パフ代表の徒然ブログ「釘さん日記」

20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第10話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


1980年2月。

2度目の大学受験シーズン到来です。

密かに大学コンプレックスをお持ちの皆さんも、結構いらっしゃるのではないかと思います。僕もその昔、情けないことにその一人でした。

成績が悪く、勉強もしなかったくせに、「どうせ行くなら一番有名で難関の大学に行きたい!」なんてことを考えていました。

高校在学中のころは、教師主導・生徒不在の「目指せ!有名大学!」に反発し、大学に行くことそのものに対して疑問を感じていたのに、いざ大学を目指そうと思ったとたん、負けず嫌いなのか、ミーハーなのか、いわゆる「受験小僧」に陥ってしまいました。

が、大学入試って、結構フェアなもんですねー。

にわか受験小僧の実力など、ほとんど通用しなかったようです。

結果的に僕が入学した大学は、明治学院大学経済学部です。

この大学以外に受かったところが、もうひとつ。その大学は…明治大学政治経済学部でありました。

同じ「明治」つながりでありますが、校風というか雰囲気のまったく違う大学です。

田舎出身で、鈍くさい僕は、たぶん「明学」よりも「明治」に相応しい人間だと思ったのですが、迷った結果の選択は「明学」でした。

(#注意:明治のみなさんが「田舎出身で鈍くさい」と言っている訳ではありません!)

選択の大きな理由は、明学の経済的優位性にありました。

明学は当時、入学金と授業料が、他の私大に比べて格段に安かったのです。国立大学よりもやや高い程度で、比較対象の明治大学の半額以下でした。さらに家庭の経済状況と成績次第では「授業料全額免除」という制度もあり、これも大きな魅力でした(その後、僕はこの制度で大学2年生まで授業料が免除されました)。

明学は、貧乏人にたいへんやさしい大学だったんですね。知名度とか規模とか入試難易度の割に、社会で活躍している先輩が多いのはこの辺に理由があるのかもしれません。

ともあれ、港区白金台の(一見)お洒落な大学、明治学院大学が僕の愛すべき母校であり、1980年から1983年までの4年間、様々な「青春」を生み出す舞台となった訳であります。

大学生と言えば、やっぱり「サークルとバイト」です。

僕が選んだサークルは「人形劇団ZOO(ずー)」という団体。幼稚園や小学校、養護施設、児童館などを巡り、子供たちに対して人形劇の公演をドサ回りする団体でした。

自分たちで脚本を作り、人形を作り、主題歌・劇中歌を作り、照明を作り、大道具・小道具を作り、そして自ら人形を操りながら演じていく、プロさながらの劇団でした。

かぐや姫の「神田川」をモチーフにした映画「神田川」(草刈正雄、関根恵 子主演)の舞台がやっぱり大学の人形劇サークルだったこともあって、僕は「横丁の風呂屋」を期待しながら、そのサークル(劇団?)への入部(入団?)を決めたのでした。

人形劇団zoo(地方公演後の写真かな?)

 

そしてアルバイトは、大衆割烹と焼鳥屋を経た後、1年生の秋より「はとバス」の「バイト車掌」という珍しい職業へ……。このサークルとバイトを通じて得た経験、人との巡り会いは、その後の僕の生き方やパフの創業にも影響を及ぼすことになりました。

つづく


 

ふー、今日でやっと10話が終わりました。

この物語、実は全部で51話あります。ということは今やっと2合目までたどり着いたということ。まだまだ先は長いですね。

明日もこの続きを載せることにしましょうか。はとバスでのとっときのエピソードですので、どうぞお楽しみに。

さて、本日は朝から千代田区役所でのお仕事です。

中央区役所には創業時から数えきれないくらい行きましたが、千代田区役所には2年前に九段下に移転して以来まだ一度も行ったことがありません。どんな感じでしょうね。

では、朝食&エール後、行ってきます!

 

20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第9話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


1978年秋。

文化祭も終わり、周囲は皆、大学受験追い込みモードに突入していました。

僕もやっとこの頃からなんとなく「東京の大学に入りたいな…」と思うようになっていました。が、なんのことはない。「神田川の生活を、東京で送ってみたい」という思いと、「東京に行けば、大物になれるチャンスがあるかもしれん!」という実にいい加減な動機だったのです……。

そして1979年春。
3年間の放蕩生活がたたり志望の大学にはオール不合格。

でも「東京で暮らしたい!」という思いは捨てがたく、親に「東京で浪人生活をさせて欲しい」と頼み込んだのでした。

我が家はとても貧乏であったにもかかわらず、僕は高校の3年間を下宿住まいさせてもらっていました。

またこの上に、東京でひとり暮らしで親に経済的負担をかけるのも嫌でしたので、親には「アルバイトで生活費は稼ぐので予備校だけなんとか行かせて」と懇願し、やっと東京行きを認めてもらったのです。

4畳半一間、日当たりなし、風呂なし、トイレなし(共同トイレのみ)。家賃は、13,000円。千代田線の根津駅から西日暮里方面に10分ほど歩いたところにある木造アパート「恵荘」(めぐみそう)が、僕の東京生活のスタート地点でした。

画像は単なるイメージです(映画「東京物語」のオープニングタイトルです💦)

 

予備校は高田馬場の「早稲田ゼミナール」。アルバイト先は駅弁製造の「日本食堂」。考えてみれば引っ越しの段取り、予備校への入学手続き、アルバイト先の決定まですべて独りでこなしており、随分と自立した18歳だったと我ながら感心します。

予備校に通い始めた4月~6月にかけては、おそらく一生のうちで一番勉強した時期だったと思います。科目数が多くて現役時代に失敗した国立大学は捨て、私立一本で挑戦することに決めていました。

そして、夏休み前に行われた全国公開模試。結果はなんと全国4位!

これは、まぐれも大まぐれだったのですが、自惚れの強かった僕は「なーんだ、こんなもんかい。ちょろいねぇ」「早稲田も慶應もこれで合格確率80%以上か、楽勝だね」みたいな勘違いに陥ってしまったのです。

勉強はもうこれで大丈夫なので、あとは受験料やら入学金やら授業料やらを少しでも稼ごうと、アルバイトに生活の主軸を移していったのです。

日本食堂での泊まり込みの弁当作り、仕事は辛いのですが、休みの日や空き時間にバイト仲間と遊ぶのが楽しくて、相当にのめり込んでいきました。

生まれて初めてストリップなるものを見に行ったのもこの頃です。

当時、京浜東北線の西川口駅の側に「モーニングサービス付きストリップ」というのがありました。朝9時までに行くと牛乳とアンパンが支給され、しかも学割で千円ぽっきり。パンを左手に牛乳を右手に観音見学。

こんなことにハマリながら浪人生の夏は過ぎていき、いよいよ秋の公開模試のシーズンがやってきました。

バイトや遊びをやりながらも、そこそこ勉強もしてきた僕はまだ自信を持っていたのですが、試験後の結果(合格確率50%以下)を見て真っ青。

やばい。まさか2年連続浪人するわけにも行かず、以降はバイトからも足を洗って受験勉強中心の生活に戻ったのでした。

しかし、バイトをしないと生活費がない……。

入学金に充当しようと思って貯めていたバイト代は生活費として徐々に減っていき、それでも受験料分にだけは絶対に手を付けてはいけないと、爪に火を灯すような生活を送っていました。

受験前の秋~冬にかけては、パンの耳や即席ラーメンだけで過ごしたこともあり、僕が一生で一番、痩せていた頃だったと思います(今のぜい肉を分けてあげたい…)。

そして、いよいよ、1980年2月。2度目の大学受験シーズンが、やってきたのです。


懐かしいですね~。東京での初めての生活。夜勤の弁当作りのアルバイト。仮眠時間になると厨房に忍び込んで、とんかつをつまみ食いしたりしてましたね。美味しかったな(笑)。

さて、本日も在宅のつもりだったんですが、夕方から打ち合わせの要請があって、このあとのオンライン会議が終わったら出社することになりました。

そういえば今日は記念日でした。打ち合わせが終わったらすぐにとんぼ返りです。

では、まずは朝食に行ってきます!

 

麒麟が来るまで待ってます。

2020年6月15日 (月曜日)

今年の大河ドラマ「麒麟が来る」は久々の戦国時代もので、毎週日曜日のお昼を楽しみに観ています。

え?日曜日のお昼?

大河ドラマってBSは夕方の6時からで、地上波は夜の8時からでは?

ノンノン。

我が家はBS4Kテレビで朝9時からの放送分を録画して、ランチタイムに観ているのです。

・・・と、ちょっと自慢してみました(^^;

それはともかく、その日曜日のお昼の楽しみがしばらくお預けとなってしまいました。

コロナ野郎のおかげで4月以降の収録がSTOPしてしまったんですね。

でも代わりに、日曜日の新たな楽しみができました。

昔の大河ドラマの名シーンが登場することになったのです。

昨日は「独眼竜正宗」です。

これは僕が26歳、まだ独身だったころの大河です。このとき僕は兄のマンションに居候していたんですが、毎週必ず見ていました。

渡辺謙もまだ27歳。でもすでに大物俳優の雰囲気を漂わせていましたね。あの目力。片目だから余計に迫力があったのかもしれません。

この子役の名シーンもしっかりと放映されていました。

 

それと、勝新太郎の秀吉。ものすごい存在感です。

勝新太郎は当時55歳ですって。今の僕よりも5歳も若いなんて信じられないですね。

懐かしい名シーンが次々と飛び出し、合間には渡辺謙へのインタビューもあったりで、45分間があっという間に過ぎていきました。

コメンテーターとしての高橋英樹もよかったですね。高橋英樹は僕にとっての永遠の織田信長ですから。

そう、そして来週にはその信長の名シーンが見られそうです。1973年の大河ドラマ「国盗り物語」。僕が12~13歳。小学校6年生~中学校1年生のころでした。

「国盗り…」は、僕にとっての大河ドラマの原点なのです。

高橋英樹演じる信長のほか、秀吉は火野正平、家康は寺尾聡、そして明智光秀は近藤正臣。

本能寺の変のシーンなどは、いまでもありありと覚えています。

来週がとても楽しみなのでありました。

ということで長谷川博己光秀さん、視聴者は離れたりしませんので、焦らずにこれからの収録を進めてくださいませ。

 

さて、本日は出社しようと思っていたのですが、レイアウト変更工事が佳境で騒音が激しいため、在宅勤務に切り替えました(土日は工事の立ち合いで出社してたんですけどね💦)。

では朝食&エール後、行ってきません!

 

20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第8話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


なけなしの小遣いと、大事にしていた漫画本や小説本や、(一般に高校生にとっては大事な)参考書を古本屋に売り払ったお金で買ったフォークギター。

メーカー品ではなかったのですが、大学2年生までずっと愛用したギターでした。

血のにじむような(ほんとに左手指先から血が出ていた)練習で数ヶ月後にはコードで弾き語りができる位に上達。

しかし!ギターが弾けるようになっても所詮素人同然の腕前。難関の文化祭オーディションを通過するには、この程度の実力ではとても無理な状況でありました。

時は流れ、高校2年生でクラス替えになった時のできごと。

「ピアノを弾かせたら高校一番」と言わしめていた天才(名前はキクチ君)と同じクラスになりました。

そいつはクラシックはもちろん、ジャズでも、ビートルズでも、ユーミンでも、なんでもござい。しかも成績は学年でも常に50番以内で東大も射程圏内にあるスゴイ奴。劣等生かつ問題児の僕とは接点などあろう筈もない存在でした。

なんとかお近づきになりたいなと思っていた矢先の春のバス遠足。

新クラスの親睦を兼ねたもので、希望者はバスの中で自己紹介と唄を披露することになっており、僕は今ギターを練習していることと、できればバンドを作りたいことを喋って、唄を一曲歌いました。

その遠足の帰り、キクチ君から「僕と一緒にやらない?」と声をかけられた時には、「え!キミが僕なんかと?」と不思議に思う反面 「文化祭オーディション突破もこれで夢じゃない!」と小躍りしたものでし た。

それからキクチ君をリーダーとしたバンドが結成され、僕はギターとボーカ ルを担当。その年(高2)の文化祭のオーディションを見事突破。

しかし、キクチ君の方針で僕は唄無しで女の子がボーカルに(くやしい!)。が、バンド2年目。高校3年のときの文化祭で、僕らのバンドはチューリップの「青春の影」を演奏することに決定。ボーカルは・・・そう!僕でした(^^)v。

高校1年の時に舞台裏で「よーし、俺も!」と心に決めてから2年後。「念ずれば通ず」とはよく言ったもので、1,000人以上の観衆の前で歌うことが遂に実現されたのでした。

「♪きみのこころーへつーづく、ながいー、いっぽんみーちは・・・」

このチューリップの「青春の影」は、僕の忘れられない一生の想い出の唄なのであります。

 

音楽活動に精を出していた高校生活でしたが、一方で僕の下宿生活にも大きな変化が訪れていました。

高校1年の終わりの頃から友達の家に下宿させてもらっていたのですが、 その友達やお母さんと、ちょっとしたことで不仲になてしまい、その下宿を高校2年の3学期には出ていかなければならない羽目になっていたのです。

で、相談したのが中学校来の親友(否悪友)で、ライバル校の野球部キャプテンのワタナベ(第6話にちょっと登場)。

ワタナベ 「おー、そんなら俺んところの下宿屋は一部屋空いちょるけん、引っ越して来いや。下宿のオバサンには俺が口ききゃー間違いねーけん、大丈夫!お前が来たらおもしろくなるのー、がはは!」

すぐさまその下宿のオバサンと交渉を開始し、即決で翌週から引っ越すことに決定。通称「尾花下宿」と呼ばれているこの下宿屋が、僕が高校を卒業するまでの1年ちょっとを過ごした場所なのであります。

母屋と離れを併せて9人の学生(高校生7名、大学生2名)の大所帯だったのですが、議論と酒好きな連中が集まっており、毎晩のように酒を飲み明かしていました。

特に僕の隣の部屋にいた大学生(大分芸術短期大学声楽科1年)のヒガシさん(男)とはムッチャクチャ仲良くなり、そのヒガシさんの学友たち(男も女も)と尾花下宿生たちと、よくもまあ下宿を追い出されることもなく、また学校も退学にならずに済んだと思うくらい、酒と泪と男と女の青春ドラマさながらの生活を繰り広げていました。

そんなわけでパフ創業のルーツは、酒を飲みながら友人たちと熱い議論を繰り広げていた「酒と泪と男と女とフォークソングの下宿時代」にあるのかもしれません。

さぁ、次回はやっと「涙の貧乏浪人→大学生」に突入です!


以上、今週三話めの創業物語でした。

少しピッチを上げていかないと全話載せるのが難しくなるかなということで、来週からも週に2~3話は再掲していきます。

さて、いよいよ梅雨入りして蒸し暑いですね。夜も寝苦しくなりました。

きょうも基本は在宅ですが、ちょこっとレイアウト変更工事を覗きに行こうかなと思っています。

では、まずは朝食&エール後、行ってきません!

 

パフはあと3週間で第25期を迎えます。

このタイミングで様々なことが一変、一新されていきます。

 

まずはオフィス

何度かお伝えしているように、現在レイアウト変更工事の真っ最中です。

昨日出社して途中の状態を見たんですが、今までになかったような大胆な発想でデザインされています。

工事が完了するのが6月24日。まだ2週間ほど先ですが、来社されるみなさん、どうぞお楽しみに!

 

SFAとCRM。

SFAは、Sales Force Automation(セールス・フォース・オートメーション)、CRMは、Customer Relationship Management (カスタマー・リレーションシップ・マネジメント)の略ですね。

パフでは、ここ15年くらい(長い!)NIというシステムを中心に、エクセルやその他DBツールなどを組み合わせながら、営業管理や顧客管理を行ってきました。

過去何度もシステムの見直しが図られてきましたが、マイナーチェンジに留まっていました。

が、今回はまったくのリニューアル。システムも一新されます。慣れるまで大変でしょうが、これで生産性アップ、営業力アップ、顧客満足度アップ間違いなし。

アップしすぎて、アップアップにならないようにしないといけないですね(笑)。

 

働き方。

今般のコロナ禍に後押しされる形で、パフの社員の働き方も急速に変わってきました。会社に行かないと出来ない仕事以外は、在宅勤務でもOKとなっています。

また出社する場合でも、時差出勤が当たり前になっています。いままでもフレックス制度はあったんですが、あまり活用されておらず。それがこの数か月でフレックスすぎるくらいに自由になっています。

昨年の4月に改定したばかりの就業規則や人事制度ですが、この新しい働き方を追認する形での再改定の議論が進んでいます。

 

経営体制。

これも何度かお伝えしてきていますが、部分的に一新されます。7月1日に発表します。やっぱりね、という内容なので、さほどの新鮮さやサプライズはないかもしれませんが(笑)。

 

釘さん日記。

なんだかんだで20年ものあいだダラダラと書き続けてきたこの日記ですが、そろそろ潮時かなと思っています。あ、終わるっていう意味じゃないですよ。姿を変えて別の場所で新しく生まれ変わらせようかなと。これはまだ決定ではないですが、まじめに検討中です。

 

ざっと思いつくだけでも、これだけのことが変わり、新しくなっていきます。

変わることに抵抗のある人もいるでしょうが、人はみな新しいことにワクワクするものです。大きな変化を気持ちよく受け入れて、新しい世界をつくっていきましょう。

 

さて、いよいよ梅雨入りですかね。東京も午後から雨が激しくなるみたいです。

僕は本日在宅ですが、ちょっと出かけなければいけない緊急な仕事がつい今しがた発生してしまいました。

では雨が降り始める前に、行ってきます!

 

昨夜、サザンオールスターズがデビュー42周年記念ライブを無観客配信でやる、というニュースが入ってきました。

以下は、朝日新聞DIGITALに掲載されていた記事の引用です。


 サザンオールスターズがデビュー42周年を迎える25日に、横浜市の横浜アリーナで無観客ライブ配信をする。所属するレコード会社ビクターが9日発表した。収益の一部を新型コロナ感染症の治療や研究にあたる医療機関に寄付する。

 配信は午後8時から約2時間半の予定。「GYAO!」や「ABEMA」、「LINE LIVE」など八つのメディアが同時配信する。チケットは3600円で、各配信メディアで販売する。サザンとしては約1年ぶりのライブ。ふだんは最大1万7千人を収容する横浜アリーナでは、約30年前から年越しライブを開催しており、ファンは「聖地」と呼ぶ。

 桑田佳祐さん(64)は「他の多くの業界と同様、音楽、そしてエンタメ業界も今大変な困難にぶつかっています。完全に終息するまで、今後まだ長い戦いになることも予想されています」とした上で「エンターテインメントの未来に少しでも希望の光を灯(とも)せるよう、またファンの皆様やスタッフと一緒に心の底から笑顔になれる日が来ることを願い、精一杯(せいいっぱい)楽しいライブをお届けしたいと思います」とコメントした。

引用元⇒ https://www.asahi.com/articles/ASN695WNFN69UCVL016.html


このニュースに触発されたわけではありませんが、僕も25日に無観客ライブを決行することにしました。しかも「聖地」で( ^)o(^ )

25日といっても、さすがに6月25日は無理なので、その3か月後の9月25日(金)に開催する予定です。

なぜ9月25日かって?

それはまた追ってお知らせすることにいたします( ^)o(^ )

桑田さんは、「エンターテインメントの未来に少しでも希望の光を灯せるよう、またファンの皆様やスタッフと一緒に心の底から笑顔になれる日が来ることを願い、精一杯楽しいライブをお届けしたいと思います」とコメントしています。

かっこいいじゃんねー。

僕も見習って、みんなが心の底から笑顔になれるようなライブにしたいと思いますし、今までお世話になった皆さんに感謝の気持ちを込めてのライブにしたいと思っています。

入場料をいただくかどうかは要検討ですね。無料にすべきでしょうか。せっかくならチャリティーライブもいいかもしれないですね。

詳細が決まったら、まっさきにこの「釘さん日記」でお知らせしたいと思います。

みなさん、どうぞお楽しみに!

さて、どうやら明日あたりから梅雨入りしそうです。徒歩通勤できるのも今日まででしょうか。

では朝食&エール後、行ってきます!

 

昨日の「創業物語」は、僕が高校に入学して下宿生活を始めたころのお話でしたが、「釘さんの素晴らしき100の出会い」というコラム(2004年~2007年のメルマガに連載)にもこの時のことを書いています。

こちらも昨日の話とセットで記録に残しておこうと思います。


「男おいどん」 2005/02/14

前回、高校生時代の下宿生活の話を書いた。この頃の僕は、下宿生活では仲間に恵まれ充実していたものの、学校に行っている日中の時間は、不完全燃焼そのものだった。

僕が通っていた大分舞鶴高校は、大分県内では3本の指(?)に入る進学校だった。他の2つのライバル校と、東大を筆頭とする有名大学への入学者数を競いあっていた。

僕も高校に入学した頃は、「有名大学進学」という学校側が期待する進路に何の疑問も感じず、勉学に励もうと思っていた。が、その志は、わずか半年ももたなかった。

高校の先生たちが一方的に煽りまくる進学レースに嫌気がさしていったのだ。「有名大学入学」を目標に勉強に燃えている連中を見ていて、なんだか虚しさを感じるようになっていたのだ。

「ふん。大学進学のための勉強なんてくだらない。偏差値だけで人間の価値を決め付けようとする学校なんて最低最悪だ!」などと強がったりもしていた。

でも実のところは、思うような成績をあげられない自分自身を正当化しようとしていただけだった。単に受験戦争を否定し、勉強から逃げていただけだった。だからこそ不完全燃焼で、学校に通うたびに、虚しさを感じていたのだ。

悩み苦しんでいた17歳のころ

 

そんな高校時代、はまった漫画がある。講談社の週刊少年マガジンに連載されていた「男おいどん」という漫画だ。後に宇宙戦艦ヤマトや銀河鉄道999で有名になる松本零士氏の初期の作品である。

主人公は大山昇太(おおやまのぼった)という夜間高校に通う青年。鹿児島県出身で、中学を卒業後、大きな夢や志を持って上京するも、実際にはお金も実力も運も縁もなく、バイト先の工場もクビになり、夜間高校も中退するハメに。やることなすこと失敗だらけで、四畳半の下宿で悶々とした日々を過ごしている。

押入れを開けると、洗濯していないパンツ(いわゆる猿股というやつ)が山ほど詰め込まれており、そこにはサルマタケという奇怪なキノコが生息している。昇太は、お金が底をつくと、そのサルマタケを鍋でグツグツ煮て食べるという地を這うような生活を送る。

人から騙され、馬鹿にされ、軽蔑され続ける昇太。でも昇太には「こんなダメダメな俺かもしれないが、いつかは将来の日本を背負う大きな男になるんだ」という、大きな夢と志があった。

どんなに人から馬鹿にされようとも、「いまに見ちょれ!おいどんだって、おいどんだって、おいどんだって……」と歯を食いしばって頑張り続ける昇太。

当時ダメダメだった僕は、四畳半の下宿でひとり頑張っている昇太と自分とを重ね合わせて眺めていたのであろう。

失敗を続け、極貧生活を送っている昇太に、「負けるなー!ガンバレー!」と声援を送っていた。漫画を読みながら、ひとり泣いたこともある。傍から見れば相当に変な危ない奴である。

僕の下宿の本棚には「男おいどん」の単行本がズラリと並んでおり、落ち込んだときなどは、昇太にずいぶんと助けられたものだ。

・・・・・

12番目の素晴らしき出会い。劣等感に苛まれていた僕を、四畳半の下宿の本棚から励ましてくれた「男おいどん」の主人公、大山昇太のお話でした。


 

きょう再掲した「100の出会い」は、丸3年ものあいだ書いた自分史で、創業物語を補完するものになっています。これからも時おり、番外編として採録していこうと思います。

さて、事務所は現在レイ変工事のまっただなか。今日の工事立ち合いはヨシカワ副社長がやってくれるそうなので、僕は自宅待機です。

では、朝食&エール後、行ってきません!