いよいよ第24期も大詰めです。
2020年6月26日 (金曜日)
第24期末まで、あと3営業日となりました。
ほぼすべての売上(請求)と経費を本日の朝をもって締め切って、決算業務に突入します。
朝から公認会計士兼税理士さんに来ていただいて、議論を重ねたうえで決算の方針を固めます。
売上については、方針もへったくれもなくあっさり決まりますが、費用計上や資産計上についてはなかなか難航しそうです。
パフでは営業利益と賞与とが完全連動しており、営業利益の三分の一が賞与になります。
たとえば営業利益が3億円だとすれば、賞与原資は1億円になります(あくまで「たとえば」っていうことですよ笑)。
営業利益は「売上-売上原価-販管費」ですから、賞与原資を増やすためには、売上をたくさん上げて、原価や経費をできる限り減らすことが必要になります。
ただ、苦労して上げた利益の約35%は税金として納めないといけないので、会社に残るお金はごく僅か・・・ってことになってしまいます。
もちろん納税は社会の公器たる企業の義務。たくさん払うのはやぶさかではないんですが、とはいえ将来に向けての事業資金も蓄えていかないといけませんし、株主の皆さんへの配当金の支払いもあります。
社員にはたくさん賞与を払いたいけど、お国への税金はある程度のところで抑えたい。株主さんにも配当をたくさん払いたいけど、会社にもある程度はお金を残したい。
毎年の決算業務でうんうん悩むのが、ここらへんのバランスなんですよね。
ということで、今日からしばらくのあいだ、決算処理で悩む日が続きそうです。
では、朝食&エール後、悩ましい決算の打ち合わせに行ってきます!
新・パフの創業物語<第14話> 「ぜんぜん売れない2人の営業マン」
2020年6月25日 (木曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第14話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1983年3月初旬。
リクルートで就職情報誌の営業マンとして働きはじめて2ヶ月が経とうとしていました。
昔は「リクルートブック」という分厚い就職情報誌が、大学4年生の自宅に段ボール一杯に詰められて届けられていました。
1社1ページ~4ページほどの会社情報が掲載されており、またご丁寧に資料請求用のハガキまで別冊でセットにされた、就職活動を行う学生にとってはアリガターイ就職情報誌だったわけです(今でいうと、リクナビが数十冊の本になって、各学生の玄関先まで宅配されるイメージです)。
で、僕がリクルートでやっていた仕事というのは「御社の採用情報をリクルートブックに掲載していただけないでしょうか」と、いろんな会社に営業して回る仕事。
我が神田営業所のテリトリーは、千代田区神田の中小企業がひしめき合うところ。僕たち営業A職(当時4名)は、新聞とか帝国データバンクの会社年鑑とか、学校の求人票とか、ライバル情報誌とか。とにかくどこかしらから新規の営業訪問先を独力で見つけてくるところからが仕事でした。
会社からは、どこそこに営業に行け!という指示は一切なし。とにかく自由というか放任というかいい加減というか。半端な学生を恐いくらい自由に泳がせてくれていました。
とはいえ、目標達成に対してはシビアで、僕は当時3ヶ月で1,000万円ほどの売上げ目標を持たされていました。
しかし・・・売れない。ぜんぜんっ!もう2ヶ月も経とうとしてるのに。
だいたい、アポイント(電話して訪問する約束をすること)がとれない。30件中29件は、「結構です!」と“けんもほろろ”に断られる始末。
営業所には全営業マンの売上高を示す棒グラフが貼られているのですが、僕の所だけ1ミリも色がついていない。
「あちゃー、こりゃマズイな・・・」。かなり焦っていた時期でした。
そんな状況の中、救いだったのが、ムライミツルという内定者A職の存在でした(前号参照)。
このムライという男、(人前で屁をこくのが趣味の男なのですが)やっぱりたいして売れてないくせに、極めて堂々かつ飄々としており、とても学生とは思えない心臓に毛の生えたような人物でした。
この物語から約30年後(2014年だったかな)パフに遊びに来たムライさん
そのムライ氏がある日、
「おーい、クギサキー、東神田の方にさ、俺の親戚が重役をやっているアパレル関係の会社があるんだよ。よかったら一緒に営業に行こうぜ!」
と、実においしい営業先を紹介してくれたのでした。
「はい、いきますいきます。売れますかね?ムライさん」
「おー、売れる売れる、任せとけ。新規一発で、1,000万円よ。売上げは俺とお前で折半だな」
藁をもすがる思いだった僕は、このムライ氏の根拠のない1,000万円に大きな期待を持ってしまったのでした。
そして訪問当日。先方の会社に2人で勢いよく乗り込んで、ああだこうだ、いろんな説明をするのですが人事担当者は無表情に一言。
「いやー、採用の予算はほとんどありませんので……」
夕日が西に沈みかけた東神田からの帰り道。僕とムライ氏は、両手に分厚い見本誌を抱えてトボトボと営業所に向かって歩いていました。
「クギサキさー、俺たちなんで売れないのかなー…」
ムライ氏から聞く初めての弱気な発言。そうか、ムライさんといえどもやっぱり売れないことを少しは気にしてたんだ。ムライさんは来月から正社員だしな。
「ム、ムライさん、元気出しましょうよ。あ、ムライさん、まずい!」
「え?」
「僕たちの歩いているこっち側の歩道は日陰ですよ。 向こうに渡りましょう、向こうに。せめて日の当たる道を歩いて帰りましょうよ」
「そ、そうだなクギサキ。日の当たる道を歩いて頑張ろうな!うぅぅっ(感動の涙)」
そして、それからしばらく経った3月中旬のある日。売れない営業マン釘崎青年に、電撃的な初受注の日が訪れるのでした。
脚色しているようにお思いでしょうが、これはまったくの事実です。いまでもムライさんと会うとこの日の出来事を酒の肴にしています(笑)。
このムライさんは物語の終盤(パフの創業直前)に再登場しますのでどうぞお楽しみに。
さて、本日は雨ですが、午後から客先で研修のお仕事です。客先に訪問するのは3~4か月振りくらいではないでしょうか。
では朝食&エール後、久々にネクタイを締めて行ってきます!
人材業界とパフの歴史をレクチャーした日
2020年6月24日 (水曜日)
昨日から、インターン生が1名入社しました。
といっても、勤務地はパフではありません。約3か月間のリモート勤務です。
来年の秋にアメリカの大学(カリフォルニア大学サンタバーバラ校)を卒業する予定の学生です。
どうしてパフでインターンをすることになったのか詳しい経緯は聞いていませんが、「人材業界とパフについて2時間でレクチャーしてください!」という依頼(命令?指示?無茶ぶり?)が先週急に降ってきて、昨日の午後、そのレクチャーをすることになりました。
「そもそも人材業界っていつごろ日本で生まれたんだと思う?」
なーんていう話から始まり(答えは江戸時代です)、ひと口で「人材業界」といっても様々な業態、サービス、ビジネスモデルがあることを説明しました。
それが前半の一時間。
後半の一時間は、そんななかでパフはどんな位置付けなのか。創業前から現在までのパフの歴史を説明しました。
といっても、22年間(創業前まで入れると38年間!)の歴史を一時間で語るのは難しく、以下のような区分を作って、今につながるその時々の出来事にフォーカスして話をしました。
①創業前(1983年~1997年)
②創業期(1997年~2000年)
③揺籃期(2001年~2005年)
④成長&混乱期(2005年~2008年)
⑤リーマンどん底期(2009年~2011年)
⑥試行錯誤期(2012年~2016年)
⑦業績J字回復期(2017年~2019年)
⑧世代交代、新時代期(2020年~)
この時代区分やネーミングが適切かどうかはともかくとして、振り返ると、まあ大変なことがたくさん詰まった歴史です。
「この8つのなかで、いちばん聞きたいのはどの時代?」と質問したら、「リーマンどん底期!」という明るい答えが返ってきましたが(笑)。
短い時間ではありましたが、22年の歴史を語ることで、パフが大事にしていることや世の中に提供しようとしている価値が少しでも理解してもらえたのならうれしい限りです。
いま日記で不定期に再掲連載している「新・パフの創業物語」を読んでもらうのもいいかもしれないですね。読み終わらないうちにインターンシップの期間のほうが先に終わってしまいそうですが💦
さて、本日は出社日です。
取引銀行とのリアルな打ち合わせ&手続きです。長い歴史と物語をこれからも紡いでいくためには、先立つものが必要ですからね。
では、朝食&エール後、ウォーキングで行ってきます!
新・パフの創業物語<第13話>「運命の男、Mとの出会い」
2020年6月23日 (火曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第13話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1983年1月。
正月休みも終わり、田舎から下宿に戻った僕のもとに一本の電話。
「リクルート神田営業所の若杉ですが・・・」
(注:若杉さんとは、ニコニコしながら僕を面接してくださった所長さんです。当時30数歳くらい)
「あっ、ど、どうも…。その節はありがとうございました」
「いえいえ、どういたしまして。さてところで先日の試験の結果ですが……」
そう、試験とは、抜き打ちで受験させられたSPIのことです。その結果如何ではアルバイトといえども採用されない、ということだったので、僕は半ば諦めかけていました。
ところが若杉さんから発せられたつぎの言葉は・・・
「ぜひね、すぐにでも働いてもらいたいのですが、いつから来られますか?」
おー、やったー! 日給1万円の仕事にありつけたぜ!
その後、どんなにつらい苦難が押し寄せるかも知らずに。嗚呼、可哀想な釘崎青年の運命の1ページはこうして幕を開けたのでした。
👆この物語から35年後の若杉さん(僕の左横)です
(2017年12月、パフ20周年にお越しいただいた際に撮った当時の神田営業所のメンバーとの写真より)
1983年1月下旬。
大学の後期試験を無事に済ませ、リクルート神田営業所への初出社の日。
職種は営業であるため、スーツ&ネクタイ着用が義務づけられており、僕は商店街で買った安売りのスーツに身を包み、緊張しながら事務所に入っていったのです。
そこには既に僕の机と椅子が用意されていました。庶務のお姉さんからは営業マン用のダイアリー、文房具一式を手渡され、そして何よりビックリしたのは、所長の若杉さんから、
「おい、釘崎(すでに呼び捨てモード)、今日からよろしく頼むぞ。これがおまえの名刺だ」と、釘崎清秀の名前がバッチリ印刷された、カモメのロゴマーク入りの名刺をもらった時でした。
僕 : 「へー、アルバイトでも名刺を持ち歩くんですねー」
所長 : 「リクルートじゃね、アルバイトとは呼ばないんだ。A職といって、普通の社員営業マンとまったく一緒の仕事をしてもらうんだ。もちろん仕事の時は学生であることは忘れてもらうし、客先では、キミがまだ大学生だなんて絶対明かさないこと。いいね」
何やら大変なところに来てしまったようだ・・・と思っても、もう後の祭り。とにかく、まずは馴染むまで様子見だな。
そんなことを考えながら、ぼーっと自分の席に座っていたら、隣の営業マンが自分のリストを半分僕に手渡して、「俺、これからこのリストのお客さんにアポイントの電話を入れるから、真似してかけてみてよ」と言いました。
「あ、ど、どうも」と答えて、しばらくはその営業マンの電話に聞き入っていました。
(す、すごい、こんな電話、俺できないよ……)
次の日から、いよいよ本格的にアポ取り電話の開始です。
「えーっと、リクルートセンターのクギサキと申しますが、御社の新卒採用のご提案を・・・うんぬんかんぬん・・・」
「リクルートセンター!?ふざけるな!いったい1日に何回電話を入れれば気が済むんだ!」
こんなふうに怒られるのが大半でした。
なかには、「なに?ヤクルトセンター!?ヤクルトは間に合ってるんだよ!」と、訳のわからない答えが返ってくることもあり、前途多難なアルバイトの始まりなのでありました。
アポが一件も取れないまま勤務開始から1週間ほどが経ったある日、僕と同じくらいの年齢の茫洋とした若者が僕の隣の席にやってきました。
「俺とおんなじ学生A職かな・・・」
こう思って本人に聞いてみると、「おー、そうだよ。俺も学生A職だよ。内定者A職で、4月からは正式に社員になるんだけどな」
この男、名前をムライミツルといいます。
パフ創業の大きなきっかけを作った男との、運命的な出会いの瞬間でした。
つづく
ビジネスのことなどさっぱり分からなかった大学生の僕に仕事のイロハを教えてくれたのは、この「神田営業所」であり所長の若杉さんでした。
「最初の会社の上司と仲間たちは、その後のキャリアに大きな影響を及ぼす」とよく言われます。本当にその通りだと思います。1982年~1983年の神田営業所は僕にとってもパフにとっても、永遠に不滅なのです。
さて、本日は終日在宅です。
でも、オンラインでの会議や研修が立て続けに実施されることになってますね。これから準備に取り掛かりましょう。
では朝食&エール後、仕事します!
新・パフの創業物語<第12話>「日本リクルートなんちゃら会社」
2020年6月22日 (月曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第12話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1982年12月下旬。釘崎青年、大学3年生のクリスマス前の頃。
大学のサークルである人形劇団の団長を務めていた僕は、その年最後の公演を終え、ちょっとした達成感と充実感に浸りつつも「あー、これで俺の人形劇団生活も終わり……。青春の1ページも幕を閉じるんだな」という寂しさに似たものを感じていました。
我が「人形劇団ZOO」では、大学3年生の後期公演が終わった段階で後輩に道を譲るしきたりになっており、翌年に控えている卒論やら就職活動やらに精を出すことになっていたのです。
「就職といってもなー…なんだかピンとこないな…」
「卒論もまだまだ先だしなー…」
「ぐだぐだぐだぐだ…」
それまで人形劇やはとバスでむちゃくちゃ忙しかったことによる反動なのか、なんとなく燃え尽き症候群みたいにボーっとしていました。
ちょうどその頃、兄から「おい、お前うちの会社で働いてみんか?」と、声がかかったのです。
兄は僕よりも5歳年上で、当時は入社4年目の会社員。兄の立場は、総務部人事担当。会社の名前は、株式会社日本リクルートセンター。
「日本リクルートセンター?たまに学生の意識調査やらを発表しとる何やら胡散臭い調査会社みたいなところやろ?なんで東大まで出て、そんな訳の分からん会社に就職するん?」
兄が大学4年生の頃、就職先をこの会社に決めたと聞いて不思議に思って尋ねたものです。東大卒といえば、大蔵省とか弁護士とか検事とか、民間であっても銀行とか新日鐵とかの重厚長大企業に入るもんだという固定観念があったんですね(事実多くの東大生はそうでした)。
それはともかくとして、そんな兄が胡散臭い(と相変わらず僕は思っていた)自分の会社に来いと言う。
僕:「んー、まぁいいけど、いくら貰えるん?」
兄:「1日7時間の勤務で7,200円。残業を含めれば1日1万くらいかの」
なにー!イチまんえん!?
当時の学生アルバイトの相場は、せいぜい時給500~600円程度。はとバスなんて、時給450円の薄給でした。
それに比べて兄の会社は、時給に換算するとその倍以上。
僕:「やる、やる、今すぐやる。はとバスも辞める。で、いつから?」
兄:「おー、そうか。じゃあ適当な営業所を紹介するから待っちょれ」
その数日後、兄から「話をつけておいたから行ってこい」と指示されたのは、神田多町の薄汚いビルに入居している同社の営業所。20人くらいの従業員が働いている営業所で、行くなりそこの所長さんが大変親切かつ丁重に仕事の説明をしてくれたのでした。
「なかなか感じのいい会社じゃん!」と思ったのもつかの間、「じゃ釘崎くん、こっちの部屋にきてください」と通されたのはガラーンとした殺風景な会議室。
所長:「今日あと2時間ほどいいですか?」
僕:「へっ?2時間もですか?別にいいですけど…」
と返事も終わらぬ間に出されたのが、共通1次試験(注:1979年から1989年まで行われていた国公立大学の入学試験)みたいな問題冊子とマークシートの解答用紙。
所長:「一応、会社の決まり事で、全員にこのテストを受験してもらうことになっているんですよ」
と、ニコニコしながらその所長は説明するのですが、一応という割に2時間のテストというのはちょっと異常だ。
そう思った僕は、「あの~、このテストの成績が悪いとどうなるんですか?」と恐る恐る聞いてみたら、その所長は平気な顔をして「そりゃあ、仕事をしてもらうに足る成績じゃないとねぇ、いくらお兄さんの紹介とはいってもねぇ、ま、気にしないで受けてみて」と、いとも簡単に「ダメなら落とす」と言ってくれるではありませんか。
内心、『ゲッ!そんなこと聞いてねぇぞ!』とビビリつつも、「わかりました。頑張ります」と答えてしまったのでした。
その試験の名前は(もちろん後から知ったのですが)「SPI」。そう、今年就職活動をした諸君がさんざん受けてきた適性検査だったのです。
賢明な読書のみなさんは、もうお分かりでしょう。日本リクルートなんちゃら、という調査会社もどきの会社は、実は「リクルート」そのものだったんですね。
このSPI受験の日が、僕のその後の人生を大きく決定づけた記念すべき日だったのですが、もちろんその日の僕はそんなこと知る由もなく……。
抜き打ちで2時間以上も散々難しい試験をやらされヘトヘトになっていた僕は、帰りに神田の駅前で憂さ晴らしのパチンコに興じていたのでした。
つづく
高い時給に釣られて、なかば騙されるようにして受けたリクルートの入社試験(単なるアルバイトのはずだったんですが)。
果たして合格するんでしょうかね(‘_’)
この続きは、また明日載せることにいたしましょう。
さて、本日は行列のできない法律事務所に行って、そのあと大阪の方々とのテレビ会議です(正確にいうと会議ではないんですがw)。
では、朝食&エール後、行ってきます!
今日は「職サークルシンポジウム2020」です。
2020年6月19日 (金曜日)
わがパフのこの季節の風物詩である「職サークルシンポジウム」。第一回目の開催が2011年の5月でしたから今年で10年目=十回目の開催となります。
日記で第一回目のシンポジウムを検索してみましょう。
・・・見つけました!
⇒ 明日は職サークルシンポジウムなのだ(2011年5月19日の日記)
(以下、一部抜粋)
明日は、いよいよ職サークル主催のシンポジウムが開催される。その名も、 「これからの新卒採用の話をしよう!」だ。
企業の人事担当者を中心に、150名以上の方々が来場する予定だ。他にも同業の方々、メディア関連の方々、大学の就職・キャリア支援担当の方々もいらっしゃる。
このシンポジウムには特徴が2つある。
ひとつは、主催者はパフではなく、「職サークル」だということだ。
もちろんパフは、職サークルの事務局であり、いろんな活動の推進役を担っている。
しかし、職サークルの活動主体はパフ(だけ)ではない。
職サークルに参画している約50社の企業全社が活動主体なのだ。職サークル参画企業の方々は、「すべての社会人が、当たり前のように、若者たちを見守り育てる世の中をつくりだす」。そんな世の中づくりをするためには、「まずは自分たちの新卒採用の現場から」という、共通の理念・目的のもと、この職サークルに参画している。
それを象徴しているのが、今回のシンポジウムの特徴の2つめだ。
職サークルに参画している人事担当者や同業者の方々が寸劇を披露してくれるのだ。
新卒採用をテーマにした寸劇。キャストは全9名。そのうちなんと8人が、パフの社員ではなく、企業の人事担当者や経営者なのだ。
「新卒採用は誰のため?」と題した寸劇。演技は素人かもしれないが、役を引き受けてくれた皆さんの思いは熱く、決意は固い。
実は今夜が最初で最後の(つまり一回こっきりの)練習日なのだが、明日の本番に向けて、ばっちり決めていただきたい。
(抜粋以上)
なかなか熱いじゃんね。
東日本大震災から2か月しか経っていなかったこの時期、皆がこれからの日本をなんとかしなきゃと、必死に前向きに考えていたころ。パフだけの話でいうと、この2011年は業績の底で、必死に這い上がろうとしていたタイミグでもありました。
ちなみにこの第一回目のシンポジウムが終わった後の僕の感想を書いた日記はこちらです⇒ シンポジウムも終了し、新たな局面を迎えるのだ(2011年5月19日の日記)
こちらもちょっと抜粋してみましょうか。
そして、なんといっても寸劇。
「寸劇」とは名ばかりで、第一幕から第三幕まで、約40分間の完全な演劇である。
役者は全員で9名。うち8名が、パフ(職サークル)の協賛企業、またはパートナー企業の社員や経営者なのだ。
その役者陣の練習時間は、前日の夜と当日の午前中のみ。
こんな少ない練習時間だったのに、皆さん台詞を覚えるだけでなく、完全に役になりきっていただいた。皆さん、鬼気迫る演技だったのだ。
この寸劇の役者の台詞の中に、僕らが世の中に主張していきたいことが、ちりばめられている。
いちばん最後の、極東電器産業の佐々木社長が、人事の鈴木課長に対して発した台詞もそのひとつだ。
<佐々木社長>
おう、そうだな。若者は社会共通の財産だ。わが社のためだけの採用ではなく、この国の将来を支えてくれる若者たち全員を育てる気概で、採用に取り組んでくれたまえ。
このシンポジウムをきっかけに、企業にとっても学生にとっても社会にとっても、よりよい新卒採用のムーブメントが湧き起こってくれたらと思う。いや、湧き起こすのは、我が職サークルであるのだが。
(抜粋以上)
そうなんです。シンポジウムでは毎回、パフの社員や人事担当者に寸劇を演じてもらっていました。初回から5回目までは僕がすべての脚本を書いていました。そして6回目以降は、演劇畑を過ごしてきたオーオカに脚本や監修を任せてきました。
圧巻だったのは、2017年開催の第七回目のシンポジウムでした。⇒ 第7回 職サークルシンポジウム無事終了しました。(2017年6月23日の日記)
抜粋はしませんが衝撃的な寸劇の写真が掲載されています。ちなみに僕はこの寸劇で初めて、ブルゾンちえみのことを知りました(笑)。
さあ、そして本日の第十回目シンポジウム。
テーマは、
新卒採用に科学の武器を使おう!
「エンゲージメントを高める採用論」
というもの。
ゲスト講師として、神戸大学大学院経営学研究科准教授の服部泰宏先生をお招きしています。
今年は史上初のオンライン開催となりますが、オンラインでも寸劇はあるんでしょうか?(笑)
定員は100名でしたが、オンラインなのでその枠も取り払って現在その倍の200名以上の皆様からの参加予約をいただいています。
やっぱり参加したいな…という皆さん、11時くらいまでならまだ間に合うかもしれませんので、こちらから予約してみてください⇒ https://www.puff.co.jp/seminars/symposium2020/
僕もイチ視聴者として、本日のシンポジウムを楽しみにしたいと思います。
さて、本日は朝から本降りの雨ですが、決算の締めの仕事で出社しなければなりません。
では、朝食&エール後、傘をさして行ってきます!
新・パフの創業物語<第11話> 「宝塚月組のお姉ちゃんたちと…」
2020年6月18日 (木曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第11話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
大学1、2年の頃は、学校と人形劇団とはとバスとで、24時間フル稼働の状況でした。
・日中は、比較的まじめに授業に出席(休講時はパチンコ、麻雀、ボウリング)
・昼休みは、大学本館屋上で発声練習(♪あえいうえお、あお、あいうえお…)
・午後5:30~8:00、人形劇団の公演稽古などの活動
・夜9:00~、はとバスへ。夜のコースの添乗・車掌業務
・深夜~、大学の仲間の下宿で酒盛り
というのが平均的な僕の毎日でした。
土・日は、はとバスの団体旅行(外人さんのツアーが多い)の添乗で、 鎌倉・箱根・富士山のどこかに毎週必ず行っていました。
はとバス(ホームページより)
そうそう、はとバスの仕事で一番記憶に残っているのが、宝塚歌劇団の送迎の仕事です。
僕が大学2年生の秋、新宿コマ劇場で宝塚(確か月組)の公演が2週間連続で 行われていました。
女優さんたちは、恵比寿にある宝塚の寮に宿泊しており、はとバスは、コマ劇場から寮まで女優さんたちを送り届ける仕事を請け負っていたのです。
バスの運転手さんは毎日入れ替わるのですが、僕は車掌としてほぼ毎日女優さんたちをコマ劇場の通用門まで迎えに行き、そこからバスの駐車場まで誘導し、発車オーライして一路、恵比寿までの運行を繰り返していました。
僕のようなチンピラ学生にとって宝塚の女優さんなんて高嶺の花もいいところ。「挨拶以外は絶対に自分から話しかけるなよ!」と会社の人からも言われており、僕が彼女らに発する言葉といえば「お疲れさまでした」の一言だけでした。
一週間ほど車掌業務を続け、女優さんたちとも目で「ニコっ」と挨拶できるようになったある日の車中での出来事です。
「ねえ、お兄ちゃん!そこのマイクとって」
リーダー格の大物女優(あとで調べて分かったんですが、当時のトップスター、榛名由梨さんでした)から声をかけられ、「は、はい、ただいま!」と、その大物女優にマイクを渡そうとしたところ……、
「ちゃうちゃう、マイクはお兄ちゃんが持つんよ、いまからウチらがいろいろインタビューするから、お兄ちゃんがそれにマイクで答えるんや」
「へ? は、はい」
新宿から恵比寿までの約30分の間、僕はにわかアイドルみたいな立場で、女優さんたちにいろいろ弄(いじ)られており、ついには当時僕が作っていた人形劇の主題歌(ガンバの冒険やブレーメンの音楽隊の主題歌でした)まで歌わされてしまい、車中はもう「バカウケ」状態でした。
そして、その翌日からすっかり女優さんたちと打ち解けて、「お兄ちゃん、この後どう?」なんて誘惑されたらどうしよう…なんて毎日ドキドキしながら劇場まで迎えに行ってましたが、どうやらその心配は杞憂に終わったようで、いつの間にか公演最終日を迎えていました。
最終公演を終え、恵比寿に向かう送りの車中。例の大物女優が、おもむろに立ち上がり、「えー、はとバスのお兄ちゃん。今までの2週間、わがままな私たちにお付き合いいただき、1日も休むことなく恵比寿まで送ってくれてありがとう」と、お別れの言葉を喋り始めたのです。
そして、大きな花束と、靴下の詰め合わせと、寄せ書き(色紙)を贈呈され、最後にみなさん揃っての大拍手。いやー、これは感動ものでした。
(「立派なはとバスの運転手さんになってください」という色紙のコメントにはちょっと焦りましたが笑…)
バスの送迎の車掌の仕事で、こんなに感謝されるだなんて…。
「人と接する仕事、人に感謝される仕事っていいなー…」と、心から感じられた出来事でしたね。
この「はとバス」のアルバイトは、大学3年の秋まで、ずっと続けたのですがいろんな人(わがままなお客さんや気むずかしい運転手なども含めて)とのつきあい方を学んだ気がします。
そして、1982年12月(僕が大学3年生の時です)、運命的な会社との出会いが訪れたのでした。
その会社の名は「株式会社日本リクルートセンター」。
なにやら怪しい名前の会社ですが、この会社の人事担当者だった兄の口利きで「情報誌の営業アルバイト」の試験を受けることになったのでした。
つづく
ついにリクルート神田営業所との出会いですね。あとから思えば僕の人生にとって最大の出会いでした。ムライさんとの愉快な話も登場します。
さて、本日僕は終日在宅です。課題図書を読むことにしましょう。では朝食&エール後、行ってきません!