パフ代表の徒然ブログ「釘さん日記」

CFOだった日

2009年8月13日 (木曜日)

CFOとは、最高財務責任者(Chief Financial Officer)のこと。パフには現在、CFOと呼ぶべき人物はいない。でも会社の機能としては不可欠なもの。なので(考えたり、交渉したり、判断したりする部分は)僕が兼務している。

きょう午前中は、とある証券会社の社長と打ち合わせをしていた。創業時からなので丸11年以上のお付き合い。時節柄たいへんなはずなのに、とことん前向きで明るい社長だ。大切な話をしたあとは、専門的なことをいくつか教えていただいた。

午後は、とある銀行の担当者と打ち合わせ。この銀行の担当者は入行2年目の女性。銀行員っぽくないキャラで、いじり甲斐がある。まだまだ僕のほうが金融知識でも優っているようなので、これからいろいろ教えてあげなきゃな。

その後、IR関連の書類をドサドサと。

夕方、某パートナー企業のCFOとロングミーティング。なんと社長も飛び入りで加わってきた。

とある課題にたいして、ああでもないこうでもないと、シミュレーションしながらのブレスト。約2時間半、休憩も取らずに集中的に議論した。その後、第二部として、このCFOと、社長と、もう一社のパートナー企業の社長と、4人で場所を移して、食事をしながらの情報交換。「へーっ」という初めて聞く話も出てきた。

金融、財務の世界は奥が深い。とても難しいのだが面白い。もっと突っ込んでいくと楽しくなるかもしれない。

ということできょうは、CFOな一日だったのだ。

7月26日の日記で、知覧に行って涙したことを書いた。そのときの日記で僕は、こう書いた。

「知覧のことはまた改めて書いてみたい。多くの若者たちに(うちの社員たちも含めて)、ぜひこの特攻隊員の遺書を読ませてやりたい。自分の悩みがいかに小さなものか。いまの時代がいかに恵まれたものであるか。わがままな自分と贅沢な時代に、きっと気づくことであろう。」

で、先日のメルマガのコラム「どげえするんか」で書いた。めずらしく(?)まじめに、緊張感をもって書いた。メルマガだけで終わらせるのももったいないので、この日記にも転載することにしよう。今週末は終戦記念日だし。戦争と平和、幸せとは何か?大切なことは何か?なんてことを考えてみてはどうだろうか。

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01】釘崎の「どげえするんか?」

 第30回 鹿児島の知覧をいちど訪ねてみんか?

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 パフ代表釘崎が、現在の採用市場、就職活動、世の中のあれこれについて、

  日々感じることを徒然なるままにお届けします。

  ※「どげえするんか?」=大分弁で「どうするんだ? どうしたいんだ?」

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 もうすぐ64回目の終戦記念日がやってきます。

 日本が戦争の大きな痛手から立ち直り、経済白書が「もはや戦後ではない」

 という言葉を使ったのが1956年(昭和31年)。私は、それから4年後の昭和

 35年(1960年)生まれですから、まさに「戦争を知らない子供たち」の世代

 ということになります。

 しかし、私の父親は終戦の年に、旧制中学から予科練(海軍飛行予科練習生)

 に志願していたこともあり、幼いころ、よく戦争の話を聞かされていました。

 「終戦が、もうあと何週間か遅かったら、(父親は)特攻隊で出撃していた

 んかもしれんとよ。そしたらば、あんたたちが生まれてくることはなかった

 とよ」と、母親が、くどいくらいに話してくれていたことをよく覚えていま

 す。

 また私が小学生のころは、8月6日、8月9日、8月15日という特別な日は、

 全員が体育館に集められ(夏休みだけど登校日だったんですね)、平和授業

 を受けたものでした。

 私は、「戦争」というものを、身近に感じることのできた最後のほうの世代

 なのかもしれません。

 ☆☆☆

 日本は一切の戦争を永久に放棄した国です。戦争による(一般市民をも巻き

 添えにした)夥しいほどの犠牲者を出した国だからこそ、国境を越えて多く

 の人たちに、戦争の悲劇を語っていく義務と責任を、私たちは担っているの

 だと思います。

 人の命は何ものにもかえ難く尊いものであるということを、私たちは、若い

 世代に対しても語り継いでいかなければなりません。

 ☆☆☆

 そんなことを考えていたこともあり、ぜひ一度行かなければ、と思っていた

 場所があります。

 それは、鹿児島の知覧です。JRの鹿児島中央駅から車で約1時間半。薩摩

 半島の山の中にある小さな町。この町から、多くの若者たちが特攻機に乗っ

 て沖縄方面に飛び立ち、尊い命を落としていったのでした。

 最近、映画やドラマで描かれることがしばしばあったため、比較的多くの人

 たちに知られるようになったのですが、それでも、まだまだ若い人たちへの

 認知度は低いようです(パフの社員に聞いてみたところ、半数以上が知りま

 せんでした)。

 つい先日(2009年7月26日)、念願叶い、知覧に足を運ぶことが出来ました。

 大雨のさなか、限られた時間だったのですが、多くの遺品や遺書が展示され

 ている知覧特攻平和会館を見学してきました。

 ぎっしりと並んだ遺影と遺書と手紙。

 屈託のない笑顔が並んだ写真と、達筆な筆文字で書かれた一つ一つの遺書や

 手紙に、胸を打たれました。皆、20歳前後の若者たちが遺したものです。

 ・自らの迷いを打ち消すために書かれた遺書。

 ・自分の気持ちを鼓舞するために書かれた遺書。

 ・母親に、自分を生み育ててくれたことを感謝する手紙。

 ・妹や弟に、自分の出来なかった親孝行を託す手紙。

 ・妻と幼き息子に、自分亡き後も、力強く生きて欲しいと願う手紙。

 出撃の前夜。狭く暗い兵舎のなかで、隊員たちはどんな思いでこの遺書や手

 紙を書いていたのでしょうか……。

 無念さを押し殺しながら、愛する家族の明日を気遣うための言葉を、一文字

 一文字、綴っている隊員の姿を想像するだけで、私は胸が締めつけられる思

 いでした。

 ☆☆☆

 64年経った現在。日本には戦争で命を落とす若者はいません。平和な時代で

 あるといえるでしょう。

 しかし、人の命を尊ぶ心、親兄弟への感謝の気持ち、妻や子供への愛、隣人

 や国を大切にする心。こういった、特攻隊で死んでいった若者たちにとって

 は至極当然だった気持ちや考え方が、いまの時代を生きる日本人には(平和

 であるがために)欠如しがちなのではないだろうかと思えてくることがあり

 ます。

 戦争は二度と繰り返してはいけないものですが、戦争によって学ぶべきこと

 はたくさんあります。

 普段よりも子供たち(自分の子供だけに限らず)と接する機会が増えるこの

 夏休み。いっしょに戦争の映画やドラマを観ながら、人が人として大切にし

 なければならないことを語り合う時間に充ててみてはいかがでしょうか。

 人事担当者の皆さんや、採用や教育に携わる同業者の皆さんには、ぜひ一度、

 鹿児島の知覧に足を運んでみることをお勧めします。自分の仕事の社会的意

 義や意味を、あらためて考える機会になるのではないかと思うのです。

 【今回のどげえするんか?】

  親のスネをかじりながら大学に通い、就職活動の時期になると、目先のエ

  ントリーシートや自己分析で悩んでいる学生たち。社会人になって、仕事

  で壁にぶつかって、「こんなはずじゃなかった」と嘆いちょる新入社員た

  ち。

  みんな、知覧を飛び立っていった特攻隊員と同年代なんじゃのう……。

 

  お前たちの悩みや苦しみの小ささは、僕たちがいくら言うても分からんか

  もしれん。でも、知覧に展示されちょる隊員たちの遺書や手紙を読めば、

  きっとよう分かると思う。

  こんなちっぽけなことで悩んでいる自分が恥ずかしい。自分たちは、いか

  に平和で恵まれた時代を生きているのか。いやでも、そう気づかされるん

  やないかと思う。

  僕は、僕たちが過去の戦争から人間としての大事なことを学ぶことこそが、

  戦争で死んでいった人たちに対する最大の弔いになるんじゃと思う。

  あんたは、どげえ思う?

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今夜の帰り道でのこと。

会社を出たのは夜の10時半ころ。大通り(晴海通り)に入ったすぐのところで、勝どき方面に走っていく自転車と遭遇した。自転車に乗っているのは、若い女性だ。

自転車が僕を追い越したその瞬間、女性は、ポーンと火のついた煙草を歩道に放り投げた。煙草は僕のすぐ目の前をコロコロと転がっていき、天丼屋さんの玄関先で止まった。

「おい、自転車から煙草のポイ捨てとは何事だ! しかも中央区は路上での歩き煙草は条例で禁止されてるんだぞ!! 拾え!!!

と、怒鳴ってやろうと思ったのだが、自転車はもう遥か先に行ってしまっていた。

「ったく最近の若いやつらはしょうがないな。しかも女なのに煙草のポイ捨てとは何事だっ」と、ムカムカしながら歩いていた。

築地市場の交差点まで歩いてきたところでビックリ。

さっきポイ捨てをした女性が、信号待ちをしていた。

「よーし、説教してやる!」と意気込んで、その女性の自転車のすぐそばまで近づいた。

顔を覗いてみた。

なんと、かなりの美人だ。しかも、かなりキワドイ服装である(へそが丸みえで胸元も大胆なタンクトップ)。耳にはヘッドホンラジオ。口には新しい煙草をくわえていた。

正直、ビビった。一瞬、声をかけるのを躊躇してしまった。

えぇーいと勇気を振り絞って「お、おい!」と声をかけようとしたときだった。信号がまだ赤なのに(交差する信号が赤にかわった瞬間)、その女性は、猛スピードで走り去ってしまった。

あ、あ、あぁぁぁぁ、ま、まって……と思っても、もう遅かった。

しかもその女性、僕を嘲笑うかのように、またも煙草を横断歩道を渡りきるところでポイ捨てしていった。

く、くっそー!!

ボウリング大会で負けた時よりも悔しかった。この敗北感、かなりのものだ。

なぜ叱れなかったんだろう。

美人だったから? 周囲に人がいて恥ずかしかった? 逆切れされるのが怖かった? ストーカーだと騒がれるんじゃないかと思った?

ビビって躊躇した瞬間、こんなことを考えていたようだ。

ああ、悔しい。

今度こそ、あの女性をみつけたら、叱ってやる!! 

週の始まりは豪雨だった日

2009年8月10日 (月曜日)

きょうから夏季休暇という会社も多かったようだ。

が、パフは普通どおりの営業日。パフの夏休みは、各自、自分の仕事やお客様の都合にあわせて、10月末までに取得するようになっている。

自分の好きな時に休めるので、自由度が高いといえば高いのだが、一斉休業とは違って、自分自身のコントロールがきちんとできないと、かえって休みづらい。なかなか大人なルールなのだ。

そんなわけで、パフにとっては普通の週の始まりの本日。東京は明け方から、とんでもない豪雨だった。朝5時に雨の音で目が覚めたくらいだ。

いつもは会社までの道のりを20分かけて徒歩通勤しているのだが、さすがに今朝は、バスを使うことにした。

しかしながら、バス停まで徒歩10分かかる。この10分だけで、下半身がびしょ濡れになってしまった。

きょうは外出する用事も来客のお客様もなかったので、会社では草履ばきを通してしまった(ホントはだらしなく見えるので、いかんのですよ)。

豪雨の原因は、突如、日本の太平洋側沖合いに発生した台風にあるらしい。昨夜までは天気図になかった台風のマークが今朝の天気予報ではしっかりと載っている。昨夜は大きめの地震があったばかりだし、なんだかここ最近の異常気象は気味が悪い。

自然に逆らってはいけない。「環境にやさしい」が最近のはやり言葉だが、自然は人間に優しくなんかない。というか、人間を特別扱いはしてくれない。

自然に順応しながら生きていくためには、自然な(無理をしない)生き方、暮らし方がいちばんなのかもしれないな。

でもそれは、決して流された主体性のない生き方ではない。自然に生きていくためには、強い信念を伴った志が必要なのだ。自然は甘くないのだから。

ともあれ、明日は豪雨にならないことを祈る。もし豪雨だったら、豪雨と仲良くなる道を探るとするか。

昨夜は夜7時から、『東京湾大華火祭』が僕の自宅からほど近い晴海で行われた。

この花火大会は、中央区が1988年から実施しているのだが、今年でもう22年目になる。第一回大会から第三回大会までは、僕は本当にすぐそば(勝どき二丁目)に住んでいた。このころは付近に高いビルもなく、よく見えたものだ。

しかし、21年経ったいま。花火の全景は、よほど近くまで(あるいは高い場所まで)いかないとなかなか見えない。高層ビルやマンションが、うじゃうじゃと建ってしまったからだ。見えるのは人の波ばかり。茶髪&ピアスの、わざとだらしなく着物を身にまとっている若者たちが群れをなしてたむろしている。

こんなんだから東京の花火大会は情緒がないんだよなぁ。

とはいえ、年に一度のご近所の花火大会。草履をひっかけて、良く見えるところまで散歩に出かけ写真を撮ってきた。せっかくなので、この日記にもアップしておこう。

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花火の翌日の本日(日曜日)。僕は会社に出勤だった。

職学校Web2011】の『校長が行く』という対談企画コンテンツの取材を行うためだ。

本日で第三回目を迎えるこの対談。第一回目は、今年就職活動を行っていた現役大学生。第二回目は、協賛企業の現役人事部長。そして第三回目のきょうは、今年就職したばかりの社会人一年生がお相手だった。

某製薬会社で研究職として勤務している真部唯(まなべゆい)さんと、某広告会社で営業職として勤務している小橋大祐(こばしだいすけ)くん。休日であるにもかかわらず、わざわざ築地まで来てくれた。聞けば、真部さんは、わざわざ研究所のある静岡から来てくれたという。ただただ恐縮&感謝である。

「校長が行く」っていう企画なのに、校長は行かずに、対談相手に足を運ばせてしまうという不遜な企画だったわけだ(苦笑)。

約90分の対談は無事終了。就職活動をしていたころの話、入社して4か月経ったいまの話など、いろいろ聞かせてもらった。

ふたりと最初に会ったのは、いまからちょうど2年前。パフのセミナールームで開催したイベントや塾でのこと。彼らが大学3年生の夏だった。それがいまでは立派な社会人。嬉しいもんだ。

対談終了後、皆で記念写真をパシャッ。

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ウェブでの公開は8月末ころになるという。

乞うご期待です!!

昨日の日記の続きである。

伊那食品工業株式会社とは、寒天のトップメーカーである。トップメーカーとはいえ、資本金9,680万円、従業員数400名弱の中小企業である。しかも本社所在地は、長野県の伊那の山の中。

しかし、この中小企業が、いまとても注目を浴びている。

それは、まさに昨日書いた、『いい会社をつくりましょう』という社是に集約される。

同社は、『いい会社』のことを次のように説明している。

—–

「いい会社」とは、単に経営上の数字が良いというだけではなく、会社をとりまく総ての人々が、日常会話の中で「いい会社だね」と言ってくださるような会社のことです。「いい会社」は自分たちを含め、総ての人々をハッピーにします。そこに、「いい会社」をつくる真の意味があるのです。

—–

「業績を守る」という大義名分の下、従業員や下請けを不幸にしている会社が多い中、同社のこの社是がいま注目を浴びているのである。多くの大企業の経営者が、その真髄、真意を確かめるために、同社を訪れているという。

この社是を掲げ、同社を今日まで牽引してきたのが塚越寛(つかこしひろし)会長であるのだが、塚越会長は、創業者ではない。

塚越会長は高校生の時、肺結核を患い、高校をやむなく中退。病院での闘病生活を3年間過ごした。医学の進歩もあり病気は完治するのだが、世は大変な就職難の時代で、高校中退の学歴のものを雇ってくれる会社はほとんどなかったという。

そんな中、困窮した「塚越少年」を採用してくれたのが、伊那食品工業の親会社の木材会社だった。塚越会長が弱冠20歳のときである。 「拾われたようなものだが、働けるだけで幸せだった」と、本人は著書で語っている。

塚越会長が21歳のときのこと。社員数10名ちょっとの寒天を作る会社に行ってくれと、その木材会社の社長に言われた。ところがその会社(つまり伊那食品工業のことです)は、脆弱な生産設備しかない大赤字を背負った会社。「会社を健全な状態にすること」というのが、塚越会長に命じられたことだった。肩書きは「社長代行」。弱冠21歳の、寒天についても経営についてもまったく無知な若者の、実質的な社会人のスタートだったのだ。

あたりまえだが、とにかく大変だったそうである。「ほかの会社に転職したらどうだ」と周囲の人から勧められることもあったそうだ。

その時、塚越会長は次のように考えたそうだ。著書から引用する。

——-

人間どこで苦労するのも同じ。目先の利益を案ずるよりも、与えられた職業を天職と思い、とことん努力すべきではないか。精一杯努力してベストを尽くし、それでだめなら仕方ない。けれど、少し働いて上辺のつらさを垣間見て、あまり努力もしないで、あれが良い、これが良いと職を変えるべきではない。

(中略)

人と職業の出会いは、ほとんどが運命的なものです。だれもが一番望む職業についているわけではないと思います。

時代が変わって、「自分がやりたい仕事をすることが一番いいことだ」といまの若いみなさんは言いますが、何が自分に一番向くかということは、案外分からないものです。その仕事に精通し、その仕事が人一倍できるようになったとき、また自分の考えで仕事を進めることができるようになったとき、仕事は楽しくなるものだと思います。

積極的な気持ちで、「寒天屋」を自分の天職と考え、働いてきた結果として、いつのまにか業界のトップメーカーになっていたというのが、いまの実感です。

——–

まさに、僕たちパフが若者たちに伝えているメッセージと同じなのだ。だから僕は、このことを仰っている塚越会長にいちどお会いしたいと思っていたのだ。

 

今回の訪問は、塚越会長と以前から親交があったという、出版社の元編集者の方(中馬さんという、僕らと同年代の女性の方)のコーディネートで実現した。僕を入れて11名の経営者仲間が同社を訪問できることになったのだ。

バスに揺られること3時間半。お尻が痛くて我慢できなくなったころ、伊那市のバス停に到着した。そこからさらにタクシーで15分。ようやく伊那食品工業の広大な敷地に辿り着いた。

同社が運営するレストラン(一般市民にも開放されている)で昼食を済ませた後、本社事務所の立派な会議室に通された。

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ほどなくして、塚越会長と、息子さんである塚越専務が入室されてきた。

会長は72歳のはずなのだが、50代と言われてもおかしくないくらいに若々しい。エネルギッシュな方だった。

専務は40代なかばであろう。気さくで人懐っこい笑顔が印象的だった。

約1時間、塚越会長に講義いただいた。そしてその後、塚越専務にバトンタッチされ、さらに詳しい質疑応答や、敷地内のさまざまな施設を回りながら、懇切丁寧に僕らにご説明くださった。まるまる3時間以上を、会長と専務が僕らの為だけに割いてくださったことになる。

お話いただいたことは、(あたりまえだが)ほとんどが著書に書いてあることと同じではあるのだが、やっぱりご本人が目の前で語ると説得力がある。

塚越会長が繰り返し仰っていたのが、「企業としてあるべき姿を目指す」ということ。

企業の目的は「永続」である。だから、社員を大事にする。自分は臆病で会社を潰したくないから、社員を大事にする。あたりまえのことを淡々とやる。

急成長は会社をダメにする。誰かが急に伸びれば誰かが潰れる。だから、少しずつの末広がりの成長を望む。

こんなことを仰っていたのが印象的だった。

同社は、社員に数字目標を課していないという。また、年功序列を原則としているという。ただただ「いい会社をつくる」ために、「会社としてのあるべき姿を追求する」ために、社員には「ベストを尽くそう」と言っているとのことだった。

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同社は、資本金が1億円にも満たないというのに、純資産は170億円もある。建物や工場・設備の資産も莫大だ。自己資本比率は74%。超優良企業なのである。

これだけの財務内容の会社だからこそ、理想を語れるのか。それとも、理想を語り続けたからこそ、これだけの優良企業となったのか。

前者のような見方をしてしまうのは寂しいのだが、でも、理想を語りたくても語れない会社や経営者が多い中、やっぱり、前者のような見方もあるだろう。

大赤字でニッチもサッチも行かなかった同社を、どうやってここまでの盤石な会社にすることができたのか。きっと綺麗事だけでは済まない、いろんな出来事があったのではないかと思う。そんな話も、(また機会があれば)次回はお聞きしてみたいと思った。

 

いやあ、それにしてもいい機会をいただいた。

企画してくださった中馬さん、ホントにありがとうございました。バスの中でいただいた手作りの「おにぎり」も、とっても美味しかったです。また有意義な企画を楽しみにしています。これからも、よろしくお願いいたします。

 

<追伸>

あえて説明はしませんが、宿泊先で撮影した写真(写っているのは誰だ?)と、翌日帰り道に立ち寄った凄い菓匠の店(Shimizu)の写真も載せておきます。

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『いい会社』を学んだ日

2009年8月7日 (金曜日)

企業が掲げている理念や社是や社訓には様々なものがある。パフならば、『世界で、たったひとりのあなたのために』ということばが企業理念となっている。パフの価値観、企業活動のよりどころとなっていることばだ。

ところで、 

『いい会社をつくりましょう』 

ということばを、社是として掲げている会社がある。

この社是と出会ったのは4年前。この社是を考え、掲げ、実践している経営者が書いた書籍を4年前に読んだことがある。

すごい!びびっときた。パフも、こういう会社にしていきたいと思った。ぜひ一度、この会社に訪問し、この経営者にお会いしたいと思った。

そして4年越しの本日、その念願が叶うこととなった。

その会社とは、長野県の伊那食品工業という会社である。

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朝、8時のバスに乗って長野県の伊那市を目指したのだった。

(この続きはまた明日の日記で書きます!あ、パソコンのバッテリーがなくなりそう)