新・パフの創業物語<第7話> 「酒と泪と男と女とフォークソングの下宿時代」(1)
2020年6月8日 (月曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第7話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1976年4月。
湯布院の山奥から抜け出して、都会生活(といっても大分市内だけど)に胸をふくらませ僕が入学したのは大分県立大分舞鶴高校。当時は、大分舞鶴、大分上野丘、大分雄城台の三高校がライバル関係にあり、東大を頂点とした旧帝大や国公立大、有名私大に何人送り込めるかを競い合っていました。
上昇志向のほとんどなかった僕は、そんな学校の事情とは一切関係なしに、とにかく都会でひとり暮らしできるのが嬉しくて嬉しくて、舞い上がっていました。
高校入学時の集合写真(前2列目の右端が僕ですね)
が!
下宿生活スタート初日から、その嬉しさが大きな不安へと変わっていったので す。
・ごはんがまずい・・・
・下宿のオバサンがちょっと・・・
・下宿の娘(当時高2)がちょっと・・・
・隣の部屋の下宿生(大分大学1年生)が困った奴で、麻雀や飲み会に毎晩誘ってくる
とまぁ、様々な不安要素があったわけでして、それぞれの不安要素はそれぞれの現実的な問題を引き起こしてしまったわけでして・・・。
学校の勉強などするはずもなく成績急降下。下から数えた方が早い成績で、最初の頃は目をかけてくれていた先生も、1年生の夏頃には「問題児」として扱われてしまいまいました。
この怠惰な下宿生活に転機が訪れたのが、秋の文化祭。
僕の高校の文化祭の最終日は、市内の大分文化会館(2,000名ほどが収容できる大ホー ル)を借り切って、コンサートを丸1日開催するという豪華なもの。「かぐや姫」の南こうせつや伊勢正三を輩出した高校としても有名で、フォークソングが好きな生徒が多かったんですね。
僕はたまたまこの文化祭のコンサートの舞台裏担当に任命され、楽器の搬入搬出や、幕の上げ下ろし、マイクテスト、出演者の誘導などなどを行っていました。
このコンサートでは、プロなみの腕前を持ったスゴイ先輩たちが、かぐや姫、陽水、拓郎、ビートルズ、チューリップ、アリス、その他当時流行っていたニ ューミュージックのコピーを演奏したり、オリジナル曲を披露したりしていました。
この模様を舞台の袖から見ていた僕は、すっかりそのパワーに魅せられてしまい、「よーし、俺も来年はこの舞台に立ってやる!」と、問題児生徒にもひとつの目標がメラメラと燃え上がっていったのです。
翌日、書籍・参考書なども古本屋に売り払い、なけなしの小遣いと併せて1万円ほどの資金で中古のフォークギターを質屋から調達しました。
そして、下宿の環境も変えなければなりません。
クラスの友人に頼み込み、 急遽その友人宅2階の一部屋を借りて新たな生活をスタートさせたのでありま した。。
(つづく)
この物語を再掲させるにあたって昔の写真を漁っていたんですが、高1、高2、高3になるにしたがって顔つきがどんどん変化していました。成長期だったんですね。
さて、会社はいまレイアウト変更工事まっだだなか。朝食&エール後、ちょっと様子を見に行ってきます!
パフの最終選考
2020年6月5日 (金曜日)
一昨日のパフ第24期最後のキックオフでは(パフ自身の)採用プロジェクトチームからの発表が長い時間を占めていました。
プロジェクトメンバーのハム(イシカワ)が、パフの最終選考について説明していたのですが、僕が昨年のいまごろ書いた日記を引用していました。
「お、俺に断りもなしに引用するとは、なかなかやるじゃないか。でもいい説明だな」と感心したので、ここでも再掲することにしましょう。
自分で自分に内定を出す。(2019年7月19日の日記)より
パフの新卒採用では、10年ほど前から内定を出さないことにしています。
出すのは選考結果のみ。合格か不合格かだけです(たまに保留や条件付き合格もありますが)。
じゃ、内定出しはどうしてるのか?
はい、こうしています。
最終選考者は応募者自身であり、自分が自分に最終的な合格=内定を出すようにしてもらっています。
自分自身に内定を出せるか否か。自分を、この会社の仲間として認めてあげられるかどうか。とことん考えて結論を出してもらいます。
「それって単なる内定承諾じゃん」と思われるかもしれませんが、ぜんぜん違います。
「あなたがどうしても来て欲しいっていうんなら、しょうがない、分かりました。そのオファーをお受けしましょう」。これが内定承諾です。主体が自分ではなく相手(内定を出した会社)にあります。内定者はそれに応えるかどうか。つまり客体になってしまいます。
一方で「自分で自分に内定を出す」という行動は自分自身が主体なのです。それだけ自分に、強い意志と覚悟と責任がなければできません。
パフの採用担当者にも、ここらへんの意味合いをキチンと理解してもらったうえで、社長面接をうっかり最終面接って言わないようにしてほしいですし、パフ側の最終段階の選考(社長面接とか)を最終選考だなんて言わないようにしてもらわないといけません。あくまで最終選考は、自分が自分に内定を出せるかどうかなので。
(再掲は以上)
実は一昨日のキックオフでは、まだ選考途中の学生が何人かいるなかで、先頭を切って最終選考に臨んだ学生がいたのでした。
👆この中に紛れています( ^)o(^ )
ということで、これから最終選考を迎える皆さん、参考にしてくださいね。
さて、本日は自分の身辺整理(?)をするための出社です。過去23年間の思い出やしがらみを捨てることにします。
若者たちが活躍する新しい文化や環境を作るために必要なことです。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」ってところですかね(^^ゞ
では朝食&エール後、埃をかぶっても平気な服装で行ってきます!
幻の2017年新入社員が小説家になった?
2020年6月4日 (木曜日)
昔からの日記読者の皆さんなら記憶されているのではないでしょうか?
2017年4月の入社直前に、パフから別の場所に旅立っていった元内定者サツキアヤのことを。
この日の日記に書いていましたね。
⇒ 皐月彩の壮行会(2017年3月31日の日記)
本当はイシガミ(カカ)と同期となるはずだったサツキですが、もともとは脚本家志望でした。
でも、「脚本家になるまえに、ビジネス現場でしっかりとした経験を積みたい」ということで、パフをファーストキャリアの場として選んだ・・・はずだったんですが……。その先はぜひ上の日記をご覧ください💦
で、そのサツキ、念願かなって今では何本ものドラマ制作に関わり脚本も書いています。「ウルトラマン」や「世にも奇妙な物語」とか。
昨夜、自宅に戻ったら、そのサツキからこんなもの👇が送られてきていました。
こ、これは?( ゚Д゚)
僕が生まれてこのかた読んだことのない、いわゆるライトノベルっていうやつではないですか。アニメのスピンオフらしいです。
検索したらアマゾンでも販売されていました。⇒ 小説 SSSS.GRIDMAN ANOTHER LOAD
サツキアヤ、まさか小説家にまでなってしまうとは、おそるべし。
彼女は内定者時代かなりの頻度でパフに出社して、新規開拓の営業もやっていました。短期間で何件もの受注を獲得するツワモノだったんですよね。
なんにしても、かつてパフで働いていた若者たちが、こうやっていろんな世界で頑張っているのは嬉しいものですね。
ところでこのライトノベル、とても分厚いんです。文字は小さいのに437ページもあります。時間があるときにボチボチ読んでみましょうか。還暦のおじさんがライトノベルを読んでたりしたら気持ち悪がられるでしょうが(苦笑)。
サツキアヤには将来、パフを題材としたドラマを作ってもらう約束になっているんですが、覚えてますかね。こうなったらぜひ近いうちに実現してもらいましょう。
さて、本日は朝から法律事務所に行って打ち合わせです。そう、先日新聞に出ちゃったあの件で(^^ゞ。
では、朝食&エール後、六法全書を抱えて(ウソデス)、行ってきます!
徒歩通勤の往復120分でやっていること。
2020年6月3日 (水曜日)
先日の日記にも書きましたが、僕はこのところ通勤電車は一切使わず、歩くことにしています。
片道60分。往復で120分。まあ、結構な時間です。
景色を眺めながらぼーっと歩くのもいいのですが、1日24時間のうちの120分はかなりの時間。有意義に使わねばと思っています。
で、最近やっているのは「音楽、聴きながら歩き」。
そんなのふつうじゃん、と思われるかもしれませんが、ちゃんとした目的があります。
i-PhoneのSiriに「僕の好きそうな音楽をたくさん聴かせて!」と、家を出発するときにお願いします。
そうするとsiriは、「おー、懐かしいなあ」「わー、なかなかいい唄じゃないか」という曲を次から次ヘと選んで再生してくれます。apple musicの契約をしているせいか、自分がダウンロードしてない曲もたくさん再生されます。
毎日、違う曲が流れるのがいいですね。歌手は知っているものの今まで聴いたことのなかったような曲がセレクトされるのも嬉しいものです。
そして「うん、これは次回のライブで歌いたい!」というものがあれば、すぐにメモをします。
これもiPhoneに対して喋るだけ。音声メモですね。
「還暦ライブセットリスト」というフォルダを作成して、そのなかに書き込んでいます。すでに16曲が蓄積されました。
「フォークソング居酒屋アイディア」というフォルダもあるんですが、ここには、お店の名前とか運営形態とか、歩きながら思いついたことを書き込むようにしています。
そんなことをやりながら歩くと、あっという間に会社に到着します。なかなか充実した時間なのです。
一方で心配なのは、アイディアやセットリストは溜まっていくものの、還暦ライブはほんとうに年内に開催できるのか、フォークソング居酒屋はいつ開業できるのか、ということです。
ライブも居酒屋も自粛要請されている昨今。これはなかなか難しい問題です。
でも、いざというときのために準備だけはしておかないとですね。セットリストは100曲くらい蓄積されそうな勢いです(^^)v
さて、本日は6月度のキックオフミーティング。第24期最後の全社員が集まる会議です。多くの社員はオンライン参加ですが。
それが終わったら、久々に銀行との対面打ち合わせ。来期予想される「激変」に備えるための打ち合わせです。
とうことで、本日も徒歩通勤です。
では、まずは朝食&エール後、行ってきます!
あと1か月となりました。
2020年6月2日 (火曜日)
気がつけば6月です。パフの第24期もあと1か月(正確には今日をいれて29日)でおしまいです。
来月からは第25期。切りのいい数字ですね。
パフでは来期を迎える前に、大掛かりなレイアウト変更を行います。2月6日の日記(オフィスレイアウトを変更します。)でもそのことを書いていますね。
👇こんなふうに書いていました。
とはいえ、僕は自分でレイアウトを決めることができません。
今回のレイアウト変更は「レイ変プロジェクト」を立ち上げ、そのメンバーたちに全権委任することにしたからです。任せたからには、社長とはいえ、無用な口出しは禁物です。わがままなんてもってのほかです。
予算の上限も決めました。移転するわけではないので、これだけあれば十分だろうという金額です。仮眠室を作ったりマッサージチェアを買ったりするのでしょうか……。
そう、僕は関わっていないのです。レイ変プロジェクトにすべて任せてきました。
任せていたら、十分だろうと思っていた予算すらも大幅に上回ってしまいました。口出ししようかとも思ったのですが、節税対策にもなるので「このレイアウトで生産性が向上して業績アップに繋がるんならいいんじゃない?」と許可しました。一年後にはその結果が出ますね。吉と出るか凶と出るか💦
レイアウトだけではなく、組織体制も大幅に変更となります。組織体制といっても25人の会社。全社が、大企業でいえば一つの部みたいなものです。どんな体制になっても一枚岩の結束を保っていけることでしょう。
他にも大幅に変更となるビッグニュースがあるのですが、それはまた1か月後に正式発表しましょう。ずいぶん前からいろんなところで漏らしているので、いまさら驚くようなニュースでもありませんが。
世界経済もビジネスも人々の生活も大きく変わらざるを得ないタイミング。ちょうど良かったのかもしれません。
なにしろあと1か月。激変に耐えられるよう、僕にできることは今のうちにやっておこうと思っています。
とりあえず今日は、レイアウト変更工事で(大きな音が出てしまって)迷惑をかけてしまうかもしれない階下のテナントさんに菓子折りを持って頭を下げる仕事。なんたって、お詫びするのは得意なので(苦笑)。
では、朝食&エール後、菓子折りをぶら下げて行ってきます!
新・パフの創業物語<第6話> 「中島先生」
2020年6月1日 (月曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第6話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
中学2年まで、いろんなコンプレックスに苛まれていた僕ですが、中学3年の担任の先生との出会いによって、それまでの闇が一気に晴れていくこととなります。
とても素晴らしい、一生を通じて尊敬できる先生でした。
その先生の名は「中島先生」。当時40歳ちょっと。考えてみれば今の僕とさほど大差ない年齢です。
でも、今の僕なんかまったく及びもつかない、とってもとってもどでかい先生でした。
中島先生(卒業写真より)
人と人とを決して比較しない、差別しない、個をものすごく大事にしてくれて、良いところを見つけだし伸ばそうとしてくれる先生でした。
コンプレックスを抱えていた当時の僕がどんなに救われたことか。
優しさと厳しさとを兼ね備えた先生で、顔が腫れ上がるほどのビンタを何回も経験していますが、全くと言っていいほど恨むことなんてありませんでした。
この先生のおかげで、僕のクラスの連中は、頭のいい奴も悪い奴も、顔の美醜や、運動の出来不出来、家庭の貧富なんかもまったく関係なく、みんな明るく楽しい中学生最後の年を過ごせたんじゃないかと思います。
僕が後年、大学でサークルの部長を務めたり、会社で組織のリーダーを務めた時、あるいは経営者となった今、この中3の時の先生を見習うことが実は多いんです(さすがにビンタはしませんが!)。
余談ですが、この湯布院中学3年一組には、渡辺という野球部(全国大会で準優勝するほど強いチームだった)のキャプテンだった奴がいました。彼とはいつも喧嘩ばかりしていたのですが、この先生のおかげでいつのまにか大親友となりました。その後も腐れ縁が続いており、今でもたまに会って酒を飲んだりしています。
こんな素晴らしき中3も終わりに近づき、高校受験の時期となる訳です。
天才と比べると凡才だった僕でしたが、それほど苦労することもなく大分市内の進学校に見事合格。そして仲の良かったクラスの仲間たちとも離ればなれになる日がやって来ました。
卒業式の後、教室にもどった僕たちに先生は多くを語らず、おもむろに背広のポケットから小さいハーモニカを取り出し静かに演奏をはじめたのでした。
その曲は「ふるさと」。
(うーさーぎー、追ーいし、かーのーやーまー…)
我らが湯布院中学校は、山村の中学校のため、都会(というか大分市内)の高校に入る僕は、高校入学後は湯布院を離れて下宿することになっており、本当にこの日は、多くの仲間たちと(先生も含め)離ればなれになる日だったんですね。
そんなこともあって、先生のハーモニカを聞いて号泣状態。号泣しているのはもちろん僕だけではなく、ほとんどのクラスメートが泣いていました。「3年B組金八先生」さながらの情景でした。いや、僕らにとってはドラマよりずっとずっと感動的だったはず。一生忘れることの出来ない、感動の卒業式の日でした。
そして、それから数週間後の1976年4月。大分県立大分舞鶴高校に晴れて入学する日がやってきました。
初めての親元を離れてのひとり暮らし。「酒と泪と男と女」の下宿生活がスタートするのでありました。
(つづく)
この中島先生は今から13年前(2007年)に他界されました。
その翌年、上の物語にも出てくる同級生の渡辺と二人でお墓参りに行った時のことを当時の日記に書いていましたのでリンクを張っておくことにします。
中島先生の墓前に、旧友とともに近況を報告した日(2008年1月27日の日記)
中島先生率いる湯布院中学3年一組の級友たちと過ごした楽しい日々。45年経ったいまでも、思い出しては幸せな気持ちになります。
さて、本日は朝から雨模様。歩いていくかどうか悩みどころですが、朝食&エール後、傘をさして行ってきます!
新しい徒歩通勤路
2020年5月29日 (金曜日)
緊急事態宣言が解除されて、朝の通勤電車も徐々に混んできたみたいですね。
「みたいですね」というのは、僕は電車には乗らずに歩いているから。新型コロナ感染拡大防止対策のためではなく、旧来型肥満防止対策のためです(笑)。
普段は、浜町⇒東日本橋⇒東神田⇒靖国通り⇒岩本町⇒駿河台下⇒神保町⇒九段下という経路で歩いています。
でもそろそろ飽きてきました。
昨日は経路をちょっと変えて、浜町⇒人形町⇒三越前⇒読売新聞本社前⇒竹橋⇒九段下という経路で歩きました。
昨日の竹橋付近の景色です
晴れた日に皇居を見ながら歩くのは快適ですね。
これから梅雨に入った時が問題ですが、合羽でも買うことにしましょうか。暑いかな。旧来型肥満防止対策のためには効果的かもしれませんがw
ということでいつにも増して、中身のない手抜き日記でした😝。
では、本日も朝食&エール後、1時間のウォーキングで行ってきます!