心のメタボ
2011年3月21日 (月曜日)
日経ビジネスの最新号(2011.3.21)を読む。「日本最大の試練」と題して緊急特集ページを組んでいた。僕の自宅に、この特集号が届いたのが金曜日(3月18日)の夜だったから、震災後まさに総力をあげて雑誌を作り上げたんだろうな。一部週刊誌が(その表現方法の配慮の無さゆえ)叩かれている昨今ではあるが、この緊急事態の中、危険を冒しながら取材し、不眠不休で記事を書き雑誌の体裁を整え、読者のもとに届ける出版業界には敬意を表したい。
で、ここで紹介しようと思ったのは、震災関連の特集記事ではなく、いつも掲載されている「心と体 ~ココロの処方箋~」というコーナーである。
今回のタイトルが、“心のメタボを防ぐ”ということもあり、最近メタボが気になる僕は、つい目をとめてしまった(苦笑)。
しかも今回の筆者は、パフが法人として契約している、神田東クリニック院長の高野知樹氏。へーっと思って、記事を読んでみた。
記事の内容は、(よく言われていることだが)ストレスを溜めこまないためにも、物事の捉え方を見なおそうというもの。
分かりやすく、「こんな思考パターンに注意」という、ストレスを溜めやすいビジネスパースン(だけじゃないだろうけど)が陥りやすい物事の捉えグセを紹介していた。
以下、転載しておくので、心当たりのあるひとは「いかんいかん」と、自分を少し楽にしてあげてみてはいかがだろうか。
特にこれからしばらくは激動、激変の環境にさらされるわけで、心が知らず知らずにメタボになっていくかもしれない。余計な脂肪は燃やさないといけませんね。
—- こんな思考パターンに注意 —-
悪玉ストレスを蓄積しやすい「認知」の例
◆全か無か思考
0か100か、シロかクロかという思考パターン、99でも不完全と捉えるため、常に不全感を覚えてしまう
◆過度の一般化
人に何か指摘を受けると、「自分はいつも注意を受けてばかり」と「いつも○○だ」と考えてしまう思考パターン
◆結論への飛躍
「今度のプレゼンは失敗する、どうしよう」と、証拠となる事実がないにもかかわらず、悪い解釈をして否定的な結論を出してしまう思考パターン
◆すべき思考
「あの人は○○すべきだ」「自分は○○しなければならない」という考え方。他人や自分を批判する気持ちが強くなり、怒りと欲求不満を溜めやすい
———- 以上 日経ビジネス 2011.3.21 「心と体」p60掲載より一部抜粋 —————-
いつも、「ま、いっか」「ま、しょうがねぇな」「なるようにしかなんねぇだろ」と思いがちの僕は、逆に心が痩せ細っているのかもしれない。メタボの人から見たら腹立たしいこと極まりないだろうな。気をつけよう(苦笑)。
仙台のS社長のメール(被災地レポート)を転載します
2011年3月20日 (日曜日)
先日の日記でご紹介した仙台のS社S社長からいただいたメール。感動的な内容だったので「釘さん日記」への転載をお願いしたら、(個人名や社名がイニシャルであれば、ということで)快諾をもらった。
かなり長いメールだけど「311」のドキュメントとして貴重な内容なので、ぜひ読者の皆さんと共有したいと思います。
※文中「大人倶楽部」とあるのは、僕やS社長らオヤジメンバー(マダムも若干名)で構成している宴会倶楽部の名称です。
———– 以下、S社長のメール(一部編集) ————-
大人倶楽部の皆々様
S社 Sです!
このたびは皆様からの温かいお言葉の剛速球、たくさんいただきました!受けとめました(ラブ・注入)心から感謝いっぱいです。本当に力がみなぎってきました。
以下、少々長くなりますが、地震当日からの私と仙台です。
311のあの瞬間、私は東京 芝公園付近でタクシーを降り、30階建ての顧客のビルに到着。 そのエレベーターに乗り込もうとした直前に揺れ始めました。
危機一髪!
乗らなかったエレベーターはストップし、しばらくの状況確認の後に、我々4人は階段で24階まで上がり打ち合わせ開始。(汗だく・・)
何回も余震を感じ、ヘリコプターの多い空、お台場の黒煙と東京タワーの先っぽが曲がるのを話題にしながら顧客との打ち合わせ終了。
その後、人人人であふれる歩道を神田(S社東京営業所)まで歩きました。
東北新幹線はストップ、ホテルも満室、営業所でエアー包装材に包まれながら、社員たちと眠りにつきました。(エアー包装材、ナイスな使い方!)
翌12日土曜日、問い合わせの電話を営業所で対応し、テレビから情報を集め、この日の東北新幹線の復旧が絶望的と知る。
社員の車を借りて神田を午後3時に仙台に出発。乗員は当社営業部長と、昨年春に東京の会社に就職したその息子さんと三人で。
「仙台の実家に帰ってきていいぞ!」と息子さんに言ってくれたその会社の上司は素晴らしい。
放射能を浴びたくないので、新潟経由を検討するも、タイヤは夏タイヤ。新潟の雪道では心配なので、4号線をひたすら北上することにする。この季節、風向きは確か西から東が多かったかな。被曝なんかするもんか!(すでに原子力発電所の異変は友人からのメールで知らされていた)
途中で食糧・水・カセットガスコンロ・車用携帯電話充電器、ウエットタオル等をしっかり購入。仙台は間違いなく売り切れだろう。
スーパーのレジで老夫婦と買占めの話題で盛り上がり、「今から仙台に車で帰るのだ、」と話すと驚いていた、明るく励まされた。なぜかふだん感じることのない暖かさを老夫婦の笑顔に感じた瞬間だった。
途中、豚カツ屋でカツカレーを、これから待ち受ける大勝負のためにしっかり食らう!
問題はガソリンだ。
福島付近以北のGSは間違いなく販売量の規制をしているだろう。ぎりぎり北上し、GSの行列に並ぶも、1台ガソリン2,000円分までしか購入できない。しかし、乗ってる車はスズキの好燃費車。ガソリンは充分だ。大量の食糧等を満載し、重量級の3人が乗ってもこの燃費と加速。日本製造業に携わる一人として誇りに思う瞬間。
夜中に東北地域に入ったせいか、予想以上に渋滞が少ない。東京を出た時にはラジオで、「宮城県庁まで100kmの渋滞」と言っていた。
福島付近を通過すると、自衛隊の緊急車両が目立ちはじめる。進めば進むほどその台数は増えてゆく。
ある交差点にさしかかる時、その隊列は一斉に右折して消えていった。彼らの頭には「被曝の危険」はないのだろうか?
そんなことを一瞬考えて、彼らを見送っている自分が恥ずかしくなった。
宮城県南に入ったところで朝日が昇ってきた。13日、日曜日の朝日。鮮やかな、本当に赤い、大きな朝焼けだ。
明るくなってきて気がついた。たくさんの自衛隊のヘリコプターの編隊が北に向かっている。そう、海のある変わり果てた北へ、だ。
急にテレビの津波の映像が蘇ってきた。
仙台近郊、岩沼を過ぎて息子さん曰く「歴史的な惨事を目に焼きつけておきたい」。
ハンドルを右に回し、名取ショッピングモール「エアリ」を通過する。「エアリまで津波が来ている」この情報が間違いだと知る。
・・・ここからだ、津波の被害は。
数年前にできたお洒落な住宅地の景色が一気にテレビの映像と重なる。波だけではないのだ、船、車、古タイヤ、木々含め、あらゆるものが波の力を借りながら破壊を続けたのだろう。
真っ黒いドスグロイ世界。
あっ! 牛がいる、二頭。元気に二頭が、泥だらけ住宅街のフェンスに繋がれている。
なぜ?
流された牛二頭を誰かがここに繋いだのだろうか?
そしてその先は、さらに悲惨な景色。
私たち三人は車から降りて、橋の上に上る。わざとらしく、格好よく言っているのではありません。本当に真っ赤な大きな朝日が昇って輝いているのです。
砕け散った景色、人一人もいない水浸し泥だらけ破壊だらけの、この朝日の昇る景色を、私たち三人はきっと忘れないと思う。
Uターンし、街中を通過しながら思う。仙台近辺、街中も、本当にダメージが少ない。倒れた塀、崩れた家、割れたガラスも見ることはできる。
しかし、本当に少ない。
だからマスコミは、災害対策本部のある宮城県庁を上空から一度映したきりで、あとはひたすら海側の悲惨な状況を取材しているのか。
県外から戻りたい我々は実は、被害が少ない、その中心部への交通状況、インフラ、食糧事情等、これから被災地の真っただ中ではあるけれど、確かに生活が営まれている地域の情報もたくさん欲しいのだ。
海側のことを考えると本当に辛くなるが、しかし、地震翌日の東京の朝、いつもの普通の朝に見れた景色も確かにここにもある。
仙台に無事に到着。
二人と別れてから自宅に戻り、大切な車を貸してくれた東京の社員に連絡し、感謝しつつ車を降りると、車の下周りにはあの地域の泥と草がびっしりこびり付いていた。一刻も早くきれいに洗車をしようと強く思った。
13日、日曜日 朝6:00。東京 神田を出発してから15時間経っていた。
前置きが長くなりました。
当社の状況です。
全社員は怪我ひとつなく皆、元気です。被害調査で二階倉庫を見ました!!重量物の荷崩れがありました。
運が良かったです。
当社の倉庫内担当者はトラックへの積み込みのため、現場を離れていて無事。
真下にいたら即死でした。
本社と工場も外観のダメージは最少。工場の機械は多少動いてしまっていますが、機械オペレータの検査では、電気が復活すれば生産は可能ではないかと。
ひと安心。
本日午前に本社の電気系が復活!(恥ずかしながら発電システムは自前ではない)。
社内神経系に当り前の電気が通い、瞬間女性社員の喜びの声が事務所にあふれる。情報システム系が息を吹き返すと同時に問い合わせ多数。
一気に社内に活気が戻る。元気に明るく、時折冗談も交えて状況説明をし始める。我々自身の努力が作り出す体制は整いつつある。
あとは、この地域への各物流会社の自由な早期乗り入れ体制と、(各社この地域一帯の集荷・配送業務ストップ中。物が全く動かせない)ガソリンスタンドでの燃料通常販売再開(1台につきガソリン2,000円~4,000円分しか販売してもらえない、緊急車両優先。しかもどのGSも大行列、6時間並んだあと、在庫が尽きて断られることも。灯油も同様)
そしてなくてはならない食料品の販売を量と種類の両面。
友人曰く。
「本日ダイエーにて買い物をしてきました。朝7時から並び、前には1000人位(徹夜組あり)いました。店は9時30分オープンでしたが私の入店は11時過ぎでした。米5キログラム、切り餅、牛乳、缶詰3Pなどは1個まで、カップラーメンは2個まで、ガスボンベ3個入り1P、ホッカイロ5個入り1Pまで、などと制限は有りましたがその他は買い放題でした(カード可)」
「入店したてはかなりの食料がありましたが、1時頃には、肉、パスタ類の乾麺、小麦粉、米、はなくなってました。米、小麦粉、乾麺は僕が入店した時はすでになくなってました。同じ4時間待つのであれば早い時間に待ったほうが良いかと思います。」
「ちょっと辛いけど5時頃から並んででも買える物を考えると、違いがあります。物資的には毎日今のところ入庫するとのことなので、欲しい方々は行ってみてください」
「ちなみに立町のドンキホーテは7時から並び、前には300人位、10時頃買い物が出来ましたが、水2リットル1本まで、カップラーメン5個まで、インスタントラーメン5個1P1個まで、ガスボンベ3個1Pまで、傘、寝袋の6品しかなかったそうです。仙台朝市も7時頃から行けばけっこう並べば買えました。」
当り前の毎日に最速で進むことを願っています。
私の家族も皆ぴんぴんしています。
春休みで東京から帰ってきていた娘は、地震当日の夜の新幹線で帰る予定でしたが、もちろん今も自宅待機です。
日曜日の朝、線路上で立ち往生している東北新幹線を見かけましたが、いつ動くのだろう。
新幹線の電柱を見ると、仙台から北の電柱の曲がりが大きいように見えます。
仙台駅の新幹線ホームの破損も気になる。地震当日夜、JR仙台駅は閉め切って帰宅難民の休み処を奪ったかのように見えた。しかし、ホームの破壊状況も含め、きっと安全のためであったと信じている。
今朝の仙台。
明るくなると、明らかに通常のヘリコプターとは違い、大きな音の救助用のヘリコプターの一団が空をどんどん北へ向かって行く。
今日もあの海へ行くのだろう。
その直後に消防車?緊急車両のサイレンが多数。大きい大きい音、長過ぎる。すごく長過ぎる。サイレンの音は、数台一緒に走って行っても、長くても十数秒ではないか?
長い長い、長い長いまだ長い。
今朝は1分30秒は続いたのではないか?
サイレンの聞こえる場所も、私の家をはさんで数か所の道路から、次から次へと聞こえ続ける。
こんなサイレン、生まれて初めてだ。消えてしまう命の数に比例するものなのか。気持ちが急に無口になった。
マイカーのガソリンが残り少ない今朝。
「ダイエットのために自転車で通勤したら、」と妻に何年も言われ続けて今日、初めて自転車のタイヤに空気を入れた。
S.K
大阪、そして銀座の日
2011年3月18日 (金曜日)
昨日は朝の4時に目覚めた。前日の夜、マー君と14年ぶりに再会し日本酒を少し飲み過ぎたため、帰宅後仕事はせずに早めに床に就いたのが良かったのかな。
急ぎのメールの処理を済ませ、その後日記を書いて、朝5時過ぎに家を出る。
大阪出張だったのだ。
M社の大阪での会社説明会。M社は被災地(被災者)以外の説明会や選考を、当初計画通り実施することになっている。
始発の新幹線は朝6時発。朝9時に会場に入る予定だったのだが、途中、米原付近の雪の影響で、新幹線が15分ほど遅れて到着。駅からダッシュして会場に向かった。
大阪は寒かった。途中で雪も降ってくるし。でも説明会そのものは大盛況。いつもどおり90%以上の出席率だった。
説明会が終了したのが午後4時。そこから猛ダッシュで新大阪に向かった。東京にとんぼ返り。夜の7時半から、某社の(元)執行役員M氏と銀座で会食の予定だったのだ。
東京駅に着いたのが(やはり雪の影響で遅れてしまい)7時10分ころ。東京駅は大規模停電(するかも)の影響で騒然とした雰囲気。こりゃ銀座までは歩いた方が早いと判断し、改札を出て早歩きで銀座へ。
そして銀座の店に着いたのが、7時30分ジャスト。すでにM氏は到着していた。
M氏とは今後のビジネスについて、いろいろと語り合ったのだが、びっくりしたのが昼間は僕の兄貴と会っていたということ。「なんと、一日にダブル釘崎対談ですか!」と思わず笑ってしまった。
話の中身はいたってマジメかつ明るかったのだが、なにせ銀座が暗い。
会談が終わってタクシーを拾って帰路についたのだが、街から灯りが奪われてしまっている。
節電で物理的な照明を落とすのはしょうがない。でも人々の心から灯りが消えちゃいかん。東京でも象徴的な建物のいくつかだけは照明を点けてもらえないものだろうか。
そう、東京の象徴である東京タワーのライトは、節電の中であっても点灯してほしいな。みな、その灯りを見ながら、心の中に明日への希望の光を灯せれば、大きな価値があると思うんだけど……。
さて、本日は本来は、地方同業者の皆さんとの連絡会議の予定だったのだが、急きょ中止となった。何人かの同業者の社長はすでに来京しているので、こじんまりとした会議を行なうことになるのかな。
こういうときに必要なのは、仲間・同志との連係プレーなのだ。
では本日も頑張って行って来ます!
14年ぶりにマー君と再会した日
2011年3月17日 (木曜日)
2週間ほど前だった。朝刊を読んでいたら見覚えのある方の顔が掲載されていた。シャキッとしたスーツに身を包んだその方は、若いビジネス(ウー)マンと一緒に和やかな表情を浮かべている。
「あれ?これはUさんじゃないか??」
あわてて、その記事(広告だった)の下の方に記載されている社名と名前を確認してみた。
社名は、K社。名前は、UM。
やっぱりそうだ。あのUさんだ。
Uさんというのは、僕がパフを創るもっと前。1994年前後から1996年くらいまで仕事でお付き合いしていた、当時の人事担当者。
しかし、新聞に掲載されているUさんの肩書きを見てびっくりした。
「代表取締役社長」となっていたのだ。
え! Uさん社長になってたんだ!!
K社はグローバルに事業を展開する一部上場の大手メーカー。そのトップに上り詰めたのである。これはすごい。
Uさんと最後に会ったのは14年前。僕がパフを創った直後に、東京駅のホームでばったりお会いして、「あ、Uさん!」と電車に乗り込もうとしたUさんに声をかけたのが最後だった。Uさんは僕がパフを創る前年に神奈川県の工場に異動になっており、もう東京にはいなかったのだ。
Uさんは豪放磊落。べらんめえ口調の豪快な方。僕がサラリーマン時代に企画・開発した人事情報システムを、ほぼ即決で導入してくださった方だった。
この新聞を読んですぐにUさんにメールを打った。するとすぐに返事があり、昨夜、急きょ再会し、食事をすることになったのだった。
いやあ、楽しかった。Uさんは昔のまんま。豪放磊落でべらんめえ(笑)。
「釘さんさあ、俺のこと、あんまり日記に書かないでくれよな。あ、マー君っていう名前にしてもらえたら書いてもいいや」
Uさんは、お孫さんから「マー君」と呼ばれているらしい。最初は「爺(じじ)」と呼ばれていたのだが、それがいやで、「爺じゃないよ。マー君だよ」と教え込んだのだそうだ。
それにしても嬉しい再会だったな。
マー君、ちゃんと日記に書きましたよ。マー君も、これからちゃんと日記を書いてくださいね^^。
今後ともよろしくお願いします!
さて。本日はこれから大阪に向かう。M社の会社説明会だ。
夜は東京に帰って、某社の執行役員と会食。また刺激的な一日になりそうだな。震災には負けないぞ。
では、行って来ます!
仙台からのメールに元気をもらった日
2011年3月16日 (水曜日)
昨日は、本来なら朝から仙台出張で、夜は地元の(15年来のお付き合いの盟友)S社S社長と久々の会合を持ち、いまごろは仙台のホテルで美味しい朝食をとっている予定だった。
が、当然この予定はキャンセル。日を改めることになった。
S社のS社長は震災当日は東京に出張していた。そして翌日から夜を徹してクルマで仙台に戻った。そこから不眠不休で事務所や工場(S社はメーカーなのです)の復旧作業の陣頭指揮にあたった。
昨日の朝、このS社長から僕の携帯に短いメールをもらった。
「S本社、インフラ回復しました。忙しくなります。 元気にいきます。」
電気、電話、社内システムが回復したのだそうだ。よかった。
そして夜遅い時間に、感動的なメールをいただいた。
金曜日の震災が起きた直後から、昨日の社内インフラが回復するまでのドキュメントを、ありありと綴った内容である。
ざっと4,000字くらいはあるだろうか。しかも、すばらしい文章、美しい表現力。プロのコラムニストも顔負けの文章なのだ。きっと昨夜、長い時間をかけて書いてくださったのであろう。
いやー、感動した。そして元気と勇気をもらった。
甚大な被害があった場所からいただいた思いのこもったメール。僕の宝物にしたい。
では本日も、仙台からもらった勇気に励まされながら、元気に行ってきます!!
深夜の報告に安堵した日
2011年3月15日 (火曜日)
僕の大学時代の先輩Hさん(僕が1年生のときの3年生)は、気仙沼市の出身。大学卒業後、海のすぐそばの実家に戻り、家業を継いでいた。
僕は、震災の日以降、気仙沼の惨状がテレビに映し出される度に先輩のことばかり考えていた。H先輩と極親しい関係にあった別の先輩や後輩たちが何度も連絡をとっていたのだが、ご自宅はもちろん、ご本人の携帯電話につながることはなかった。僕はそのことを聞き、(もちろん口には出せなかったが)なかば諦めかけていた。
ところが昨夜(深夜11時過ぎ)、ひとりの後輩がダメ元でHさんの携帯に電話を入れてみた。すると、なんとそのHさんご本人が電話に出たとのこと。ご無事だったのだ。よかった……。
H先輩は、まさに震災の日に東京に来ており、間一髪、難を逃れたのだという。
しかし、あまりのショックで外部との接触を一切断っていたらしい。地元にいるご家族や周囲の人のことを思えば当然のことだろう。僕等が安易に想像することのできない(想像することさえ失礼かもしれない)複雑な心境であったのだろう。
H先輩は、田舎者の僕が都会に馴染めずにいるときに、(同じ田舎者として)毎晩のように下宿に招いてくださり、話し相手になってくれた方である。卒業後、1、2回お会いしただけで、もう30年近くご無沙汰しているのだが、こういうときこそ、31年前にいただいたご恩をお返ししたい。
ともかくも、ご無事でよかった。生きてさえいれば何とかなる。希望を持とう!!
いま目の前の仕事を誠実に懸命に。そして少しの思いやりを忘れずに
2011年3月14日 (月曜日)
未曾有の大災害、大惨事に遭遇し、どうしたらいいか分からない人も多いと思う。僕も自分自身の非力さを歯がゆく思う。
しかし、こんなときこそ、センチメンタルに浸ったり、過剰反応して余計なことをするのは、よろしくない。
特別な役割を任じられた人や、公的な力を持った人(多くの人に与える影響力や専門能力を持った人を含む)を除いては、粛々と、自分自身の日常の仕事を100%実行することが一番であると思う。そしてその仕事は、いま困っている人たちに配慮する必要があるものかどうか。ちょっと工夫することで、困っている人たちの役にたつことはないかどうか。そんなことを考えながらの仕事であれば申し分ない。
ちなみに僕は、きょうは(家の必需品の買いだしの3時間以外は)終日自宅にいて、テレビのニュースを聴きながら、TwitterのTLを眺め、有用な情報をリツィートしていた。知り合いから得た安否情報、現地情報なども、知人への共有のためにツィートした。あと、よろしくない(と思われる)著名人のツィートに牽制球を投げたりした。
以下、僕のツィートを(リツィート含め)集めたものである。よかったらご覧ください。
http://twilog.org/kugisaki/date-110313/asc
さて、では目の前の仕事をするために、これからきちんと睡眠をとって出社することにしましょう!