大阪の朝
2016年3月28日 (月曜日)
昨日の夕方から大阪に来ている。
会って話をしたかった人が大阪にいて、予定を早めて大阪入りしたのだ(表に出せない話題なので詳細はカットします)。
宿泊先のホテルは、梅田の新阪急ホテル。大阪駅からすぐのところにある、外国客や団体客が圧倒的に多いマンモスホテルだ。
チェックインしたカウンターには中国語を中心とする外国語が飛び交っており、日本人の僕はなんだか肩身が狭く感じるくらいだった(苦笑)。
本日の仕事は大阪から環状線で2駅京橋方面に向かったところにある桜ノ宮なのだが、その近辺のホテルはすべて満室。予約することができなかった。京橋界隈のホテルもぜんぜん予約できず。
で、仕方なくこのホテルを予約したわけなのだが、いやあ高い高い。10年前にもこのホテルに泊まったことがあるのだが、そのときの三倍くらいの料金だ。
その割に部屋は狭くて窮屈。ベッドと小さな机があるだけだ。これでこの値段はないよなあ…と思ったり。
需要と供給の関係だといえばそれまでだが、出張族にとっては(旅費の上限が定められている会社も多いと思うので)深刻な問題ですね。
あ、そういえばホテルの宴会場では、大相撲の大嶽部屋(前身は大鵬部屋)の千秋楽祝賀会が開かれていた。
髷を結ったお相撲さんがたくさん出入りしてたのはそのせいだったんだな。
・・・と、またしてもどうでもいい話題を書いているようにみえるが、これでも必死に書いている。
持ち歩きようのPC(VAIO)が超イマイチ(スピードが遅い&キーボードが打ちにくい)なのだ。一行打つのにいつもの倍くらいの時間を要している。ちなみに、ここまでですでに20分要してしまった(´・ω・`)。
ということで、本日はここまで!手抜きのそしりは甘んじて受けましょう( ̄▽ ̄)。
では、(朝食はもう食べたので)あさ後、桜ノ宮まで行ってきます!
昭和は遠くなりにけり?
2016年3月25日 (金曜日)
懐古主義者を嫌う(否定する?)人たちも多いようだけど、僕は昔のシーンを思い出して懐かしむのがとても好きだ。
ジジイになったからかな(笑)。
昨日は、朝イチで茅場町から五反田まで地下鉄で行き、そこから東急池上線に乗り換えて蒲田の手前にある雪が谷大塚に向かった。
五反田は池上線の始点だから、池上線沿線の風景をほぼ味わったわけだ。
僕は学生時代、この池上線を利用することがとても多かった。
先輩や後輩の下宿があった戸越銀座には毎日のように行っていたし、荏原中延や旗の台付近はよく散歩していた。洗足池にはちょっとした甘酸っぱい思い出もあったり(#^.^#)。
僕が乗車していたころの池上線の車両は、深緑色のボディーで床が木でできていた。当時から「古っちいなあ…」と思っていたが、今となっては昭和を象徴するような見事な車両だったと思う。
夜はお客様との会食で新橋に向かった。
銀座で食事することは多いのだが、夜の新橋で食事するのは久しぶりだった。
銀座と新橋は駅を挟んですぐ隣なのだが雰囲気はガラッと違う。
銀座が、お金持ちの社長さんが豪勢に遊ぶ街だとすれば、新橋はサラリーマンの聖地という代名詞でもわかるように、安月給のサラリーマンたちが安心して酔っぱらってフラフラできる街、というイメージだ(あくまでイメージですよw)。
で、二次会で訪問したのがこの店。
もう、ザ・昭和!としか形容しようのない、ふる~い、ぼろーい、せまーいスナックだったのだ。
でも懐古主義の僕としては大満足。ひとりで、またふらっと行ってしまいそうな気がする。ママさん美人だったし(#^.^#)。
と、またどうでもいいことを書いてしまった。
来週は、時節柄少しはマジメなことを書くことにしましょう。
きょうはいい天気だな。
では、いつもどおり朝食&あさ後、開花したばかりの桜を愛でながら行ってきます!
ハラハラドキドキの講談社UST対談
2016年3月24日 (木曜日)
いきなりだけど、この似顔絵。
昨日は、夜7時半より、このようなことを行うことになっていた。
そう、Ustreamである。
パフ創業時より、ずーっと長きにわたって職サークルの協賛企業になってくださっている講談社さんとの対談を行うことになっていたのである。
上の画像は放送開始前。僕と採用担当のヤマサキさんとののどかな談笑の風景。
しかし!
この画面の裏側で、準備スタッフは、オロオロ、ワタワタ、ドタドタ、バタバタしていた。
なぜか?
ネットにうまく接続されないのである。
接続されたかと思えば、すぐに切断されてしまい安定しない。
それもそのはず。Ustの機器を無線LANで繋いでしまっていたのだ。
「無線は不安定だから有線で準備したほうがいいよ」という、僕の前日のアドバイスは空しくも無視されていたのだった((+_+))。
スタッフがあまりにもオロオロ・バタバタしているので、さすがの僕にも緊張が伝わってきた。
放送開始まであと30分しかない。
これ、マジでヤバいな…。
しかし、ヤマサキさんは落ち着いていた。
悠長にも、こんな漫画を描いていたわけだから(笑)。
夜7時半。放送開始の時間になった。
どうにかこうにか接続も安定し、Ust対談は始まった。
そして途中何度か切断されながらも、なんとか放送は完了。
いやあ、久々にドキドキハラハラしたな。
講談社さんとのUst対談は今年で5年目。毎年のように、なんらかのトラブルに襲われているのだが、今回のトラブルは史上最大級ではなかったかな(苦笑)。
でも最後は、オロオロ・バタバタのスタッフ(実は執行役員のヨシカワさん)と、講談社採用担当のヤマサキさんとで、こんなふざけた写真も撮れるくらいになったので、まあ結果オーライとしましょうかね(笑)。
この講談社Ust対談。来週も同じ曜日同じ時間帯(3月30日の19時半~20時半)に放送します。
講談社にエントリーしている学生のみなさん、どうぞお楽しみに!
来週こそは、オロオロ・バタバタ&ドキドキ・ハラハラせずに済ませたいものです(´・_・`)。
ヤマサキさん、昨夜はたいへん失礼しました&お疲れ様でしたm(__)m。来週の出演はゴトウさんとのことですが、ヤマサキさんにはバーテンダー姿で、ぜひ響のロックを運んできていただければと(笑)。
では、そろそろ朝食&あさ後、行ってきます!
念願の西荻窪にて…。
2016年3月23日 (水曜日)
あれは昨年の6月末だった。土、日、月の3日間、西荻窪にて朝から夜まで(最終日は朝から朝までw)仕事をしていた。
※そのときの模様は、ここに書いている⇒ただいま最終コーナーを回ったところ……。(2015年6月30日の日記)
西荻窪はとてもいい街で、吞兵衛オヤジの僕にとって、よだれが出るような店がたくさん並んでいる。
でも、このときは仕事が終わらず、結局3日間とも夜の街に繰り出すことができなかった。
いつかはリベンジしなきゃと思いつつ一年近くが経ってしまっていた。
が、昨夜。
念願かなって、ついに西荻窪にて飲むことができたのだった。
一軒目は「戎」という焼鳥屋さん。
茅場町の焼き鳥もいいけれど、ここの焼き鳥もサイコー。
二軒目は、店の名前は忘れたけど、こんなところ。
全国各地の地酒をたくさん取り揃えていた。
でもやっぱりいいのは、この街のこの雰囲気。昭和だなあ、いいなあ、懐かしいなあ……。
僕が東京に出てきたのが1979年の春。なんと37年も住んでいることになる。
でも、行ったことのない街、行ったことのない店は、数えきれないくらい無数にある。
西荻のような素敵な街も東京には、まだまだたくさんあることだろう。
茅場町や築地でばかり飲むんじゃなくて、これからは計画的に東京のいろんな街に繰り出すのもいいかもね♪
さて、昨夜飲み過ぎたわりには、今朝は意外と爽快。
佃公園の桜もそろそろ咲いたかな?
あさ後、ちょっと遠回りしたウォーキングで行ってきます!
三連休だったのね。
2016年3月22日 (火曜日)
先週末の土曜日から昨日の月曜日まで、世の中は三連休だった。
しかし、僕らの周辺(企業の採用担当者や採用支援事業者や学生たち)は就活シーズン真っ只中ということもあり、完全に休むことのできた人たちは(学生も含め)少なかっただろう。
かくいう僕も、土曜日はとある企業の「スペシャルセミナー」の講師として登壇していた。なぜスペシャルかっていうと、どうやら僕が登壇するのでスペシャルだったということなのだが…(”^ω^)。いやいや、ありがとうございました。
雨が降っていたにもかかわらず参加率も高く、大勢の学生が参加しており、主催企業の満足度も学生の満足度も高かったようだ。まずは一安心。ホッとした。
この日はセミナー後、豊洲まで映画を観に行った。
実はこの三連休。我が家の同居人たちは皆、旅行に出かけてしまって、僕は独りぼっちだったのだ。
誰もいない家に帰ってもツマラナイということで観た映画が「家族はつらいよ」。うーむ。なんだか自分の10年後を見ているような気がして可笑しかった(いや、笑ってる場合じゃないのかもしれないがw)。
翌、日曜日は完全オフ。明け方は曇っていたのだが次第に晴れてきて気温も上がってきた。で、昼前から皇居に出かけた。久々のランである。
腰の痛みもすっかり癒えており、気持ちよく走ることができた。
ゆったりランを楽しんだ後、靖国神社まで足を伸ばしてみた。皇居周辺の桜はまだ開花していなかったのだが、ひょっとしたら靖国神社の桜は咲き始めたかもしれないと思ったのだ。
ビンゴ!
ごく一部だけだったが、見事花開いていた。公式な開花宣言は翌日だったので、なんだか得した気分。
やっぱり桜が咲くと心が自然とウキウキする。日本人でよかった(^.^)。
昨日の月曜日は、朝から丸一日、会議の日。午前中は九段下で。午後は茅場町で。
来シーズン以降の企画を練りこんでいくためのもので、執行役員、営業最前線のメンバー、中途入社のツワモノたちが顔を揃えての会議だった。この会議で出たことを今後の商品やサービスとして企画していくのは大変なことだけど、少なくとも全員のアタマの中や向かうべき方向は揃ったのではないかな。
企画担当者、サクサクとしたスピードでの企画化頼んだよ!
ということで、あっという間に終わった三連休。なんだかんだいって普段はできないことができて充実したのかな。昨夜は家族も戻ってきたことだし(苦笑)。
では、大詰めのあさ後、行ってきます!
のろママ、早く元気になってね!
2016年3月18日 (金曜日)
先日、溜まったツケを払おうと思い、宴席からの帰り道に新富町の「のろ」さんに寄ったときのことである。
いつもは賑やかなのろさんなのだが、お客さんは常連のご婦人だけ。あとはマスターのナベちゃんがカウンターの中にいるだけだった。
そしていつもなら、「あらクギサキさん、おかえりー♪」と明るく元気な声と笑顔で迎え入れてくれるママの姿も見えない。
僕がカウンターの隅っこの席に座るなり、「クギサキさん、実はママ交通事故に遭っちゃったんだよ」と、ナベちゃんが神妙な面持ちで教えてくれた。
「え!」
一瞬、次の言葉を失ってしまった。
「だ、大丈夫なんですか?」と、少し間をおいてやっとナベちゃんに聞くことができた。
「うん、なんとか。命には別条ないということなんで安心してください」
ホッとした。
ナベちゃんから事故の詳しい状況を教えてもらったのだが、交通事故というのは気を付けていたとしても不意に襲ってくる災害のようなものだ。ママもずいぶんとショックを受けていることだろう。
すぐにでもお見舞いに駆けつけたかったのだが、残念ながらしばらくは遠慮しなければならないとのこと。
ということで、僕と日頃のろママにお世話になっているパフの社員たちとで「お見舞いメッセージ」を書いて、ナベちゃんに届けてもらうことにした(この日記を読んでくださっている「のろファン」の皆さんからもぜひ頂戴できればと思います。来週のあたまには届ける予定です)。
では、ママの一日も早い回復を祈りつつ、本日は大昔(2006年10月)に書いたコラム(釘さんの100の出会い)を転載することにします。
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<第97話> 「癒しのスナック『のろ』のママ」 2006/10/30
パフの創業時の事務所は、東京都中央区新富のオンボロビルの一室。机を目一 杯押し込んでも6席しかはいらないような10坪ほどの小さな小さな事務所だっ た。 この創業時の事務所から歩いてすぐの場所にあるスナックが、きょうのお話し の主人公。お店の名前は『のろ』。10席ほどのカウンターとテーブルがひとつ だけの、小さなスナックだ。 会社を作ったばかりのころ、(このコラムにも以前登場した)東映の常務と一 緒に飲みに行ったのが最初だった。「『のろ』さんは、安心して飲めるお店で すよ。ママさんもとてもいい人だし…」と、近所の居酒屋のオヤジさんに勧め てもらっての初訪問だった。 お店に入るなり「おかえりなさい、お疲れ様でした~」と、温かい声が飛んで きた。声の主は『のろ』のママさんだ。カウンターの中から、満面の笑顔で発 せられた言葉だった。 初めてこの「おかえりなさい」の声を聞いたとき、とても懐かしく癒された気 分になった。「おかえりなさい」というたった7文字の言葉が、これほどまで 心に沁みたことは今までなかった。 以来僕は、最低でも一週間に1回は、この『のろ』に足を運ぶようになった。 お客さんと一緒に行くことが多かったのだが、ひとりで行くことも時にはあっ た。特に辛いことがあった時、ママの「おかえりなさい」の声を聞くことで、 どんなにか救われたことか。 『のろ』のママは、僕より少しだけ年上。小柄なのだが、なぜか大きく見える。 辛いことも悲しいことも、すべてを包み込んでしまう器の大きさと、どんなこ とでも許してしまいそうな優しさが、小柄なママを大きく見せてくれたのだと 思う。 もともと『のろ』は、ママのお姉さんが喫茶店として始めた店らしい。最初は、 お姉さんの手伝いで店に出入りしていたのだが、お姉さんが病気になり、すべ ての切り盛りをママが行うようになった。ママがまだ18歳。高校3年生の頃の 話しだ。それからずーっと、ママがこのお店を守り続けてきたらしい。 『のろ』のスゴイところは、ママの「おかえりなさい」だけではない。手作り の料理が美味しいところだ。豆腐料理、肉料理、野菜料理、煮物、漬物、おひ たし、極めつけは特製ライスカレー。普通の食堂やレストランでは、決して出 会えることのない料理ばかり。まるで田舎に帰ったような気分になる品揃えな のだ。 『のろ』が好きなのは僕だけではない。パフの若い社員も、皆大好きだ。若い 社員にとってママは、お母さんのような存在なのかもしれない。 パフが生まれてもうすぐ9年。パフと『のろ』との出会いも、もうすぐ9年に なる。いつどんなときに行っても、ママの変わらぬ「おかえりなさい」の声が 迎えてくれる。 喜びも悲しみも、パフのすべてを見守ってくれた小さなスナック『のろ』。そ して『のろ』を30年以上の長きに渡って守り続けてきたママ。僕にとって、パ フの全社員にとって、かけがえのない65番目の出会いのお話しでした。 |
(転載以上)
ママー、早く元気になってねー(´・_・`)。
ではママの回復を願いながら行ってきます!
プレジデントチャレンジお疲れ様でした!
2016年3月17日 (木曜日)
プレジデントチャレンジ。昨年の10月から密かに進行していたプロジェクトである。
「密かに」と言いつつ、10月21日の日記で説明していた。ちょっと長くなるが、以下、引用してみよう。
プレジデントチャレンジが始まった!
2015年10月21日 (水曜日)
昨日、「プレジデントチャレンジ」のことを書こうとしたのだが、残念ながら時間切れになってしまったので、その続きを今朝は書いてみよう。
そもそもプレジデントチャレンジとは?
この夏の「100×10チャレンジ」から派生して走り始めたプロジェクトである。
100×10チャレンジで学生が与えられたミッションは、多くの社会人に自らアポを取って会いに行くというもの。5人編成のチームで合計100名の社会人への訪問をミニマム目標としていたのだが、訪問先の社会人の多くは、パフが用意していた(あらかじめ職サークル協賛企業の人事の皆様にお願いし、会ってくださる社員の皆さんの名簿をご提供いただいていた)。
なので学生がアポのお願いをした場合、よほどのことがない限り(時間が許しさえすれば)彼らの訪問を受け入れてくださっていた。訪問してからも、社会人の方々は総じて学生たちに優しく接してくださっていた。
比較的ハードルの低い社会人訪問だったわけである(それでも経験のない学生にとってはかなりシンドイことなのだけど)。
それに対して、このプレジデントチャレンジは、かなりハードルが高い。
まず、訪問先は経営者(社長および役員)なのである。しかも、その訪問先の大半は自分たちで開拓してもらう。そして、訪問数は(プロジェクトチーム全体で)100名。期限はたったの8週間。
このチャレンジャブルなプロジェクトに参加するのは、100×10チャレンジで特に活躍していた学生10名。ひとりあたり平均10名の社長を開拓しないと目標を達成できないわけだ。
パフの営業マンであっても(昨日書いたようにチキンなので)なかなか社長に対してアポを取ろうとしない。それを学生たちにやらせようというわけである。
想像しただけでも楽しくなってくる。昔の(22歳だったころの)僕が、何もわからず「社長をお願いします!」と、1日100社の会社に電話していたことを思い出す。
で、このプロジェクトを企画して牽引しているのも学生。タニグチという、昨年の100×10修了生で、来春から某協賛企業に入社することが決まっている奴だ。内定直後に、「卒業するまでパフで働かせてください!」と、僕に直接志願してきた。「飛んで火にいる夏の虫」とは、タニグチのような奴のことを言うのかもしれない(笑)。
(以下、省略)
このプロジェクトメンバー。最後まで生き残ったのはリーダーの谷口以外には、3名の大学3年生のみ。企画としては完全に失速してしまったのだが、最後まであきらめずに活動し続けたこの3人はアッパレである。
ということで、昨日はこの3人プラス谷口がプロジェクトの最後の打ち上げを行うというので、僕も参加させてもらい、夜は皆で肉を食べに行った。
4年生の谷口、3年生の石渡、櫻井、長谷川。みんなそれぞれ素晴らしい若者だ。
谷口は来月から新社会人としてデビューする。プレジデントチャレンジ中は、さんざん僕からダメ出しをされながら、そして悔しい思いをしながらも、3年生のメンバーを引っ張ってきた。ヘコタレナイやつなので、社会人になってからも(すぐには無理だろうが)上に昇って活躍することだろう。
石渡、櫻井、長谷川は、現在絶賛就活中である。彼ら、彼女らであれば、いろんな企業から引く手あまただろう。就活を終えてからも、そして社会人になってからもずっと付き合っていきたい。特に石渡けやきちゃんと、櫻井よしのちゃんには、社長秘書として戻ってきてもらいたい(#^.^#)。
ということで、みんな、本当にお疲れ様でした。
これから、みんなそれぞれの道を頑張って歩いていこう!
<追記>
以下、3年生の3名からもらった振り返りレポートである。記録と記憶にとどめるため、一部抜粋して貼り付けておきます。
—
●私は、8月から始めた100×10チャレンジからプレジデントチャレンジまでのこの活動を通して、私はまず、人として変わったと感じている。それは自分で感じたのはもちろんだが、周りの教授や友人にも言われた。具体的に例を挙げると、人と話すことの素晴らしさを知った。私はこれらの活動を始める前は人と話すこと自体嫌いで、人との接点も極僅かだったが、
活動を通して、初対面の人と話すことは自分の中に新しい価値観が加えられ、幅が広がるというのを回数を重ねるごとに思った。
そして、私は自分に自信を持って活動することができるようになった。これからは、これらの得たことを自分のものとして就職活動に、そして、社会に出た時に活躍して社会に恩返しができればと思う。(長谷川)
●アウトプットをしないと上手くいかないということがわかった。目的が相手に伝わらず、活動があやふやになってしまう結果となってしまった。目標を達成できず、メンバーも一人一人やめていってしまったが、チームで試行錯誤しながら訪問に行ったことは私にとってはとても貴重な経験となった。後輩にも是非チャレンジしてもらいたいので、チャレンジできる場所を提供していただきたいと思う。(櫻井)
●「自分が何者で、何が目的で、何をしに来たのか」これを説明することがいかに難しいかを、この活動を通して嫌という程学んだ。自分では完璧と思った企画書を一瞬で突き返されたり、何度も練習したプレゼンは意味不明と言われたり。しかし、このつまずきを突破することは就活においても社会人になっても、絶対に必要な課題だと考え、色々と工夫したのが懐かしい。
たくさん困難なことはあったけれど、私はこの活動に参加して本当に多くの人と出会い、多くを学び、考え方が大きく変わったことは自信をもっていえる。「1人でもできるじゃないか」と、チームから抜けていった仲間もいたけれど、私がここまで続けられたのは、パフという会社があって社員の方々の協力があって谷口さんの努力や気合い、優しさのおかげだと思っている。本当に参加してよかった。(石渡)
最後に釘崎社長、保坂さん、吉川さん、谷口さんをはじめたくさんの方に大変お世話になりました。本当にありがとうございました。
これからの就職活動も頑張って行きます。今後ともご支援の程、よろしくお願い致します。
良い報告を待っていてくださいね!
<さらに追記>
再度、読み返したら泣けてきました。
「私がここまで続けられたのは、パフという会社があって社員の方々の協力があって谷口さんの努力や気合い、優しさのおかげだと思っている。本当に参加してよかった。」
最高のメッセージですね(T_T)。