当時大学4年生)と出会った。いや、アツいというより、「暑苦しい」と形容したほうが的を射た表現だ。

すでに就職活動を終えていた彼は、パフの企業向けセミナーに、学生パネリストとして協力をしてくれていた。名前をノブという。

ノブは、このセミナーのあとの情報交換会のとき、協賛企業のM社のYさんとすっかり意気投合。兄弟の杯を交わしたという。

実は僕はこのセミナー当日、頚椎を痛めてしまい救急病院に行っていた(自力で起き上がれないほど酷かった)。

なので、ノブとは会えてなかったのだが、後日パフ・ヨシカワが、「クギサキさん、ノブにぜひいちど会ってください。お願いします。クギサキさんは絶対会うべきです」と、珍しく僕に熱く迫ってきた。

ヨシカワがそこまで推すような男とはどんな奴だろう…と興味をもち、後日会ってみることにした。

なあるほど。こりゃヨシカワが「絶対会え!」と迫ってくるのも頷ける。まさに、世の中に変革をもたらすために生まれてきたような奴だった。

パフの事務所の目の前にある寿司屋に連れて行き、2時間ほど語り合った。暑苦しいほどにアツい彼の言葉と眼差しを、今でもよく覚えている。

その翌年、ノブは某総合商社に入社。本社のある名古屋に行ってしまった。その後ノブとのやりとりは年に数回のメールだけ。頻度は少ないが、送られてくるメールは、「うわっ、こいつ相変わらず暑苦しい!」とのけ反ってしまうような内容ばかりだった。

そして本日、研修で東京に出てきたノブと再会することになった。実に2年ぶりである。ノブの義兄弟であるM社のYさんと三人で、「浅草でアツく語り合おう!」ということになったのだ。

どうせならということで、僕をノブに強制的に会わせたパフ・ヨシカワ。新入社員当時、Yさんに厳しい指導を受けていたパフ・タカタ。1,2ヵ月前、ノブと偶然出会っていたパフ内定者・ツチダも誘うことになった。

そしてノブも急きょ、同僚のU君を連れてきていた。もうひとり。現大学3年生で就職活動を始める実弟のK君も連れてきていた。

合計8人の大会合である。M社のYさんも、ノブに負けないくらい暑苦しいのだが、ノブが連れてきたUさんも暑苦しかった(ノブとはタイプの違うアツさなのだが、これがまたいい!)。

この暑苦しい連中の矛先は、まだまだ暑苦しくなりきれない内定者・ツチダやノブ弟・K君に向い、 「働くとは?」「仕事とは?」「一流と二流の違いは?」「プロとは?」「生きるとは?」などなどの議論(というか説教?)を戦わせることになった。

ノブの同僚のU君が僕に質問してきた。 「20代のうちにやっておくべきことは何ですか?」と。

僕は、 「なんでもいいから、でっかいビジネスの仕掛けを作って、大失敗しろ。そして、その失敗の責任をとって辞表を出せ」と答えた。むちゃくちゃである。

さらに続く。

「辞表を出したら、そのあとパフに来い。中途で採用するから…」

さらに続く。

「ただし、もしその辞表がすんなり受理されるようだったら、こなくってもいいや」。むちゃくちゃを通り越している。

つまり、 「たとえ大失敗をしでかしたとしても、辞めてもらっては困るくらいの人材になれよ!」ということを言いたかったのである。

まあ、皆こんなことを好き勝手に延々と語り続けた暑苦しい会合だったのであるが、実に愉しかった。

 

#ちなみに、ノブには、2010年9月30日付で、パフから採用通知を出すことにした。U君には2009年9月30日付ということにした。1年ずらしたのは、二人同時の流出だと、現在の勤務先の総合商社が大打撃を受けると思ったからだ。この心配り、我ながらニクイ(苦笑)。

ノブとU君、この日記みてるかな? 今度会うときは、履歴書持参してね♪

真夏の夜の三九会だった日

2008年8月18日 (月曜日)

鹿児島出身のS社長、福岡出身のY社長、そして熊本生まれ・大分育ちの僕。3人で結成した会を三九会と呼んでいる(三人の九州出身者の集まり、という安直なネーミング)。

今年の春先に結成されたばかりだが、ずいぶん昔からの会だったような気がする。それだけ気が通じあっているということだろうか。

本日夜の8時から、久々に(実際には1か月ぶりくらい?)、この三九会の会合を行った。

仕事のこと、会社のこと、社員のこと、家族のこと……。話題は尽きない。

時間があれば、まだまだたくさん本音ベースで語り合いたいことがあるのだが、どうにもこうにも時間と体力の限界があり、中途で終了。

この三者で行うビジネスを、もっと早く、広く太くしていきたいものだ。

なお、会合の中身は機密事項のため、本日の日記ではこれ以上書けません。あしからず^^。

この日記で何回か話題にしたことのある希代の作詞家、阿久悠。今夜、NHKのBSで、4時間の特集番組が組まれており、ついつい見入ってしまった。

僕が、小学生、中学生、高校生、大学生と、多感な頃には、いつも身近に歌謡曲があった。フォークソング好きな僕であったが、実は演歌や歌謡曲も大好きだった。

僕が心動かされた歌のほとんどが、実は阿久悠の作品であったと知ったのは、ずいぶんと後のことだった。

もっとも阿久悠は、歌謡曲の作詞家という枠組みの中だけで詩を書いていたのではなかったのだと思う。 “いま”という時代や“未来”という時代への願い や、そのときどきを生きる“人々への思い”といったものを、歌手たちの歌唱を借り、世の中にひとつのメッセージとして残していきたかったのだと思う。

それにしても、阿久悠の詩の世界はすごい。短い歌詞のなかに、ひとりの人間の数十年にもわたる人生を感じさせるものもあれば、広大な宇宙を感じさせるものもある。むずかしい言葉を使っているわけではない。それこそ、小学生だった僕が理解できる言葉で、時代を、人の心を、世のなかを紡いでいる。

ということで本日は、『釘さんが勝手に選ぶ阿久悠作品ベスト20』を、以下時代順(ランキングではありません)に列挙することにしよう。

#以下、作品/歌手/発表年 です。 阿久悠ホームページ「あんでぱんだん」を参考に引用しています。

1)「白いサンゴ礁」/ ズーニーヴー/1969年 

2)「ざんげの値打ちもない」/北原ミレイ/1970年

3)「さらば涙と言おう」/森田健作/1971年

4)「あの鐘を鳴らすのはあなた」/和田アキ子/1972年

5)「若草の髪飾り」/チェリッシュ/1973年

6)「コーヒーショップで」/あべ静江/1973年

7)「街の灯り」/堺正章/1973年

8)「五番街のマリーへ」/ペドロ&カプリシャス/1973年

9)「ひまわり娘」/伊藤咲子/1974年

10)「ロマンス」/岩崎宏美/1975年

11)「時の過ぎゆくままに」/沢田研二/1975年

12)「北の宿から」/都はるみ/1975年 

13)「目覚めた時には晴れていた」/伝書鳩/1976年

14)「青春時代」/森田公一とトップギャラン/1976年

15)「津軽海峡・冬景色」/石川さゆり/1976年

16)「ヤマトより愛をこめて」/沢田研二/1978年

17)「舟歌」/八代亜紀/1979年

18)「もしもピアノが弾けたなら」/西田敏行/1981年

19)「熱き心に」/小林旭/1985年 

20)「時代おくれ」/河島英五/1986年

 

いやはや、20曲を絞り込むのがたいへんだった。最初はベストテンにしようと思ったのだが、とてもじゃないが選びきれなかったので20曲に増やした。それでも涙をのんで削った曲が山ほどある。

でもこうやって、自分だけのセレクションを眺めてみると、自分史が鮮やかに蘇る。ほんとうは一曲一曲コメントを書きたいところだが、それはまた次の機会に譲るとしよう(んなこと、誰も望んでないでしょうけど)。

ところで、いまの小学生や中学生や高校生は、30年以上たっても、このような心に残る歌に触れられているのだろうか。手軽に音楽をダウンロードでき、歩きながらでも、電車の中でも聴くことのできるこの時代。僕らの時代と比べれば、比較にならないくらい音楽が身近なものになっているのは確かだろうが、どれだけ彼らの心を揺り動かす歌(詩)があるのだろうか。30年後、彼らの記憶をたどった時に、鮮やかに蘇る歌(詩)があればいいのだが……。

完全休養した日

2008年8月16日 (土曜日)

この1週間あまり、本当に暑かった。酷暑。ひどい暑さという表現がぴったりだ。

この酷暑のなか、僕の毎日は夜を中心に結構ハードであった。昨夜なんかは極めつけ。夏バテとあいまって、そろそろ体力の限界を迎えつつある。

まあ、自らも楽しんでいるわけだから、自業自得といえばそれまでか。

とはいえ、来週もまた、連日の予定が組まれているので、ここらで少し体を休ませなければならない。

ということで、本日は、ジムもお休み。めずらしく一日中、家の中で過ごした。オリンピック中継をBGMにしながら、本や新聞をぼっと眺めながら、ほぼ何も考えずに、ぼおっと過ごした。

働いたといえば、夕立が来たときに、外出中だったカミさんや娘に代わって、洗濯物を取り込んだことくらいか(苦笑)。

たまには、こういう何もしない、しあわせな一日があってもいいと思うのだった。

大男たちと過ごしたお盆の日

2008年8月15日 (金曜日)

本日は8月15日。終戦記念日であり、お盆の日でもある。

車も人も少なく、閉まっている店も多い。世の中は、ほとんど休日モードであるのだが、僕は普段と変わらず朝から出社した。パフは、7月から10月までのあいだで、自分の仕事の都合にあわせて好きな日に夏休みを取得するようになっている。とはいえ、やっぱりこのお盆の週に休みを取る社員が多く、きょうは通常の半分くらいの社員しかいなかった。

そんなお盆の日。僕の仕事は、交渉ごとや打ち合わせで費やされた。

最後の打ち合わせ兼食事会は、銀座七丁目。

米国で勤務し、現在日本に一時帰国している友人(というか、以前ものすごくお世話になったお客様)のN氏に、M社のI社長を紹介し、N氏の相談を引き受けてもらうのがメインの目的だった。

N氏は、今度からひとつの組織を任されることになっている。いわば中小企業の社長と同じである。そしてI社長は、中小企業向けの人事・組織コンサルのオーソリティである。

N氏と数週間前にメールでやりとりしているときに、I社長のことを伝え、I社長のブログを読んでもらったら、「ぜひ紹介してほしい!」ということになったのだった。

なぜ銀座七丁目かというと……。

I社長も実は夏休み中である。N氏も休暇で一時的に帰国してきているだけである。世の中もお盆でお休みモードである。だったらリラックスして楽しめる場所がいいなと思って、銀座七丁目にある、ライブハウス(昔の日記にも書いたことのあるケネディハウスというところ)に場所を設定した、というわけである。

N氏と数寄屋橋の東芝ビル前で待ち合わせ。ふたりでケネディハウスに向かっていると、「うおおい!」という野太い声。振り返るとI社長が手を振っている。

三人並んで、店に向かうことになったのだが、いやはや、あらためて並んでみると、この二人はデカイ。I社長は183センチの長身である。N氏もI社長ほどの長身ではないが、横にもワイドであるため、I社長に引けをとらないくらいにデカイ。この二人に囲まれると、僕は子供のようなものだ。

ケネディハウスで18時半から19時半までは、真面目な情報交換。あたらめて聞くN氏の会社の仕事、なかなか興味深い。グローバル企業でありながら、ローカル企業でもある。大企業でありながら、中小企業でもある。

19時半からは、真面目な話はシャットアウト。お楽しみのステージが始まったからだ。

いんやー、楽しかった。ハウスバンドが繰り広げる60年代と70年代の音楽の世界。休憩をはさみながらの4ステージ構成だったのだが、あっというまに時間が過ぎて行った。

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気がつけば23時過ぎ。空けたワインは4本。その前に生ビールをジョッキで2、3杯は飲んでいるから、かなりの酒量である。大男たちと一緒だと、そのペースに巻き込まれて、こっちもついつい飲みすぎてしまう。

懐かしい音楽の世界でノリノリになった僕らは、「カラオケで歌おう!」という必然の流れになった。そして、ここから先の記憶が遮断されてしまっており、残念ながら思いだすことができない(苦笑)。

いずれにしろ、お盆の夜を飾るにふさわしいひとときであった。でも、ワインの飲みすぎには要注意である(反省)。

#Nさん、Iさん、お疲れ様でした。Nさん、まじめな話は、正式な帰国後に、また!

僕はその昔(中学生時代)、柔道部に所属していた。いちおう卒業時には有段者となり黒帯を締めることができはしたのだが、それは3年間、厳しい練習を続けることができたご褒美みたいなもので、公式戦では、ほとんど負け続けていた。

柔道は、個人対個人の戦いなので、チームプレイではない。しかし、中学生時代の柔道は団体戦が中心なので、個人の負けは、そのままチームの負けにつながってしまう。

団体戦は5人が出場する。僕は中学の柔道部では7番目の選手だったので、いつもは補欠なのだが、たまに他の選手の体調が悪かったり、相撲の試合と重なったとき(当時強い選手は、相撲部と掛け持ちで試合に駆り出されていた)などは、試合に出ることもあった。

そのときの僕のポジションは、大将だった。先鋒、次鋒、中堅、副将、大将の順番で、同じポジション同士が戦う。3勝したチームが勝ちとなる。僕は5番目=ラストの登場だ。僕の中学は比較的強い学校だったので、僕の順番のときにはだいたいチームの勝ちが決まっていることが多く、僕は気楽に負けることができた。

しかし、稀に2勝2敗で順番が回ってくるときがある。これは弱かった僕にとっては、とても辛いことだった。「僕の負け=チームの負け」になるからだ。

漫画や小説の世界だと、ここで奮起したり、奇跡が起きたりして、勝ちを収めるわけだが、現実にはそんなことは一度もなかった。

でも、チームの皆は、僕が弱いことを知っているので、僕が負けたとしても誰も僕を責めたり、非難したりしなかった。それどころか「よう頑張ったじゃねえか。ま、しょうがねえわい。気にすんな!!」と、サバサバしたものだった。最初から期待されていないというのも複雑な心境なのだが、極度に申し訳なく思っている僕にとっては、救いだった。

 

と、こんな昔話をいきなり書きはじめたのは、オリンピック男子柔道100Kg級の鈴木桂治が初戦敗退(しかも三位決定戦の初戦も敗退)し、そのうなだれた姿をいまテレビで観てしまったからだ。

あのうなだれ方は、悲惨である。痛々しすぎる。あそこまで自分を責める必要があるのだろうか。しかも団体戦ではなく、個人戦なのだ。「申し訳ありません」なんてコメントはないだろう。おまけに鈴木は、現役を辞めることを示唆していた。そんなこと言わないでくれ、と言いたい。まだまだ現役としてやれる年齢だ。言うなら「悔しい。もう一度基本からやり直します」じゃないだろうか。

国民や協会が期待をかけるのはわかる。僕ももちろん期待していた。でも、負けようと思って負けたわけではない。手を抜いていたわけでもない。だから、「よう頑張ったじゃねえか。ま、しょうがねえわい。気にすんな」と言ってあげようじゃないか。

オリンピックに連続出場を果たした(重量級では)日本一強い選手なんだから、こんなことで選手生命を終わりにしてほしくなんかない。

鈴木、立て、立つんだスズキ!